やわいトゲトゲ
いつまでたっても昔の癖が抜けなくて、大学生になった今でも私は及川のことを及川と呼んだ。時折それに不満げな顔をするくせに、彼も彼とて私のことは依然として苗字と呼ぶのだから、これに関してはイーブンである。
とはいえ、このままこれまで通りのぶつかり稽古よろしくな関係性を続けていくのは、やはりいかがなものかという思いは、無くはない。
「はーやばい超おもしろかった」
「でしょー、これほんとおススメ」
目尻に涙を溜めながら、DVDデッキからディスクを取り出す及川の背中は、昔から変わらず広かった。中学や高校の頃に比べ、その広さに加えてたくましさやほとばしる気迫のようなものは増したと思う。そして最近不本意ながら、私はこの背中を見てたまらない安心感を、覚えているのであった。
「さすが苗字は俺のツボ外さないね」
「んはは、任せて」
ほくほく満足そうな顔をした及川の手によりケースにしまわれて、テレビ横のカラーボックスに並べられたDVDコレクションの仲間入りをさせてもらったDVDは、今日私が彼にプレゼントしたものだった。今日は、及川の誕生日なのだ。
この男とは、かれこれ小学生の頃からの付き合いだった。世間一般的に言えば、幼馴染という関係にあたるのだろう。だが、私が彼と初めて会った時にはすでに、岩泉一という彼とは真逆の男らしい男が傍にいたために、なんとなく私が彼の幼馴染を自称するのは気が引けた。というのは、少し余談である。
丁度このくらい、夏休みに入ったばかりの蝉しぐれが降り注ぐ暑い日のことだった。記憶の断片を手繰り寄せるとそこに、きらきら輝く噴水、どろどろに汚れたタンクトップ、木漏れ日模様に染まった無邪気な笑顔。あの頃から早くも十年以上、まさかこんなに長い時を共に過ごすことになろうとは、微塵も思っちゃいなかったのに、人生とは不思議なものだ。
お笑いDVDの鑑賞会で笑い疲れ火照った身体を冷やすためか、もそもそと動き始めた及川が扇風機の前に胡坐を掻いて座った。固められてない髪の毛が、フワフワと揺れる。
仙台よりも、ここ東京はやはり熱い。熱帯夜と呼ぶにふさわしい蒸し暑さに、私だって扇風機のそよ風の恩恵にはあやかりたかった。でかい図体に憚られ、私のところはあっけなく無風になった。
「ちょっと」
不満を余すことなく声に乗せながら、ソファから降りて及川のもとへとにじり寄る。すると、及川はぎょっとしたように一瞬肩をびくりと震わせた。ほら、イーブンだ。と、突然思うのはなんだか不思議なのだけれど。
「…すごいね、ラブメールの嵐」
「ちょ、見んな」
「見せて」
「だーめ」
何をそんなに驚いたのかと思ってみれば、彼が手にしていたスマホには、誕生日を祝う大量の友人からのメールが表示されていた。容姿もとびきり良くて、人当たりも良いこの男が、ひとから好かれないわけは無かった。そんなことは今に始まったことではないというのに、そのメールの中に可愛くピンクでデコレーションされた凝ったメールがあるのが見えてしまうと、やっぱり複雑な思いには、多少なる。
「…ほら、そんな顔すんじゃん」
及川が、気まずそうな表情を浮かべて横目で私の顔を覗き込んでいた。はっとして、慌てて反対を向く。
いったい、どうしてこんなことになっているのかというのは、実際私にもよくわからない。所謂、幼馴染の関係から、つい先日私はこの男と”恋人”という関係に発展してしまっていた。長い付き合いの間、四六時中一緒にいたわけでもないし、これと言って色っぽい感情をお互い抱きあったこともおそらく無かったのだ。それなのに、どういう風の吹き回しなのか、という疑問は抱き始めたら尽きることが無い。親元を離れ、単身東京で学生生活を始めようという境遇が、示し合わせていたわけでもなんでもなく、たまたま同じだったこと。住まいの最寄り駅がたまたま同じ路線の沿線にあったこと。ときどき、故郷が懐かしくなったこと。私たちが引き合わされたのは、そんなどうしようもない小さな理由の積み重ねに他ならなかったのだ。
