「美味しそう」という言葉は食材や料理に対して向けられる言葉だ。少なくとも私はそう思う。だから、あのときのネペンテスの言葉は、蝶に──きらきらと輝く極彩色の鱗粉に対してなのだと、私はそう思う。



「はあ……」

 城へ戻って夕食を済ませてからというもの、口からは溜め息ばかりが零れていた。
なるほど確かに、あれのあとでは料理の味が霞んでしまう。ネペンテスの言っていたことを理解した。
 だが、溜め息の理由は別にある。
 ネペンテスの行動原理は美食だ。美食のためなら迷わず我が国の食客となったように、付き合いはそれほど長くないが、友人としてそれをよくよく知っている。だからこそ、あのときのネペンテスの言動を良しとしない私がいる。あれは、美味しそうだからという理由で踏み込んでいい領域ではない。周囲曰く色恋に疎い私でもそれはわかった。
ネペンテスの舌が私の唇に触れ、舐めとり、離れていったあの僅かな時間を思い返すたびに、ネペンテスの言い分を看過できない私がいる。
 アレを誰にでもやっているのか? それならば、そうだな、やめたほうがいいと忠告しよう。友人として、忠告しよう。

「……はあ……」

 何度溜め息を零せばいい。
 身体をベッドの上に投げ出しながら、顔だけ動かして、もうすっかり日も暮れた外を見る。今日の夜空には月がない。星だけが輝いている。それでもヴィラスティンよりアルテミシアのほうが見える星の数は多い。そんなことを思いながら、目を閉じた。目蓋の裏に浮かぶのは祖国の星空──ではなく、ほんの数刻前の出来事。このまま意識を手放してしまえればよかったのに……安眠妨害にも程があるぞ。

「……はあ」

 まただ。溜め息を吐くと幸せが逃げていくというが、もし本当なら相当な損失だ。

「マルカ様」

 ドア一枚隔てた向こう──ではなく、それよりもずっと近い距離からネペンテスが私を呼ぶ声がした。はっとして身体を起こすと、ドアとベッドの間で立っているネペンテスがいた。

「! ネペンテス……!? いつの間に入ってきたんだ……?」
「何度もノックしたのですが返事がなかったもので……すみません」
「本当か……私のほうこそすまない。少し考え事をしていた」

 ベッドに腰掛けるように移動して衣服を整えた。ネペンテスが部屋に入ってきたことにも気づかないとは我ながら珍しい。

「それで、一体どうしたんだ?」

 ネペンテスはその場から一歩も動かないまま、少し間を置いてから喋り始めた。

「夕食のとき、あまり気分が優れないように見えたもので」
「ああ……気にするな。たいしたことじゃない」

 原因は目の前にいるのだが。

「そうですか……」
「なあ、ネペンテス」
「はい、なんでしょうか」
「美味しそうだから、を免罪符にするのは今回限りだ」
「……と、言いますと」
「ああいうことは好きな相手としろ。誰も彼もが許してくれると思うな」

 そう言ってネペンテスを見ると顎に手を当てて何やら考え事をするような仕草。それから少しして、考えがまとまったのか口を開いた。

「それなら問題ありませんね」

 耳を疑ったのは言うまでもない。私の話を聞いていたのか?
困惑が顔に出ているのが自分でもわかる。

「私、マルカ様のことが好きですから」

 にっこり。言葉にするならそんな笑顔で、ネペンテスはそう宣ったのだ。

「……は?」

 今、なんて言った。

「好きな相手となら、よいのでしょう?」

 探るように一歩、また一歩とネペンテスが距離を詰める。手を伸ばせば届くところまで来て、足を止めた。
 私にはネペンテスの考えていることがわからない。

「マルカ様は」

 笑顔はいつの間にか真面目な顔へと変わっていた。

「──マルカ様は、私を好きですか」

 おもむろに伸ばされた両手が私の頬に添えられる。私が下を向くより先にネペンテスのほうを向かされた。
 私がお前を嫌いなものか。お前は私の友人だ。そう言いたいのに、言葉が喉に張りついて出てこない。ネペンテスの言う好きの意味もわかっている。だから、言葉に出せないでいる。
 自分の心が波のように揺らいで煩い。
 お前のことが好きだよ。でも、お前の好きと私の好きはきっと違う。きっと、違うはずだ。確証は持てないが。

「……私に、どう答えてほしい」

 そう絞り出すので精一杯だった。質問の答えにすらなっていない。ネペンテスは何も言わない。

「……正直、わからない。でも、ひとつだけ言えるのは、お前のことは好きだ。これがそういう好意なのかはわからないが」
「わからない、ですか」
「生憎そういうのには疎くてな」
「なるほど……」

 ネペンテスはまた黙り込む。
 納得してもらえなかっただろうか。でも事実だ。
 顔はネペンテスを向いたまま、視線を合わせられずに泳がせた。
 ふと、どこからか甘い香りがしているのに気づいた。嗅ぎ覚えのあるような、ないような、静かに香る甘さだ。不思議に思っていると、身体に力が入らなくなっていることにも気づいた。身体を起こしているのがやっとで、できることなら横になりたい。ネペンテスに断ってから身体を横にした。また、身体から力が抜けていく。不思議な脱力感。

「ネペンテス、悪いが今日はもう戻れ」
「嫌です」
「……ネペンテス、」

 私の顔の横にネペンテスが手をついた。髪が肩口に触れて少しくすぐったい。
 それから、甘い香りが強くなった。手を動かすのさえやっとのことだ。恐る恐る、ネペンテスの頬に触れる。お前、そんな顔もできたんだな。
 少しずつ距離がなくなっていくにつれて、ものを考えることすらままならなくなっていく。思考がぼんやりと溶けて、言葉が虚空に消える。かろうじて発せるのは、目の前の男の名前くらいだった。呂律の回らないまま、ネペンテス、と呼んだ。
 視界も暗くなりゆくさなか、唇に触れたものが何かさえ私にはわからなくなっていた。

花の香は芳し

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