※生理描写あります※
いつかきっと、こうなると分かっていた。
割れたグラスの破片を拾いながら私はソファに座る男に目をやる。隣には化粧の濃い女。どうしてこうなったかは分からないけれど、何れこうなることは分かっていた。だから、いま自分が割れたグラスの破片を素手で拾っていることも、男にグラスを投げられ額から血が流れていることも、それを見て女が嘲笑っていることも、すべて何でもないようなことに思えた。
「なんとか言えば?」
女が言う。怒ればいいのか、泣けばいいのか、謝ればいいのか分からない。男を手に入れられたのだから彼女が欲するものがもうなにか分からない。私は少し黙って、それから首を傾げて笑ってみた。

私は不器用な人間だと思う。額から流れる血はハンカチで抑えながら彼のマンションを出た。不倫だった。私が悪いのは分かっている。男が、隣りにいた女――おそらく恋人、それか奥さん――と別れるつもりがないことも分かっていて抱かれた。特別好きだったわけでも愛していたわけでもない。
私はどういうことか、人を愛するということがよく分からない。
「お姉さん」
後ろから呼ばれて振り向く。もうお姉さんと呼ばれる年ではないけれど、ふと振り向いてしまった。その先には青年が立っていた。私のま白いハンカチを手に。
「ハンカチ落としましたよ。怪我? 手当てしてもらったほうがいいんじゃないですか」
気付かないうちに左手と額の間からするりと落ちてしまっていたハンカチを折り直して、奇麗な面で額を彼は押さえる。思ったよりも深く傷が入っていたのか、「痛っ」と声を上げると彼は心配そうに顔を覗き込んできた。
「近くの病院まで一緒に行きましょうか」
心底心配しているような顔にも見えたし、余り関心がないような顔にも見えた。他人に期待しない人間は優しいと何処かで聞いたことがある。そんなふうに感じながら、マンションを出てからしばらく経つのに止まらない血のことを考えて、私は素直に病院まで行くことにした。

「私、不倫してたの」
病院まで付いてきてくれたお礼、と言って私は青年をカフェで奢ることにした。行ったこともなければ馴染みもないカフェで、適当にコーヒーを頼む。コーヒーが好きなわけでもなければ嫌いなわけでもなく、こういうところで頼むのはコーヒーだと相場が決まっているからそうしただけだった。
彼もコーヒーを頼んだ。
「えっと、じゃあ、額の傷は揉め事? 修羅場?」
彼は驚いたようなそうでないような顔で尋ねた。面白がっているようにも見えたけれど、なんだって良かった。私の話を聞いてくれる人間が今は欲しくて、彼を誘ったのだから。
「彼、もう五年も一緒の人がいたらしくて。別れるつもりなんて毛頭もないって分かってたけどね」
「それでも好きだった?」
「……別に。不倫とか、そういうリスクを犯してまで通すような愛じゃなかった」
「じゃあどうして?」
「わからない。わからないけれど、そこにいたから」
「変なの」
ウエイトレスがコーヒーを持ってきた。コーヒー自体は別に好きではないけれど、薫りは別だ。すん、と湯気の立つコーヒーをにおうと、目の前の彼は「オレ、コーヒー好きなんです」と笑った。
「コーヒーが好きなら、もっと別のところに行っても良かったのに」
「別のところ?」
「もっと、コーヒーを本格的に淹れてるところ」
「ああ」
彼がカップを口に運ぶ。若そうだけれど多分歳はあんまり変わらないか私より上だな、と何となくで思いながら彼のことばに耳を傾ける。
「別にそこまでじゃないかな」
「え?」
「こういうところで頼むものって、大体相場が決まってるでしょ? そういうのに従ってるだけで……豆の種類とかもそこまで詳しくない。こういう喫茶店にきてジュースを頼む歳でもないし」
肩をすくめて笑うと彼はまたコーヒーを飲んだ。特別好きじゃなくても好きだと口にする彼。私は、あの不倫していた男に一度でも愛の言葉を吐いたことはなかった。「好きだよ」「愛してる」と何度囁かれても心は動かなかったし、何も感じなかった。それが本心からでないと分かっていたからでもあるし、この関係が何れ終わりゆく、言わば終わりが見えていた関係だったからである。
「でも男の方から誘ってきたんですよねえ、それなのにグラスを投げつけるなんて酷いや」
彼はそう言うと「オレとおそろいになっちゃいましたね、頭」と自分が巻いている包帯のようなものを指差して笑った。怪我をしているのか、ファッションなのか、はたまた何かを隠しているのか分からないが、彼のその眉毛が隠れるまで額を覆っているそれは少し邪魔そうに見えた。
「ここになにか巻いてるのって、違和感ない?」
「そうかな? オレ外歩くときはいつもこうだしわかんないや」
彼はまた笑う。そろそろ出ようか。私がそう口にしようとしたとき彼は「パフェか何か頼んでも?」と尋ねてきた。ここは私が出すから、と言って入ったから確認してきたのだろうが、頼むならコーヒーを頼むタイミングでも良かったんじゃないかと私は思いながらも了承した。「何にしようかな」とメニューを見つめる彼に、決めてなかったのかと思いながら私は空になったコーヒーカップを見つめる。底に茶色い染み。じっと見つめて、血が乾いたあとみたいだと思った。