小学生の頃は、岩泉の方が女の子からきゃあきゃあ言われていたと思う。それがいつの間にか、めきめき身長を伸ばして、比例するようにバレーで活躍しはじめた及川は、中学以降まるでアイドルのごとき人気者となっていた。バレーと出会うために生まれ、バレーをするために生きて、バレーに愛されるために成長する。そんな印象を抱くほど、彼はバレーに対して本気だったし、きっとそんな姿が人の心を引き付けるのだろうと思う。
まあ、きらきらした笑顔をむやみやたら振りまいていた彼については、実際うすら寒い気持ちで岩泉と一緒に眺めることもしばしばあったけれど。
その頃ならば、きっとこんなメールの山を見たところで特段感情乱れることもなかったというのに、まったく困った話だ。
私は、彼を恋愛対象として見ない期間が長すぎた。というよりも、本当に最近になるまで、彼とこういう展開になるという可能性は皆無と信じて疑わなかったのだから、突然しおらしくしよう、可愛らしくしようなんてこと、私にとっては国家を揺るがす一大プロジェクトばりの壮大さと困難さを孕んだものなのだ。どうしろと。私は、彼に上手に甘えることに関してはこの世で一番の無知だ。
「怒んないでよ苗字」
「怒ってない」
「じゃあなんで、そんな険しい顔してんの」
「してないよ」
本当なら、もっと可愛く君に甘えられる、ふわふわと花のような女の子と付き合うべきだ。こんな、素直に彼女らしいことをすることが出来ないような女を傍に置いて、正気の沙汰じゃない。
くすくすと、及川が笑う声がした。私の頭をすっぽりと包むほどに大きな掌が、ゆっくりと私の頭を撫でる。そう言えば、この手はいつも、優しい。
「笑ったり不機嫌なったり、忙しいやつだなあお前は」
あやされているのが、無性に恥ずかしかった。どうしてこの人は、こんなに普通にこの関係を受け入れているのだろう。私が、誕生日プレゼントにお笑いDVDなんておよそ恋人に贈るものとかけ離れた代物をあげたって全く気にもしないくせに、名前で呼ばないことに対して時折不機嫌な顔を見せる。どんなメンタルで及川と向き合っていけばいいのか、私はまだ分かっていないのだ。分かれ。混乱がそろそろ怒りに変化しそうになったころ、ふと、後ろからがっしりと太い二本の腕に抱きすくめられ、一気に意識が覚醒した。
「やきもち?」
首の後ろに、吐きかけられるように呟かれ、背筋が震えそうになる。混乱してしまう。ついこの前まで、こんな触れ方君はしなかった。
「ちがいます」
「じゃあなんで、そんな不機嫌になっちゃったの」
「なってません」
「なってるよ。こっち見てくんないじゃん」
甘えたように、ゆっくりと間延びした言い方で言う彼が、急に知らない人のように思えて怖かった。心臓がどきどきと速く打っている事が自分でも笑ってしまうほどに分かる。きっと、密着している及川にも、伝わってしまうのだろうと思った。
「ちょっと、なに甘えてんの。はずい」
苦し紛れに言った一言は、及川の勘に触ってしまったのか、身体に巻かれた腕の力が、ふっと緩み離れていくのが分かった。やばい、と気があせる。まずいことを言ってしまっただろうか。
突然静かになる彼の方に、ゆっくりと首を向けると、そこにはぶすっと唇をつきだした不細工な及川の顔。
「甘えるよ。だって苗字は俺の彼女だよ?」
どストレートな言葉に、わたわたと慌てふためくことしかできずにいた。そうか、やっぱり、私は及川の彼女なんだ。友達でも腐れ縁でもなく、彼女。今まで色々な姿を見てきたし、見せてきた。しかし、かわいい所なんて微塵も見せられていないのに、この人は私のことをちゃんと女の子として見ているという。それはまるで現実味が無くて、どんな顔をして彼に向かい合えばいいのかが分からない。
「だって昔、及川私に”お前なんてちんこついてない岩ちゃんだからな”って言った!」
「ちょ、そんな昔のことでしょ!?忘れて!?てゆか女の子がちんことか言わないの!」
「だって!衝撃だったから覚えてるよ!一生忘れないからね!」
