入学式の朝というと新入生は真新しい制服に身を包み、胸元に造花をつけ、教室で新たなクラスメイトと共に入学式会場への入場時間まで待機するというのが一般的なことだと思う。
箱庭学園も基本的にはそうなのだが一部の新入生に関してはその限りではない。箱庭学園全生徒の中でも、十三組に属する者は学園への登校であったり入学式への出席であったり、あらゆることが免除される。それは人の多い場所があまり得意ではない僕にとって実にありがたいことだ。今日は登校しなくてもよかったのだけれど、他の生徒や職員が出払っている間にこれから学園生活の大半を過ごす時計塔を下見しておくのも悪くないだろう。
箱庭学園の中央に聳える時計塔。その地下で学園が秘密裏に行っている計画――フラスコ計画に、十三組生の中でも特に異常性の高い異常――『十三組の十三人』として参加することが僕に求められた入学条件だった。
ガラスの扉を開けると、ゴゥンゴゥンと止むことなく響く機械音が耳についた。室内は薄暗く、扉から射し込む光だけでは心許ない。そっと足を踏み入れると、パタンと音を立てて背後の扉が閉まった。反射的に振り向いた後、すぐに視線を前方へ戻すと――誰かがいる。奥にある重々しい扉の前、薄暗がりに佇む人影。目を凝らすと、それは同い年くらいの少女だった。僕が気づいたのを察したのか、彼女はこちらに歩み寄る。彼女の足取りに合わせて色素の薄いポニーテールが揺れる。真新しい制服の胸元には薄桃色の造花。僕と同じ新入生だ。
「きみも十三組の人?」
足を止めて彼女が問う。きみも、ということは彼女も十三組生なのだろう。
「うん、そうだよ」
「わー! そうなんだ、私もなの!」
ただの肯定に彼女は花が咲くような笑顔を見せた。
「……きみも『十三組の十三人』のメンバー?」
「ううん、私はただのイレギュラー」
「イレギュラー?」
「そう。計画には参加するけど『十三組の十三人』じゃないよ」
イレギュラー。『十三組の十三人』と同じ被験体だというそれがどういう意味を持つ存在なのか、このときは知る由もなかった。
「私は鰐塚刀理。刀理って呼んでね。きみは?」
「宗像形。……よろしく、刀理さん」
「呼び捨てでいいよ。よろしくね、宗像くん」
そう言って手を差し伸べてくる彼女が僕には異常性の欠片もないごく普通の女の子にしか見えなかった。屈託なく笑う顔。白くて細い、ほんの少しでも力を入れて掴めば途端に折れてしまいそうな首。無防備な立ち振る舞い。僕のことなんてこれっぽっちも警戒していないんだろうな。とても、とても――殺しやすそうだ。
――やってしまった。
鞄に入っていた、学生なら誰でも持っているようなカッターナイフ。気づいたときには、それが彼女の腹に刺さっていた。白いセーラーブラウスはみるみるうちに赤が滲んでいき、真新しさを失っていく。彼女はワンテンポ遅れてそれらに気づいたようで、あれ、と小さく声を漏らした。それから腹に刺さっているカッターナイフを握ったまま立ち尽くす僕を一瞥すると、僅かに目を細めて口角を上げた。
……笑って、いる?
そのことに気を取られていると手の甲に柔らかな感触。彼女の手が自分の手に重ねられていると気づいたときにはもう遅かった。彼女は僕の手を握り、屈託のない笑顔でこう続けた。
「だめだよ、ちゃんと殺さなきゃ」
ぐぐ、と僕の手を握る力が強くなった。細い身体の、しかも腹を刺された身体のどこにそんな力が残っているのかと思っていると、ずぶり、と彼女の腹に突き立てられたナイフが深度を増した。――こいつ、自分でカッターナイフを押し込んだ! そこは普通なら――この場合あまりおすすめはしないが――引き抜こうとするところだろう? そんなことを思っていると、彼女はカッターナイフのスライド部分に指をかけ、一気に自身の中へと刃を出した。
「きみ……普通じゃない……!」
「そうだね、普通じゃないよ」
温かくぬるりとした血潮を手に感じた。いつの間にかカッターナイフの柄までもが内臓深くまで飲み込まれようとしている。つい先程出したばかりの刃が内臓の抵抗を受けて戻ってくる微細な振動が握った手に伝わった。
冗談じゃない。今まで人を殺さないように生きてきたのに、こんなことがあってたまるか。
カッターナイフから手を離そうとするが、重ねられた彼女の手がそれを許さない。もう柄の半分ほどが飲み込まれてしまった。さあ、もう少しだよ。全部刺して、と言わんばかりの視線に射抜かれる。もはやカッターナイフから手を離そうとする気力すら僕にはなかった。
ずぶり、嫌な感触がした。
「あ、あー……入った……死なないように刺すの上手だね。お陰で全然死ねそうにないや」
「……なんで……なんでこんなことを……」
「なんで? ――殺してほしいから」
「……は?」
なんだこいつ? 初対面の同級生相手に、殺してほしいだって?