初めて月経が来た日を覚えている。
ショーツに付いた染みは乾いて茶色になっていて、スカートや、横になっていたシーツに染みが付いていないか不安になりながら確認したこと。それから、母親に報告し、抱き締めてもらった。「おめでとう」、確かに母親はそう言った。その後帰宅した父親にも報告され、「そうか」と頷くだけだった父も食卓について「おめでとう」と言った。近しい親戚に会えば母は私の月経について報告した。主に女性の親族にだけだったが、皆口を揃えて「おめでとう」。
私は幼いながらも何故、初経を迎えることが目出度いことなのか分からなかった。これでいつ誰に犯されても子供を孕む危険性のある無防備な女になってしまっただけである。ショーツは汚れるし、腹痛や頭痛もあるし、時には酷い貧血で目眩がすることもあった。なにも、なにもめでたくない。嬉しくない。私はついに女になってしまった。私はついに、男を受け入れる躰になったしまった。そのことに酷く落胆して、月経がはじまってから私は塞ぎ込むことが多くなったような気がする。それまで仲の良かった同性の友人とは会わなくなり、異性の友達ばかり作った。両親は少し心配していたが、彼らとの間に本当”なにもない”ことを知ってからは口出しはしなくなった。

「お姉さん、本当に好きになった人、いたことある?」
青年がパフェに乗ったプリンをスプーンですくって口に運んだ。
「いたよ」
「いたんだ。それも人妻? あ、いや、人旦那?」
「もう人妻かな」
ずっと昔、私は女の子が好きだった。結婚しようねと二人で指切りを交わしたのに、彼女はそんなことも忘れて大学で知り合った男と結婚した。失恋したと私は思ったけれど、よく考えれば初経の時点で私は失恋していたのだ。
「生理が初めて来たとき、私は失恋したの」
「どういうこと?」
「だって、女になったら女は好きになれないでしょう」
「どうして?」
どうして、その答えに私は少しだけ驚きながら「どうしてかな?」と震えた声で尋ね返した。兄は同性愛者だった。父と母はそんな兄を「気持ち悪い」と言って非難していたし、たまに家に帰ってきても余り口は聞かないどころか、口を開けば言い合いばかりだった。兄はそのまま親族に大反対され付き合っていた青年と別れさせられ説教をされた。夏の日だったと思う。今でも目に焼き付いている。お手洗いに行こうと親戚の家の長い廊下を歩いて、それから、それからトイレのドアを開けると、そこには兄がいた。
親族の話し合いの際に同性愛を酷く貶され、人格まで否定された兄は縋るように私たち家族を見た。父と母は勿論兄に冷たい言葉を浴びせたが、私は何も言えなかった。私も同じだよ、と言えば何かが変わっていたのかもしれない。私もお兄ちゃんと一緒で、女の子が好きだった。いや、今でもそうだと。でも言えなかった。言いたくなかった。兄の縋るような目を見つめながら、私は月経期特有の不快感や苛立ちを泣く兄に押し付けた。だから私は、兄から目を逸らした。
首を吊って暫く経った死体は見れたものではなかった。兄の姿を一通り目に写した私はそのまま気を失い、それから兄の通夜まで目を覚まさなかった。
兄の葬儀には、兄の恋人も来ていた。私たち親族を恨むような目はしていなかったが、酷く貼り付けられた笑みが怖かった。そう、今目の前の青年のように、よく分からない顔だった。悲しいのか、いかっているのか、憎んでいるのか――。
ふと目の前の青年を見た。
あの日と、まるで同じ顔で笑っていた。
「オレは良いと思うけど、別に。どんな形の愛であれ、好きならば」
「当時はそう思えなかったの」
「当時って?」
きょとんとした顔で尋ねられる。兄の恋人に重なっていた顔がすうと消えた。怯えていたのが馬鹿らしくなるくらい、彼は兄とは関係のない人間だった。罪悪感が見せた幻だと彼は笑った。それから彼はパフェを食べ終え、店を出た。生ぬるい風が吹いている。


「あの日もこんな天気だったなあ」
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