及川が私に優しく触ることが既に恥ずかしいのだ。昔々の懐かしい記憶を引っ張り出して、鼻先に突き付けて見たら、及川は案の定綺麗な顔面を最高に歪ませて慌てていた。いつの間にか、つかみ合いの喧嘩でもしている様な体勢になり、そのことに私は酷く安心していた。
この男と色っぽい雰囲気なんて、私には百億光年早い。
「もう終電なくなる。帰る」
「え、泊まっていきなよ」
「駄目、帰るの」
くんずほぐれつ、犬の喧嘩のようにぐだぐだ転がっていると、巨漢の及川に振り回されていつの間にか息が上がっていた。床に転がりながら、ふと見上げた時計が、そろそろ終電の時刻だと告げている。
今まで、及川の家で夜を明かした事が無かったわけでもないのだが、日が昇るまで三國無双をしていたりお互い大学のレポートに勤しんだり、只々飲んだくれて過ごしたり。結局きらきらと輝く朝日に、ふたりして「溶ける〜」などと苦しみながら朝マックをしに行くというのがほとんどだった。
でもきっと、今日は違う。
そんな事は、野生の勘に教えて貰わずとも分かっていたことだ。
「ねえ、苗字」
「…おやすみ、帰るね」
「駄目だよ」
ふざけて繋いだ手。酔った勢いでしてみた、触れ合うだけの軽いキス。たったそれだけのことで、三日は寝不足が続いたというのに、この人とのこの先を、なんて考えただけで顔から火を噴きそうだ。
彼氏が出来たことはこれが初めてというわけでもないし、処女でもない。だけれども、この人の前で”女”を見せることは、これまで過ごしてきた楽しくてくだらない時間の積み重ねが、どうにも難しくさせるのだ。
「ねえ、苗字は俺のこと嫌いなの」
「そんな訳ないでしょ」
「いつもそうやってはぐらかすじゃん。そろそろ、ほんと勘弁してくんない」
澄みきったガラス、はたまた研ぎ澄まされた剣の切先。そんな比喩も似つかわしいほど、及川の真剣な表情は美しかった。まさか、そんなものを向けられる日がくるなどといったい誰が想像したというのだろう。
仰向けになった及川の腹にまたがる格好で、二の腕をがっしりと掴まれていた。見下ろしているのはこちらだというのに、下からすごまれている私は身じろぎ一つできないほどに気圧されている。かなり体重をかけているにも関わらず、苦しそうな素振りを微塵も見せない彼に、戸惑った。
知らない顔だ。今まで付き合った女の子にも、こんなギラついた目を向けていたのだろうと思うと、胸の奥がずくずくと痛むような心地がした。
「…なんで私、ここに居るの」
脳味噌は、ばらばらと混乱し始めていた。及川が、え、と目を丸くしているのを見下ろして、無性に恥ずかしくなった。逃げたい、という思いとは裏腹に、身体は上手く動いてくれないし、結局のところきつく拘束されている腕がある限りは、到底かなわぬ願いだ。
「どうして私なの」
「なに?どうしたの」
「今まで、もっと女の子らしい女の子たちと、及川徹は付き合ってきたでしょ?」
丸くした目が、そのままぱちぱちと瞬きを繰り返し、真っ直ぐに私を見上げている。
岩泉ばかりモテていることを嘆いた小学生時代。靴箱に入っていたラブレターを私たちに自慢して、可愛い彼女が出来たことを嬉しそうに報告してきた中学時代。周りにもてはやされながら、いつの間にかとびきり可愛い彼女を連れていて、そして私は疎遠になっていった高校時代。私にとっての及川徹は、もうとっくに遠い遠い存在になりかけていた。それが、まさか今、こんなに近くに存在しているという状況が、泣きたいくらいに信じられないのだ。
可愛いことも言えないし、髪だって上手に伸ばせない。雑誌に載っているような気の利いた誕生日プレゼントだってあげられなくて、あげるもんかと意地を張っていて。私は及川に相応しい女の子にはなれないのだと嘆きながらも、あんな風にはなりたくないと拒んでいる節がある。天邪鬼もたいがいにしろ、と自分でも呆れてしまうのだけれど、曲げてやるのは悔しかった。
このどうしようもない胸の内を、すべて伝えるのは酷く困難なことだった。上手く言葉にすることなどできないし、出来たところで伝えてやるのは私のなけなしのプライドが許さない。
