去年の夏も忙しかったけれど今年も相当だ。まさか夏休み目前で入院することになるとは思っていなかった。
生徒会と風紀委員会の対立に端を発した十三組の十三人編は、フラスコ計画の凍結に『十三組の十三人』の解散、時計塔地下研究施設の一時封鎖という結果で幕を閉じた。
僕を含め地上で『裏の六人』の足止めを担っていたチーム負け犬(事実とはいえ今思えば酷いネーミングだ)と裏の六人の大半が途中で現れた球磨川禊によって入院する羽目になったのだが、運良くその場に居合わせなかった刀理は連日放課後に病室へ見舞いにやって来た。初日は慌てて駆け込んできたのに、二日目以降はいつもどおりの殺されたがりだった。
身体を起こして、刀理がくれたフルーツの盛り合わせから林檎を手に取ってそのまま齧りつこうとしたらノックもなしに病室のドアが開いた。
「そのまま食べるの?」
高千穂の病室から戻ってきた刀理が、僕を見て意外だとでも言いたげな顔をする。
床頭台の引き出しの中にはペティナイフがあるけれど、今は少し億劫だったんだ。
「林檎、うさぎにしていい?」
刀理は窓際に置かれていたパイプ椅子をベッドの近くまで引きずってきて腰掛けた。それから床頭台の引き出しを開けてナイフとまな板代わりの紙皿(このふたつは昨日フルーツと一緒に刀理が持ってきた。開放病棟とはいえ精神科にナイフを持ち込むのは問題があると思う)を取り出し、こちらに掌を差し出した。林檎を渡すと紙皿の上で八等分に切り分けて芯を取り、思っていたよりも手際良くうさぎを作っている。刃物で刺されたり斬られたりするならまだしも、刀理が刃物を扱っているイメージがなかったから少しだけ意外だった。
林檎の皮に切り込みを入れながら刀理が言う。
「そういえばちょっとした事件があったよ」
「事件?」
「終業式で生徒会長解任請求事件」
「……は?」
「あ、知らなかった?」
知らなかったも何も、こちとら入院中の身だ。
同じく入院中のメンバーに情報通がいないわけではないにせよ、刀理が今こうして話さなければ僕がそれを知るのはもう少し遅かっただろう。
刀理曰く、球磨川禊が新設されたマイナス十三組を率いて生徒会の乗っ取りを企てたらしい。ろくでもない男だと思っていたけど本当にろくでもないじゃないか。
「それで夏休み中に生徒会戦挙をやるみたい」
生徒会役員も大変だねえ、なんて言うわりには憐憫すら含まれていない声だった。刀理にとってそれは完全なる他人事らしい。
話を聞いている間に、紙皿の上には八羽の林檎うさぎ――八個のうさぎ林檎のほうが正しいのかな――が並べられていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
ナイフはあるのにフォークはないから手掴みで林檎をひとつ口に入れた。蜜が多くて甘い。
「一個もらっていい?」
「うん」
「ありがとう」
刀理は人差し指と親指で林檎をつまむとふたくちに分けて咀嚼した。
「ん、美味しい」
「残りも食べていいよ」
「うーん、晩ご飯もあるから一個でいいや」
「そう、わかった」
僕もこれから夕飯なんだけどな。残りの林檎は五分と経たずに腹の中へ消えていった。
刀理に病室備え付けの洗面所でナイフを水洗いしてもらっている間に紙皿を小さく畳んでゴミ箱に捨てた。
「ねえねえ、宗像くん」
水に濡れたナイフを持ちながら刀理が言う。
「最終的に元通りになるけど、やっぱり病室を血塗れにするのってまずいかな?」
刀理が振り向くのに合わせてナイフから水滴が点々と滴り落ちた。緩慢な足取りで戻ってくると、僕に向き合うようにベッドに浅く腰掛けた。
「元通りになるなら気にしなくていいと思うよ」
ナイフを受け取りながら答える。
「そうだよねえ……汚しちゃっても、なかったことにすればいいよね」
言いながら窓のほうに視線を向けた刀理が心なしか気落ちしているように見えた。
「刀理……もしかして何かあった?」
いつも溌溂としている彼女が落ち込むようなことといえば、それこそ期待していたのに殺されなかったときくらいのものだ。黒神さんと戦ったときとか、それはもう酷かった。
「…………殺され損ねちゃった」
ぽつり、いじけた子供みたいな顔をして呟いた。
聞き間違いかと思ったが、どうにも本当らしい。
殺され損ねた? 一体誰に……?
