幸せというものは、縷々と流れて行ってしまうものらしい。手に入れたとおもうのはたった一瞬で、次の瞬間には指の間をするりと通り抜けてしまう、もの。
幸せとは、往々にそういうものだと昔じいさんがよく言っていた。

「クロロ」
瓦礫の上で本を読んでいる少年に声をかける。わたしを見る目は、闇に包まれていたがすぐに月の光を反射して「久しぶり」と笑った。
「またこんなところで本なんか読んで」
「ダメかな?」
「目が悪くなる」
「…実は、暗闇で本を読むことと視力の低下には実質的には関係がないんだ。知ってた? それについての論文が、先週向こうの瓦礫の山に流れてたような…」
「わ、わかったから…」
「なにが?」
くすくす、と笑う彼。彼の顔は整っている。美しい人形のようだと、わたしは思っていた。これまでに顔が綺麗な人形は持ったことはなかったし、見たこともなかったけれど、わたしは知っていた。この街を出れば、瞳にはダイヤモンドの輝きをうつす、まるで陶器のような美しい肌の、纏わり付く毛髪はまるで、純粋な夜のような、そんな、そんな美しいドールがいることを知っていた。
「ナマエは知ってる?」
「…何を? また蘊蓄?」
「…違うよ」
少し彼がしゅんとする。肩を竦めてわかりやすく落ち込むと、すぐに姿勢を戻してまた真っ直ぐ道を見た。
「俺たち、出るんだ。ここを。この、流星街を」


知っていた、つもりだった。クロロの瞳に隠された闇や、彼が背負うもの。彼の腕の中にある抱え切れないものも、全部知っていた"つもり"だったのだ。結局彼は居なくなる。どこかへ行ってしまう。もう戻るつもりはないんだ、とよくわからない顔でクロロは笑った。

「だから、多分、今日が最後の日だと思う」
「わたしが、クロロに会う?」
「俺が、ナマエに会う」

悲しい目だと思った。他愛もない話をするのが好きだった。別にクロロはなんとも思っていなかったかもしれないけれど、わたしは、好きだった。悲しい目をしていた。何が悲しいの、と問えば良かったのか。頬に添えた手をクロロはゆっくりと包み込んで、そしてまたよくわからない顔で笑って、「ごめんね」と言ったのだった。

それから、クロロに会うことはなかった。
何度かわたしもここから出ようとしたけれど、どうしようもなく生きる術もなく、結局また戻ってきていた。人を殺すことも、盗みを働くことも、かと言ってまともに生活することも、わたしには出来なかった。
そうして、わたしは流星街で一生を終えることにした。もう二度と外には出ないと心に固く誓って、クロロのことは忘れよう、そう毎日、毎晩空を見上げて思った。
夜の闇は彼を思い出させる。よくわからないあの表情も、今ではよくわかる。泣きたいのに泣けなくて、だから、笑うしかないときの顔。


幸せというものは、縷々と流れて行ってしまうものらしい。手に入れたとおもうのはたった一瞬で、次の瞬間には指の間をするりと通り抜けてしまう、もの。
幸せとは、往々にそういうものだと昔じいさんがよく言っていた。
わたしを育ててくれたじいさんは数年前に病気で死んだ。クロロはそのことも知らない。わたしの髪の毛が伸びたことも、背があのときからまったく伸びなかったことも、それなのに服のサイズは少し大きくなってしまったことも、クロロは何も知らない。

あの夜一瞬だけ手に入れた幸せを抱えても、いつのまにかどこかに落としてしまっているようなわたしだ。だから、きっとクロロのこともちゃんと覚えていない。艶やかな毛髪に、陶器のような肌、月の光を反射させる瞳をもつ、ドールのクロロしか、わたしは知らないのだ。

すり抜けていく、すり抜けていく。わたしが知らない世界へとすり抜けて、そうしてまたあの顔で笑うのだろうか。
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