ヴィラスティンのイチョウ並木は観光名所なのだと執事が話しているのをそれとなく聞いた。アルテミシアのイチョウ並木が見頃を迎え、ネペンテスが食客となってから半年もとうに過ぎた頃だ。
といってもネペンテスはアルテミシアに滞在し続けているわけではなく、公務のために何度も帰省を余儀なくされていたのだが。しかも、そのたびにシェフを連れて行こうとするのだから困ったものだ。
自室で猟銃の手入れをしながら、窓から黄金色に染まった城下の街並みを眺める。イチョウを観るよりも銀杏を拾い集める者のほうが目につくのは流石我が国といったところか。
「……ん?」
視界の端に、見慣れた緑色がいる。
案の定それはネペンテスで、イチョウ並木の一角でしゃがみ込んで……あれは間違いなくイチョウの実を拾っているんだろう。
アイツはそういう奴だ。ネペンテスに対するある種の信頼じみたものがそう確信させる。
手入れを終えた愛銃をガンロッカーに仕舞い、鍵を掛けてから再び窓の外を見る頃にはネペンテスはどこかに行ってしまったようで姿は見えなかった。その代わりに雨雲が存在を濃く主張していた。もう少しで一雨来そうだ。
それから程なくして雨が降り始めた。ネペンテスは濡れ鼠になっていないだろうか。どこかで雨宿りできていればいいのだが。雨粒が伝う窓ガラスを指でなぞりながら、再び窓の外に意識を向ける。イチョウの葉が地面に貼りつくように重なり合って、止む気配のない雨を受けていた。
トントン。
雨音よりもやや大きいノックの音がした。
「マルカ様、少々お時間よろしいでしょうか」
「! ネペンテスか……入れ」
扉を開けて入ってきたネペンテスは雨に当たることなく帰って来ていたらしく服は少しも濡れていなかった。ソファに座るよう促してから私も向かいに座った。間に置かれたテーブルの上には半分ほど中身が残ったティーカップ。初めて会ったときにネペンテスが気に入ってくれたハーブティーだ。
「何かあったか?」
「ええ、実は──」
公務でヴィラスティンに帰らなくてはならなくなりました。
その言葉を聞くのは何度目だろう。ネペンテスは落胆したように眉尻を下げている。
「終わったらまた来ればいい。約束通り食べ飽きるまで抱えてやるつもりだ。……まあ、既に食べ飽きているのなら話は別だが」
「とんでもありません。まだ食べていないものもありますし、すっかりアルテミシアが気に入りましたから、まだしばらくは食客として過ごすことを許していただきたい」
「そうか、それなら構わない」
「それで、ご相談なのですが」
「シェフの同行は許可しないぞ」
「うっ……」
……そんな悲壮感漂う顔をしないでくれ。
一夜明けて、ネペンテスは朝も早よから私の部屋を訪ねた。朝食もまだだというのに元気なものだ。ある程度の身仕度を整えて──目元に紅を引くのはあとでいいか──ネペンテスを招き入れた。
「──で、用件は?」
「マルカ様もヴィラスティンに行きませんか?」
私が行くからといってシェフが同行するわけではないぞと述べると、ネペンテスはそういうわけではありませんと首を振った。
「……おや?」
ふと、ネペンテスが不思議そうに声を上げた。何事かと顔を上げると、じぃっと食い入るような視線が注がれた。自然な手つきで頬に片手が添えられ、ネペンテスの親指が私の頬と下目蓋の境をなぞった。
「少し雰囲気が違いますね」
「誰かさんがこんな朝早くから来たお陰でな」
ネペンテスの手に手を重ねてそっと引き離した。大人しくすんなりと顔から離れた手が、不意に絡まるようにして私の手を捕らえた。反射的にネペンテスのほうを見ると、降ってきたのは──
「ヴィラスティンのイチョウ並木を観に行きましょう」
思いがけない提案だった。
あのネペンテスがレストランでも闇市でもなく自国のイチョウ並木を観に行かないかと誘ったのだから、彼の人となりを知る者として驚かないわけがない。何か企んでいるのではないかと勘繰る程に、いつものネペンテスからは想像もつかない言動だった。イチョウ並木の近くに何かしらの美食があるのだろうか。疑念の目を向けられた本人は、ん?と小首を傾げながら返事を待っている。
まあ、何を企んでいたとしても、私が一度ヴィラスティンに行ってみたいと思っているのは確かなのだから、答えはイエスと決まっている。
「エスコートは任せた」
「ええ、もちろんでございます」
そうして、ネペンテスは捕らえた手を引き寄せ、恭しく口づけた。
週末になり、ネペンテスの帰省に併せて私は初めてヴィラスティンを訪れた。昼前に着いてからネペンテスの公務が終わるまで、城の中の割り当てられた部屋で過ごして時間を潰した。
