昼食を食べた後はどうにも気分が微睡んでしまう。ついさっき平らげたオムライスのようにふわふわとした眠気が私を支配し、目蓋を下ろそうとしてくる。しかしここは自室ではなく馴染みの喫茶店なのだからそれはいけない。たとえ年季の入った蓄音機から流れるジャズの調べが眠気を助長させたとしても。
 カウンターに突っ伏しそうになるのを堪え、どうにか睡魔を追い払おうと、グラスに半分ほど残っていた水を溶けて小さくなった氷ごと喉の奥へ流し込んだ。

「先生、眠そうな顔してる」

 カウンターを挟んで真正面、私の顔を覗き込むようにしてこの喫茶店のマスターである名前さんが言った。その声に睡魔にばかり向けてしまっていた意識が引き戻される。

「お水、おかわりしますか? それとも眠気覚ましにコーヒー? 紅茶もおすすめですよ」
「では……紅茶を一杯」
「かしこまりました」

 平静を装ったものの内心とても焦っていた。名前さんにあんな風に見つめられると、頬が熱を帯びてしまう。あれほど私を困らせていた睡魔もどこかへ去っていった。
 この喫茶店は元々名前さんのおじいさんとおばあさんが経営していて、一年ほど前から名前さんが一人で切り盛りするようになった。私は先代の頃から原稿執筆の息抜きにここへ通っている。紅茶やコーヒーはもちろん、卵サンドとオムライスが特に絶品で、名前さんの代になってもそれは変わっていない。一時は客離れが起こるのではと囁かれていたものの、先代の頃と変わらない味にそれは杞憂だった。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」

 白磁のティーカップから立ちのぼるのは花のような柔らかい香り。いつもとは違う茶葉だ。

「それ、金木犀の紅茶なんです。美味しかったので仕入れてみました」

 どうですか? と問う言葉とは裏腹に名前さんは答えなどわかりきったような自信に満ちた顔をしている。

「美味しいです、とても」

 瞬間、ぱっと花が開いたように名前さんが破顔した。それがあまりにも可愛くて、自然と目尻が下がってしまう。きっとずっと眺めていられる。それくらい可愛く、愛しい。一回り近く歳の離れた彼女への想いを自覚してから、もう半年経った。

「美味しいですよね。ふふ、先生も気に入ってくれると思ってました」

 名前さんは何よりもメニューを褒められると嬉しそうな顔をするということに気づいたのは代替わりしてから一ヶ月ほど経った頃だった。ちょうど今みたいに、卵サンドを食べる私の向かいで、この店の味を誰よりも好きなのは私なんですよ、と話してくれたのはつい最近。先代が大切に守ってきた味は名前さんにとって家庭の味でもある。きっとそれぞれのメニューに思い出があるのだろう。そして名前さんなりの拘りがあるのだろう。
 そう考えていると、名前さんが思い出したとでも言わんばかりに、あ、と小さく声を上げた。

「ところで先生……締切近いんですよね?」
「……さあ、どうでしょう?」
「どうでしょう? じゃないですよ。先生は締切が近くなるとよく来るの知ってますからね」
「私が書き終わったその日が締切です」
「そうやって先延ばしにするのは如何なものかと思います」
「名前さんまで担当編集者みたいなことを言わないでください……」
「先生が来たらそれとなく書くように言ってくださいってその担当編集者さんから言われてるんですよ」
「……本当ですか?」
「はい」

 まさか安息の時間を過ごす場所が知られているとは。担当編集者がここに直談判しに来たのは初耳だった……それにしても一体いつからバレていたのだろう。

「私もいじわるで言ってるわけじゃないんですよ? ただ先生の新作が読みたいだけです」
「それは嬉しいんですが……いいアイデアが浮かばないんですよ。最近、人から恋の話を聞けていなくて」
「恋の話ですか……藤目先生なら人に聞かなくても実体験から色々浮かびそうなのに」

 首を傾げながら名前さんが言った。その顔は至極真面目で、本当にそう思っているのだろう。
 しかし、実のところ私は恋愛経験が皆無だ。恋愛小説家でありながら、恋というものを知らない。それゆえに人から恋の話を聞くことで作品に活かしている。
 ふと、名前さんを見ると、顎に手を当てて何事か考えているようだった。そして少ししてから、

「うーん……私も先生のお役に立てるような話はできそうにないですね……」

 と、申し訳なさそうに言うのだ。

「いえ、気にしないでください」

 そんなに申し訳なさそうな顔をしないでください。好きな人の恋の話なんて、どこの誰とも知らない男との話なんて、聞いて気持ちの良いものではないのですから──なんて、思っても伝えられない。
 努めて平静に、穏やかに、この気持ちを気取られることのないように。自分が名前さんの目に「藤目先生」として映るように。当たり障りのない返答をする他ないのだ。
 ティーカップの紅茶がなくなりかけた頃、名前さんが小さく言葉を零した。

「……お恥ずかしながら、恋をした覚えがなくて」

 伏し目がちにはにかみながら名前さんが続ける。

「でも、先生の小説が私に恋愛を教えてくれるので。今はそれでいいんです」

 長い睫毛が縁取る双眸がおもむろにこちらを向いた。彼女の瞳に映る私は、今どんな顔をしているだろう。
 恋を知らない私が書いた小説で彼女は恋を教わるのだと言う。それは作家冥利に尽きるのかもしれない。しかし、恋を知らぬ分際で、彼女に恋を教えるのは私自身でありたいと思ってしまう自分がいる。

「名前さん、あなたの初恋を私にください」

 心に秘めておくはずだった言葉は音を伴って口から零れ落ちた。
 ああ、これはきっと、愛おしさに突き動かされたのだ。

芽生えの音

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