ラッシュ時間帯にはまだ早い朝。病院を抜け出して駅の改札口で刀理を待っていた。
 住宅街に程近いところにあるため、駅前は人通りが少なくない。
 人を見ないように自然と下がっていた視線の先に、すっかり見慣れたサンダルが見えた。

「宗像くん、おはよう」

 視線を上げた。

「おはよう、刀理」

 夏の陽射しよりも眩しい真っ白のワンピース姿の刀理がそこに立っていた。

「じゃあ行こっか」

 言葉少なに切符を買って改札を抜けた。
 駅のホームは人もまばらで、頬を撫でる風も昨日より幾分か涼しかった。



 電車に乗り込むと刀理は手前のロングシートには目もくれず、その奥のボックス席に腰を落ち着けた。お世辞にも広いとは言えないボックス席の通路側かつ進行方向とは逆向きの席に座られてしまったから、僕はその斜向かいに座る他ない。公共の交通機関を利用した経験に乏しい僕への、彼女なりの意図された配慮だ。ボックス席ならロングシートに座るよりも他の乗客を視界に入れる可能性が減るし、ふたりで並んで座らないだろうと踏んで先に席に着くことで、僕に進行方向窓側の席を譲った。さらに如才ないことに、僕の隣にさり気なく荷物を置いて他の乗客が座りづらくなるようにした。殺されることしか考えていないようで、その実色々考えている。
 ぱっと見た感じだと、この車両に乗客は数えるほどしかいない。これなら何事もなく終着まで行けそうだ。そう思ったところで電車が走り出した。窓の外の景色が住宅街から少しずつ遠ざかっていく。小一時間程度で建物よりも自然のほうが多くなるだろう。

「ご飯食べる?」

 置かれた荷物を指差しながら刀理が言う。そのとき珍しく刀理の爪が彩られていることに気づいた。うっすらとした青が窓から射し込む朝陽を受けて静かに煌めいている。
 僕が病院を抜け出してからどこにも寄らなくていいようにと、二人分の朝ご飯を調達するのは刀理の役目だった。飲み物は僕が冷蔵庫の中の麦茶を二本持ってきた。

「食べようかな」

 いつも食べる時間よりだいぶ早いけれど食べられるときに食べておいたほうがいいだろう。
 袋を漁ると数種類のおにぎりが入っていた。

「刀理どれ食べるの?」

 しゃけ、おかか、鶏五目、炭火焼肉(カルビ)、明太子、いくら醤油漬け。
 ふたりで食べるにしても少し多い気がする量だ。

「宗像くんはどれがいい? せーので指差そう」

 そう言うなり袋を下に敷いて座席におにぎりを並べた。

「おにぎりドラフト一巡目……せーの!」

 突拍子もないドラフトが始まった。個数的に三巡する。
 それぞれ指差したのはしゃけ(僕)といくら(刀理)だった。

「しゃけ二巡目で狙ってたのに……!」
「あげようか?」
「ドラフトだからいい」

 そんな断られ方は初めてだ。
 二巡目も被らずにそれぞれ明太子(僕)とカルビ(刀理)を獲得した。
 しかし問題は三巡目――おかかが被った。

「そう上手くはいかないか〜……じゃんけんしよ」

 結果、おかかは刀理のものとなった。



「朝からおにぎり三個はちょっと多かった……せめて二個だね……」

 ちなみにこれは時間をかけておにぎりを食べ終えた後の刀理の発言だ。



 車窓から見える風景がすっかり自然ばかりになる頃、刀理はこっくりと舟を漕いでいた。いつもより早く起きたのと空腹を満たしたことが引き金になったのだろう。ゆらゆら揺れる頭部は見ていて危なっかしい。かといって起こすのも躊躇われた。終着駅までもう少しかかる。少し考えてから、最初から空いたままだった刀理の隣に座り直した。起こさないようにそっと引き寄せて文字通り肩を貸した。それから僕も目を閉じた。眠かったわけじゃない。ただ、何も見ないようにしたかっただけだ。肩に感じる温度がやがて微睡みを連れてきた。



 終着を知らせるアナウンスが聞こえて目を開けた。隣を確認すると刀理はまだ眠っているようで、小さく寝息が聞こえる。周囲を一瞥すると乗客は僕たちだけだとわかった。

「刀理、着いたよ」

 呼びかけると、睫毛を震わせながらおもむろに目を覚ました。
 荷物をまとめて持ってから、寝惚け眼の刀理の手を引いて終着駅のホームに降り立った。

「――うわっ」

 幾重にも重なる蝉の声に迎え入れられて刀理も完全に覚醒したらしい。数回瞬きを繰り返した後、少し気恥ずかしそうに「おはよう」と呟いた。



 無人の駅を物珍しそうに眺めながら歩いていた刀理が、何かに気づいたように立ち止まったのは、彼女が外へ続く引き戸に手をかけようとしたときだった。そのまま勢いよく振り向いたかと思えば、こちらへ手を差し伸べた。その動作の意図をいまいち汲み取れず、違うだろうなと思いながらもその手に自分の手を重ねた。

