視界の端でポニーテールが揺れた。
 黒髪と呼ぶにはだいぶ色素が薄く、柔らかそうなそれは着席とともに彼女の背中と椅子の背もたれに挟まれた。目の前の華奢な背中はそんなことなんか気にせずにいつものように青い合皮のブックカバーがかけられた文庫本を取り出してホームルームまで読書に耽るようだ。入学当初から変わらない彼女の朝のルーティーン。どんなジャンルでも読むけどミステリが多いことをこの一年で知った。対して恋愛ものはあんまり読まないことも。

「おはよう、今日は?」
「綾辻行人」

 細い指先がページを捲る直前にいつものように訊ねると、彼女もいつものように作家の名前で返してくる。読むのが早いからブックカバーの中身は日替わり。昨日は星新一、一昨日は森博嗣。おれはあんまり本を読まないけど、彼女のお陰で名前だけ知ってる作家は増えていく。

「名字ちゃん家って壁一面の本棚とかありそうだよね」

 ページを捲って文字の羅列を追い始めた彼女には何を言っても届かないと知っているから返事がなくても構わない。
 少し丸まった背中にポニーテールが流れ落ちて、背もたれとの間にできた空白で僅かに揺れる。ていうか名字ちゃん髪長いな。いつだったか姉貴が髪を綺麗に長く伸ばすのは大変なのだと言っていた。彼女の髪は傷んでいる様子もなくさらりとしている。一年のときは生活指導の先生に色々言われたみたいだけど、色素が薄いのは染めているからじゃなくて元々そういう色らしい。水泳部みたいに塩素で茶色くなったそれとは違ってまろやかな色合いはミルクを数滴垂らした紅茶に近いかもしれない。きっと触れれば柔らかいのだろう。別に触りたいとかそういうことではないのだけれど。



 チャイムの音で彼女は本の世界から戻ってきた。
 今日は綾辻行人だから館で殺人事件? 自分で言っておいてなんだけどよくわかんない。ラストにどんでん返しがあるんだっけ?
 本は閉じられ、休み時間になるまで机の中にしまわれる。
 チャイムが鳴り終えると名字ちゃんがおもむろに振り返り、虹彩と瞳孔のコントラストが際立つ瞳が本日初お目見えした。彼女は髪の色素も薄ければ瞳の色素も薄いのだ。それこそカラコンみたいに。

「さっき何か言った?」

 薄い唇から疑問がぽつりと溢れた。
 担任が来てないのを確認しながら、さっき言ったのと同じことをもう一度繰り返した。

「うん、名字ちゃん家は壁一面の本棚とかありそうだよねーって」
「壁一面より床一面かな」
「それ足の踏み場ある?」
「歩くのには困らないよ」

 なんでも、本があり過ぎて本棚に入らないから仕方なく床に置いているんだとか。最初は数冊だったのに増えに増えて気づいたときには数十冊が床を侵食していたらしい。本棚買いなよ。

「いっそのこと犬飼が言ったみたいに壁一面本棚にしようかな」

 本当に? と聞くよりも先に教室のドアが開いて担任が入ってきた。名字ちゃんも前を向いてしまった。日直の掛け声に合わせてみんなが一斉に立ち上がり、椅子がガタガタと音を立てた。
 二年生の四月。席替えをするにはまだ早く、座席が出席番号順の時期。目の前の彼女はおれより頭一個分くらい小さい。



 昼休みも名字ちゃんは黙々と読書に勤しんでいた。さっきトイレに行くときにちらっと見た感じだと既に半分は読み進めてるっぽい。読書を優先するあまり、昼ご飯はキリのいいところまで読んでからじゃないと食べ始めないタイプだ。
 トイレの帰りに購買で買ったコロッケパンを齧りながら黒板の上の時計を見ると昼休みも残り半分。そこでようやく名字ちゃんが鞄の中から弁当を取り出して椅子をこちらに向けた。おれの机の上に置かれたスリムな長方形の弁当箱を見るたびに、それで足りるの? と思わずにはいられない。まあ、おれも今日はパン一個だけど。
 弁当箱の一段目にはおかず、二段目には白いご飯。いただきます、と手を合わせながら呟いた名字ちゃんは弁当箱と同じ色の箸で玉子焼きを摘まんだ。いいなあ、美味しそう。
 進級に伴うクラス替えで去年仲の良かったメンバーとは見事に別々のクラスになったから、ここ数日は席が前後なこともあって名字ちゃんとご飯を食べている。といっても食べ始めるタイミングはいつもバラバラで名字ちゃんが食べ始める前におれが食べ終えていることもあったし、今日もあとちょっとで食べ終わる。残りひとくちのコロッケパンを口に入れて咀嚼したのち飲み込んで、今朝自販機で買ったお茶も飲み干した。

「ひとつで足りるの?」
「足りないかも」
「何か買ってきたら?」
「もうほとんど売り切れてるだろうから今日はいいかな」

 ふと、窓のほうに視線を移すと外は目が眩むほどの快晴。絵の具を塗りたくったみたいな一面の青が窓枠に縁取られて収まっていた。それを見て真っ先に出てきたのは、いい天気だな、なんて人並みの感想。

「いい天気だね」

 眺めながらなんとなく呟けば名字ちゃんは口の中のものを飲み込んでから、そうだねと言葉を返してくれる。律儀な子だ。
 お弁当を食べ終えた名字ちゃんは自分の席に向き直って再び本の世界に没頭する。
 ねえ、それって現実より楽しい? 流石に聞けないから言葉にしないで飲み込んだ。
 本を読む彼女の目は、おれと話しているときよりずっと輝いている。

きみとは恋にならない

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