「…過去にやきもち妬いてどうすんのさ」
及川が、困ったように眉尻を下げる。子どもをあやしている様な、優しい顔をするのだから、本当に酷い。こうしてやり場のなくなった私の感情は、鼻の奥につんとこみ上げる涙の衝動へと変わる。泣くもんか、と目をギュッと閉じてみたものの、その勢いを押しとどめる事はもはやかなわなかった。じわりと、目からあふれ出す熱い滴を、及川の長い指がぎゅっと拭う。
「わ…っ」
恐る恐る薄目を開いた瞬間、掴まれていた腕をぐっと引かれてとっさに体勢を崩してしまった。びっくりしてしまうくらいに、及川の顔が近くにあった。鼻先が触れあいそうになる距離で、私の零れた涙が、及川の滑らかな肌に落ちる。床についた手の平が、衝撃でジンジンと痛んでいた。
「俺のこと信じられないの?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
「じゃあ見せて。安心して、お前のこと見せてよ」
まるで、すべてを見透かされるような、色素の薄い鳶色の目。いつからこんな目で、私を見るようになっただろう。私は、良く知っている男の知らない顔を見て、どうしていいやら分からなくなっている。
「それに苗字だって、彼氏いたことあったじゃん」
「なにそれ…」
「今更かもだけど、あの時俺ものすごいショックだったんだよ」
ふいに、真剣な目を少しやわらげて、及川が言った。後頭部に、ゆっくりと手を回される感覚があった。ごちんとおでこがぶつかり合って、小さく「いて」と声が漏れた。彼はその声を聞いて、静かにくすくすと、また笑う。
おでこに、瞼に、頬に、ゆっくりと柔らかい唇が押し当てられて、私は再び硬直していた。
「ねえ、苗字」
じっと熱い目で目を見つめられて、とっくに呼吸は止まっていた。返事の代わりに、瞬きを一度した。声は、出そうと思ったが上手く出てこなくて、ごくりと唾を飲んだだけ。
「俺の名前、呼んでみて」
「下の名前…?」
「そう。分かる?」
知らないわけが無い。もう何年共にいると思っているのだ。そう抗議したい気持ちもあったのだけれど、その響きを口にしようとすると、訳が分からないほどに緊張していることに自分でも戸惑っていた。
「名前」
頬を撫でられながら、及川がたっぷりと私の名前を呼んだ。体温が一度上昇するのを感じ、心臓の音はますます速い。
ほら、と言って及川の目が私のことを急かしていた。口にしたら、なにか変わってしまうだろうか。
「と、徹」
たどたどしく、とうとう名前を呼んでみると、及川は失礼なことに、ぶっと噴き出すようにして笑った。ちょっと、と声を上げようとしたら、背中にたくましい腕が回ってきて、あっけなくがっしりとホールドされる。
「及川、ちょっと」
分厚い胸に顔を押さえつけられて、空気の取り込みもままならない。私がじたじたあばれても、及川は構わずクスクス笑っていた。その腕の力が解けることは無く、私はぺたぺたと彼の肩を叩いて解放を待つばかり。
「あー、おっかし」
「自分が…」
「ごめんて、怒んないで」
ようやく緩んだその隙に、ゆっくりと身体を起こしてみると、及川はいつか見た様な無邪気な笑顔を浮かべていた。それを見て、私は強烈なデジャブと、たまらない愛おしさをそこに感じているのであった。
「名前、一緒にいよう。俺はお前の隣が、やっぱり一番落ち着くみたいだからさ」
不格好な口説き文句に、してやられた感は否めない。それでも、バラバラになった時間がつながりあっていく感覚が暖かかった。今日はあなたの誕生日なのに、なんだか私のほうが、もらってばかりいる。
今一度、彼の名前を口にすると、及川がひょい、と軽々身体を起こして一瞬で私の身体を抱きしめた。すっぽりと抱えられているために、その表情は見えなかったけれど、うう、と声にならない、まるで猫がゴロゴロ喉を鳴らすようなうめき声が聞こえたために、私はそのまま腕の中で声を上げて笑った。
2016.07.20