フラスコ計画が凍結された今、僕以外に刀理を殺す奴なんて――
「球磨川くん、殺してくれなかった」
「……そう」
二の句を継ぐ前に僕がナイフで首を切り裂いたせいで刀理は驚いた顔をした。咄嗟に右手で傷口を押さえて、左手をベッドについてよろけた身体を支えている。傷口からぼたぼたと大量の血が流れ、ひゅうひゅうと苦しそうな音がする。
ベッドシーツも僕の病衣も巻き添えを食らい、べったりと血染めになった。
どういう経緯でそうなったかはわからないけれど、球磨川禊に殺され損ねた?
なんでそう自ら危険な橋を渡るようなことを――なんであいつに殺されようとするんだ。
「ひゅっ、」
金魚みたいに口をぱくぱくさせている刀理の右手を掴んで引き寄せた。重なった手が血でぬるつくのを感じながら、もう片方の手でナイフを握り直して刀理の背に回した。
「ああ、僕は殺し損ねたりしないからそんなに不安そうな顔しないで」
子供をあやすみたいに背中を軽くとんとんと撫でて言い聞かせた。その間も刀理はひゅうひゅうと声にならない声を出していた。
「ごめんね、すぐに殺すから」
頸椎にナイフを突き立てると、まるで糸が切れたみたいに崩れ落ちた。
「……いやいやいやお前ら何してんだよ……」
刀理を殺して間もなくやって来た高千穂が惨状を目の当たりにして苦言を呈した。四方八方に飛び散った血の跡を避けながら窓際まで辿り着くと、陽光が射し込む窓を背にして最も惨憺たる有様のベッドを見下ろした。首から大量の血を流した刀理が僕の膝の上に崩れ落ちて息絶えている。
「小学生だってもっとお行儀よく入院できるだろ」
人差し指で鼻を軽く押さえながら高千穂が言った。ごもっとも過ぎてぐうの音も出ない。
「あと少しで配膳の時間だぞ」
床頭台に置かれた時計を確認しながら高千穂が言う。
「大丈夫、もうそろそろ生き返ると思う」
僕同様に高千穂も刀理が死ぬことに慣れ過ぎてしまっているせいで、この状況に驚きこそするものの、それだけだった。
「それにしても派手にやったな。血溜まりじゃねえか」
「まあ、首を切ったから。高千穂はどうしてここに?」
「そこで死んでる奴が俺の病室に携帯忘れてったから届けに来たんだよ」
ほら、と掲げられた手には白い携帯電話。確かに刀理のものだ。
「ほんとだ。生き返ったら返してあげて」
見慣れているとはいえ、さっきまで間違いなく死んでいた人間が生き返るというのは普通に考えて荒唐無稽極まりない。それに加えて飛び散っていた血飛沫や血染めのシーツに病衣も綺麗さっぱり元通りになっているのだから、これを荒唐無稽と言わずになんと言えばいいのだろう。高千穂は生き返った刀理に携帯を返すと、さっさと自分の病室へ戻っていった。
「高千穂くん入ってきたときびっくりしてたでしょ」
「うん、それなりに」
「携帯持ってきてくれたのに悪いことしちゃったなあ。謝りに行かなきゃ」
ベッドから下りてパイプ椅子に座り直した刀理は少しバツが悪そうな顔をした――
「ところで宗像くん」
のも束の間、ぱっと仕切り直すように表情を変えた。
「なんだい?」
「去年の約束憶えてる?」
「約束……ああ、向日葵畑?」
そういえば約束してたっけ。夏らしく向日葵畑で死んでみたいって言ってたな。
向日葵の開花時期はちょうど今頃のはずだけれど、見頃はもう少し先だったように思う。
「一緒に行ってくれる?」
言いながら、去年と同じように小首を傾げてこちらをじっと見詰めてくる。
勿論、答えは決まっている。
「いいよ、行こう」
話し合って決めた日程は七月二十五日。
奇しくも生徒会戦挙庶務戦と同日だった。
そういえば約束してたっけ