「……バッグを、持たせちゃってるなーと思って……」
「あ、そっちか」
「ふふっ。手、繋いでく?」

 我ながら子供じみた感情だと思ったけれど、悪戯っぽく笑って柔らかく手を握った刀理に少しいじわるしたくなった。

「そうだね。迷子になったら困るから」

 離れないように握り返すと、予想外だったのか目をぱちくりさせている。お構いなしに引き戸を引いて外へ出た。待ち合わせ場所とは打って変わって、人気のない駅前だ。
 海が近いのもあって、微かに潮の匂いがする。歩みを進めるにつれて波の音も近づいてきた。あれからお互い無言で向日葵畑を目指していた。道のりは事前に何度も確認したからわかる。僕も刀理も何も言わないけれど、手は繋いだままだ。迷子になったら困るだなんて、そんな心配は不要だと知っている。これはただの僕のエゴだ。

「宗像くん」

 先に沈黙を破ったのは刀理だった。

「なんだい?」
「あっち」

 青く彩られた指先が指し示したのは向日葵畑ではなく海へと続く道で、てっきり向日葵畑が先だと思っていた僕は歩く速度を落としながら訊ねた。

「海が先?」
「海が先!」

 最初の行き先を変えて、一歩、先導するように刀理が前を歩く。僕もそれに従って歩く。手を引かれながらぼんやりと波の音を聴いていた。足元がアスファルトから砂浜に変わると、より一層海が近くなる。見渡しても砂浜には人っ子一人いない。さながら貸し切り状態だ。刀理が波打ち際まで歩いて行こうとしているのに気づいて、一旦足を止めた。

「おっとぉ?」

 後ろに傾きかけた身体のバランスを取りながら、くるっと刀理が振り返る。

「波打ち際まで行くんだったら靴を脱いでもいいかな」

 生憎、濡れてもいい靴を履いてこれなかったもので。

「うん、いいよ」

 そうして、どちらともなく手を離した。



 足をつけた海水は思っていたよりも冷たくない。砂を踏んで歩く感触に慣れず、いちいち足元を見てしまう。刀理はワンピースが濡れないように裾をつまみながら波と戯れていた。ただ遊んでいるように見えても、きっとそのうち入水する。そう思わせるだけの実績が――この場合は前科と言ったほうがいいのだろうか――刀理には伴っている。
 本当はワンピースが濡れるかどうかなんて気にしなくたっていいだろうに。水に濡れても砂で汚れても入水すれば結局覆ってしまうんだから。それなのに、刀理は一向にそういったそぶりを見せない。

「……ん? どうしたの宗像くん。なんか難しそうな顔してるね?」

 膝から下まで海水に浸かりながら刀理が言う。
 裾をつまんだまま僕のほうへ戻ってきて、再度「どうしたの?」と訊く姿がまるでカーテシーのようだった。もう裾を気にしなくても濡れない浅さだとわかると、ぱっと手を放した。白いワンピースが視界の端ではためいた。

「……刀理が、」

 言いかけて、やめた。

「ごめん、なんでもない」

 思わず目を逸らした。

「――だって、ここで死んだら宗像くんが濡れちゃうでしょ」

 自分が反射的に目を見開いたのがわかった。声のしたほうを見ると刀理は今の発言なんて取るに足らないことだとでも言わんばかりに遊びを再開している。
 考えればわかることだった。入水したら誰かに身体を回収してもらわなければならない。ここにはふたりしかいないから必然的にその役目を負うのは僕だ。海に入って服が濡れたら自然に乾くのを待つしかない。刀理はそれを気にしていた。そんなことを気にしていた。

「……敵わないな」

 口を衝いて出た言葉は波の音に紛れて消えた。



 ひとしきり遊んだ後、こんなこともあろうかと、と刀理が鞄からタオルを二枚取り出した。濡れた足のまま靴を履くわけにはいかず立ち往生していた僕にとって、それは渡りに船だった。一枚受け取って足を拭き、靴を履いた。砂を踏む感覚がさっきまでのそれとは違う。

「それじゃあ行こっか」

 溺死が叶わなかったのに、刀理はいつも通り溌溂としている。ここ最近のことを踏まえると、もう少し気落ちしていてもおかしくないんだけど……向日葵畑では確実に殺されるから? わからない。唯一わかるのは、これから僕は刀理を殺して、刀理は僕に殺されるってことだ。それだけわかっていればあとはもう、なるようになるだろう。



 向日葵畑まであと少し。抜けるような青空がどこまでも続いている。



「あっ! あれ!」

 前方に見えた光景に刀理が声を上げた。
 数ヘクタールほどの面積に背の高い向日葵が植わっていて、一面に黄色が広がっている。まさに壮観だ。学級庭園なんて目じゃない。

「わあ……綺麗……!」

 ワンピースの裾を翻しながら刀理が向日葵畑へ近づいていく。それにどことなく夏らしさを感じた。夏を感じる要素なんて他にいくらでもあったはずなのにね。
 向日葵畑で死んでみたいと乞うた刀理だけれど、この一面に咲く向日葵を綺麗だと思える人並みの感性も持っている。きっと異常性がなければ、人生を純粋に楽しむ女の子だったと思う。こんなことを思ったってどうにもならないのはわかっているよ。わかっているけれど、たまに考えてしまう。
 もし僕たちに異常性がなかったら?
 そしたらきっと、出会えてすらいない。殺したがりと殺されたがりであることが僕たちを結びつけたんだ。だからこれでいい。