彼女の異常性は他殺志願か何かなのだろうか。だとしたら、よくここまで生きてこられたものだ。恐らく今回のようなことは初めてというわけでもないのだろう。いきなり腹を刺されたにしては恐怖心がなさ過ぎるし、自らカッターナイフを突き刺す動作に躊躇がなさ過ぎた。そして最悪なことに、彼女の異常性は僕の殺人衝動と相性が良過ぎる――ああ、彼女を殺したくてたまらない。
殺すほど大好きで、殺さないように殺さないようにと遠ざけてきたものが自ら死を望んで目の前にある。生殺しのような状況に衝動が昂るばかりで、カッターナイフを握る手に再び力が入る。
「知ってるよ、宗像くん。きみが殺したがりだってこと。きみは私を殺していいんだよ。罪悪感なんてこれっぽっちも感じなくていいの。後悔なんてするだけ意味ないから」
知ってて……ここで待っていた? 僕に殺されるために?
「でもね、これだけじゃあ足りないな。せめてここを刺してくれなきゃ」
彼女は血塗れた指で胸の――心臓の上をなぞる。セーラーブラウスに歪なハートが描かれた。目印はここだよ、さあどうぞ。きっとそう思っているのだろう。すっかり血液でどろどろになってしまったカッターナイフをおもむろに引き抜くと、先程までの比じゃない量の血液が彼女の身体から溢れ出した。出血の反動でふらついた身体を左腕で支え、胸のハートにカッターナイフを突き立てた。
今際の際でさえ彼女は笑っていた。これ以上ないほど嬉しそうに。
まさか高校入学初日に人を殺すことになるなんて誰が予想していただろうか。血溜まりに転がる彼女はさっきまでは確かに生きていたのに、今ではもう物言わぬ死体だ。手からカッターナイフが滑り落ち、虚しい音を立てる。人を殺した。その事実だけが頭を支配している。そうか、これで僕は本当に人殺しになったのか。でも不思議と後悔はなかった。
「……警察行かなきゃ」
「その必要はないんじゃない? だってほら、私生きてるし」
「……え?」
我が目を疑うとはまさにこのことだ。死んだはずの人間が生きている――それどころか、あれほど血に塗れていた制服は新品同様に白く、血溜まりもなければ僕もカッターナイフも元通りだ。まるで何事もなかったかのように、死体だったはずの彼女はそこに立っていた。……なんだこれ。まるで手品だ。
「普通の人間は殺されると死ぬけど、私は殺されると生き返るんだよ」
なんでもないことのようにそう言って、彼女は僕に向き直る。殺されると生き返るだなんて荒唐無稽も甚だしい。それでも、実際目の当たりにしてしまったのだから事実として受け止める他ない。
「宗像くんさえよければこれから私のことを殺し続けてほしいんだけど、どうかな?」
殺されると生き返る――つまりそれは、僕が彼女を何度でも殺せるということだ。
「……きみはとんでもないことを言うんだね」
どうやら僕は入学早々とんでもない異常と出会ってしまったようだ。彼女の殺されたいと縋るような目を前にすると、殺人衝動を抑えるのが馬鹿らしくなってくる。
「……いいよ、わかった」
そう呟いたのが先か、彼女の喉笛を切り裂いたのが先かはどちらでもいいことだった。
自ら死を望んで