夕陽が辺りを柔らかく照らす頃、ネペンテスと並びあってイチョウ並木を目指し始めた。色とりどりの花が咲き誇る城下を見回しながら進むたびに秋の香りがふわりと鼻を抜けていく。アルテミシアには自生していない花だろうか、時折、嗅ぎ慣れない甘やかな香りも鼻を掠めていった。
「なあ、ネペンテス」
「はい、なんでしょうか」
「お前の城の料理、全然不味くなかったぞ。むしろ美味かった」
「ありきたりな味でしょう」
「お前は舌が肥え過ぎなんだ」
そうこう話しているうちに、見えてきた。
黄金色の絨毯。そう形容するのが正しい光景に思わず目を奪われた。綺麗だ、と声に出してしまうほどの美しい自然がそこにはあった。踏み締めるのがもったいない。躊躇から足を止めた。つられてネペンテスの足も止まる。
「綺麗だな」
ぽつり、同意を求めるような言葉が漏れた。そうですね、なんてネペンテスが答えないことはわかっていた。
「そうですか、それはよかった」
本当に、食にしか興味がない男だよ。
それならばどうして私をここに連れて来たのだろう。考えるほどにわからなくなる。
「行きましょう、マルカ様」
自然な動作で手を取ったネペンテスが歩き出したから、躊躇いながらも黄金色を踏んで歩いた。そのせいで普段よりも歩く速度が遅くなっているのだが、ネペンテスは歩幅を合わせてくれている。人に手を引かれて歩くのはいつ以来だろう。エスコートされるままに進んでいく。
「どこへ行くんだ?」
「さて、どこでしょう」
問いかけに悪戯っぽい笑みを返したネペンテスは、続けて
「マルカ様に私のとっておきをご賞味いただきたい」
と言った。
ネペンテスのとっておき。それはきっと美食的な何かなのだろう。そう思っているのだが、イチョウ並木を抜けたネペンテスはそのまま街中ではなく森のほうへと歩みを進める。どうしてそっちに行くんだ。私の疑問を知ってか知らずか、ネペンテスの視線は進行方向から逸れない。
進み続けて、気づけば森の最深部。辺りも薄暗くなっている。大木のアーチを抜けた先には、木々に囲まれながらも中央だけがぽっかりと開けた空間が広がっていた。そこまで歩いて、やっとネペンテスの足が止まった。繋いでいた手を放したネペンテスは、いつの間に取り出したのか、小さなボトルのコルク栓を抜くと中の液体を辺りに振り撒いた。蜜のような香りが広がっていく。それはこの国に来てから嗅いだどの花よりも甘く、色濃い。
何が起きるのか想像すらできないでいると、どこからか不思議な色の蝶が飛んできた。それも一羽や二羽ではない。甘い香りに誘われた美しい極彩色は群れを成して集まってくる。
これが、ネペンテスのとっておき。ただ美しいだけじゃない。この蝶の秘めた味に興味が湧いた。
「どうです、これが私のとっておき……美味しそうでしょう?」
うっとりと、恍惚とした顔でネペンテスが蝶の群れに手を伸ばした。そのうちの一羽が指先に留まると、もう片方の手で翅の付け根の部分を捕まえて私に差し出した。ぱたぱたと翅がはためいて、きらきらと鱗粉が舞う。恐る恐る口を開けて、翅のほうから口内に収めていく。はためきが唇に当たり、反射的に口を閉じた。ぶち、と片翅がもげた。それが味蕾と触れ合い、今まで味わったことのない未知が広がる。これは、この味は──
「──美味い……!」
「そうでしょう、そうでしょう! あなた様ならわかってくれると思っていました!」
ネペンテスは嬉々として片翅の蝶を再度私に差し出した。促されるままに残り全てを口に入れると、おもむろに咀嚼する。ぐちゅ、と潰れる音の生々しさこそあれど、翅も頭も胸も腹も、余すところなく美味だ。昆虫食は初めてだが、まさかこんなに美味いものだとは……!
「ネペンテスのとっておきは美味いな」
「ええ、マルカ様にも気に入ってもらえてよかったです」
話している間にも、蝶は飛来する。すっかり周りを取り囲まれてしまい、見渡す限りの極彩色は少々目に痛いくらいだ。そっと手を差し伸べると私の指先にも蝶が留まった。逃げられないように魔力で固定して、そのまま口へ運び、咀嚼し、嚥下する。既知となった美味をじっくりと味わいながら。
「……マルカ様」
「ん? なんだ──」
言い終わるより先に、ネペンテスの指が顎に触れる。くい、と向きを変えられて視線が合ったかと思うと、その距離は吐息を感じるほどに近い。思わず身を硬くするのにも構わず、ネペンテスの赤い舌が唇を這っていった。触れた箇所は熱を帯びたかのようで、あまりのことに腰が引けたがすぐにネペンテスの腕が抱き寄せた。
「美味しそうだったので、つい」
鱗粉で染まった舌を見せながら、ネペンテスは目を細めて笑う。その仕草がとても蠱惑的で、私は何の言葉も発することができなかった。
色を喰む