あの人はきっと、遥か昔、私の知らない何処か遠くへ愛だとか恋だとかを置いてきてしまったのだ。深く淀んだ夜の瞳に私は決して映らない。今日もまた、儀式のように言葉を交わす。
「あの……いってらっしゃいませ。今日も遅くなりますか?」
「うん、そうだね。多分帰るのは夜中になると思うから先に寝てて。じゃ」
何でもないような動きで彼は左手の薬指から輪っかを外す。そしてそれを引き出しの奥へと音もなくしまった。一瞬の出来事のようで、スローモーションのように流れていく動きを、私は瞬きもせずに見つめていた。あの美しい左手にすら、私は残しておいてもらえない。そんな存在なのだ。
「お怪我のないように」
無駄な言葉だとわかっている。あの人は私の言葉には応えず、そのまま部屋から出ていった。重く閉まる扉の音が悲しい。

私は、あの人に愛されていない。

元々政略結婚だった。ゾルディック家の後ろ盾が欲しいこちらの家と、跡継ぎを産める丈夫な女が欲しいそちらの家の利害が一致して結ばれた言わば同盟のような婚約。
彼が仕事に行く際は必ず外すシンプルなシルバーの指輪を私は撫でながら思う。こんなもの、こんなもの。投げ捨てる勇気もないくせに、ぎゅうと握って力を込めた。だからといって指輪が変形するわけでもない。力を抜いても虚しくそこにあるのは私の左手の薬指にあるものと同じものだ。
せめて、抱かれていれば。丈夫な子が欲しいあちらの家の要望に沿って私が孕めでもすれば、私は幾分気が晴れるのかもしれない。愛がなくてもあの人はきっと女を抱ける。なのにそうしないのは、どうしてなのだろうか。想像したくもない考えが頭を過ぎって叫び出しそうになった。彼に他に女がいるなんて、少し思い浮かべただけでも泣いてしまいそうだった。
私は、彼を愛してしまっていた。
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