「宗像くん」

 よく通る声で刀理が僕を呼ぶ。

「今行く、よ……」

 軽く挙げて応じようとした手が中途半端な位置で止まった。さっきまで確かにいたはずの刀理がどこにも見当たらない。

「……刀理?」

 ふと、一陣の風が背の高い向日葵を揺らした。真昼にはまだ遠い。

「刀理!」

 辺りを見渡してもそれらしい影すらない。神隠しにでも遭ったかのように刀理は忽然と姿を消した。これが神隠しじゃなくてかくれんぼだとしても質が悪い。刀理が本気で隠れようものなら見つけられないけど、刀理の本気なんてそうそう見れない。だから焦るな。
 深く息を吐いた。落ち着こうと努めながらもう一度辺りを見渡した。やっぱり刀理の姿は見えない。向日葵畑で白いワンピースは目立つだろうに視界に捉えるのは向日葵の黄色と緑、それから空の青だけだった。花や茎を傷つけてしまわないように気をつけながら向日葵を掻き分けて奥へと進むと、土に足跡が残っていることに気づいた。どうやら僕は不本意ながらかくれんぼの鬼にされてしまったらしい。となると、僕が口にするべきはひとつだ。

「もういいかい」

 かくれんぼをするならこれ以上の最適解はない。

「――もういいよ」

 ほら、やっぱり。
 少し離れた向日葵畑の真ん中ら辺から声がした。そっちへ向かうと刀理は移動した後で、僕はまた残された足跡を辿る。ねえ、刀理、これじゃあかくれんぼというより鬼ごっこだ。自分よりひと回り小さい足跡が踊るように向日葵畑を闊歩している。
 多分だけど、これは僕のいじわる、、、、に対する刀理なりの意趣返しだ。だとしたら僕が刀理を見つけるまで終わらない。足跡を辿っているだけでは捕まえられないから刀理の考える先を読まなきゃならない。でも、そのほうがやりやすい。
 刀理の考えそうなことなら、なんとなくわかる気がするんだ。本当になんとなくだけれど。
 この向日葵畑のどこで殺されたいか。それさえわかれば刀理を見つけるのは簡単だ。



 来た道を戻り、辿り着いたのは向日葵畑の中央。白いワンピースが出迎えるように揺れた。まるで僕がここにやって来るのがわかっていたみたいに、刀理がそこにいた。

「あーあ、見つかっちゃった」

 言葉のわりに笑顔だし、ちっとも悔しがってるようには見えない。足跡さえ追わなければ必ず見つけられるように動いていたのだから当然といえば当然だ。

「急にいなくなったら心配するだろ」
「ごめんね。ちょっといじわるしたくなったの」
「……さっきの仕返しのつもり?」

 僕の言葉を受けて、刀理は考え込むような仕草をする。

「んー……そういうわけでもない、かな」

 首を傾げる刀理に「じゃあどういうわけ?」って訊いたらもっと困った顔するんだろうな。訊かないけどね。そんなことで困らせたくないし。

「ふぅん……ところで、隠れている間に僕に殺される覚悟はできた?」

 ぴたり。刀理の動きが止まる。
 途端、夏疾風なつはやてが彼女の髪を掬った。なびく髪を押さえながら、彼女が笑みを深める。

「とっくにできてるよ」

 向日葵畑の中心で刀理が笑う。太陽を背に受けてきらきらと輝くようだった。
 夏の概念を体現している彼女は見る人が見れば神々しい情景だ。
 でも僕にとって彼女は神様でもなんでもない。
 彼女は入学式の日に出会った同級生で、利害一致の殺されたがりで――僕の好きな子だ。

「宗像くん」

 よく通る声で刀理が僕を呼ぶ。今度はいなくならないし、見失わない。

「――私を殺して」

 ああ、そんな風に期待を滲ませた目で見詰められるとどうしようもなく殺したくなる。
――だから殺す。



 白いワンピースにじんわりと赤が滲んでいく。
 刀理の身体に刺傷を増やすたびに返り血に塗れ、何回目かの刺突で彼女は膝をついた。
 目線が合うようにしゃがみ込み、腹に刺さりっぱなしのナイフを引き抜いてまた刺すと、その拍子に吐血した。そろそろかな。

「刀理」

 刺すたびに噎せ返るような血の匂いと土臭さが混ざり合う。刀理は血を吐きながらも顔をこちらに向けた。白いワンピースは見る影もない。赤いインクをぶちまけたみたいな惨事だ。
 今にも倒れそうな上体を支えて、胸元にそっとナイフを宛てがうと、そのまま身体を抱き寄せて心臓を貫いた。
 きみが向日葵畑で死んでみたいって言ったからだよ。



きみが向日葵畑で死んでみたいって言ったから





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