広大な国土の中でも一年の三分の二は雪が降るこの地域は今日も今日とて雪景色。二重窓の外に生え並ぶ葉の落ち切った木々も雪化粧してすっかり冬の装いだ。そんな豪雪地域と、四季を有する地域の境目にあるのがアルテミシア城。城壁も白ければ居館も白いアルテミシア城から豪雪地域へ数キロ程進んだところにあるのが解体処理場。私の場合、この地域で仕留めた獲物は主にここで解体し、食肉となってから城へと運ぶ。
ネペンテスと初めて会ったときも城へ連れて行く前に一旦ここに寄り、暖を取ってから鹿の解体作業に勤んだものだ。一国の王子に作業を手伝わせるのは忍びなかったが、ネペンテス自らやりたいと望んだのであればやらせないわけにはいかない。あれはなかなか見事な手際だった。肉は丁寧に処理する程美味くなる。ネペンテスの食への拘りは必然的に処理の丁寧さへと繋がる。正直この国向きの人材だと思った。
「さて、と」
目の前には吊るされた猪。今日はコイツを解体する。この解体処理場はひとつのフロアがいくつかのブースに分かれる構造になっていて、それぞれの解体ブースには獲物を吊るすための設備や作業台やガスコンロ等が常設されている。そして肉質の低下を防ぐために基本的に暖房は入っていない。鍋に張った水を沸かし、ナイフに付着した脂を落としながら作業できるよう準備しておく。脂が付着するとナイフの切れ味が悪くなるのだ。よし、早速皮を剥ごう。さっと湯に通したナイフを猪の後ろ脚へ沿わせたそのとき――
「失礼します。マルカ様、お客様がお見えになっています」
頭に少し雪を乗せた仏頂面の執事が来客を知らせにやって来たのだった。
「お久しぶりです、マルカ様。急な来訪で作業を中断させてしまいすみません」
「いや、いいんだ。気にするな。こちらこそ久しぶりだな」
お客様とやらはネペンテスのことだった。
一ヶ月前に初めて会ったときとは違い、今回はしっかりと防寒した格好で現れた。撥水性のあるダウンコート。耳まで覆う帽子に首元の隙間を埋めるように巻かれたマフラー、厚手の手袋、それから防寒性と歩きやすさを重視したヒールの低いブーツ。あれからひと月しか経っていないが、確かにネペンテスの成長を感じる。持ってきていた折り畳み式の小さな椅子にネペンテスを座らせ、要件を伺う。
「それで、今日はどうしてここに?」
「はい、実は――」
城の料理が口に合わなくなってしまいました。切なげに目を伏せて、ネペンテスが告げた。それはもう、本当に切なげに――この世の終わりと言わんばかりに、悲嘆していた。城の料理が口に合わなくなったというのは美食家のネペンテスからすれば死活問題だろう。
「そうか……一体なにが原因でそうなってしまったんだ?」
ストレスは味覚を狂わせることがあると聞いた覚えがある。もしかしたらネペンテスもなにかストレスを抱えていて、それが味覚に支障をきたしているではないだろうか。
「原因はわかっています……」
蚊の鳴くような声。語尾は聞き取れたものの消え入りかけていた。原因がわかっているのなら対処のしようがあるはずだ。言葉の続きをじっと待つ。
「……まの、……ろの……が…………た……」
「ん? すまん、今なんと――」
「あなた様の城の料理が美味し過ぎたのです!」
「……は?」
「美味しいものを食べて美味しいのハードルが上がったといえばわかりやすいでしょうか? あなた様のところのシェフ! 彼の料理が! ハードルを……上げてしまって……お陰でこっちの城の料理は前にも増して……美食には程遠く……なんということでしょう……」
「お、落ち着け……」
ネペンテスは椅子から転げ落ちそうな勢いで頭を抱えた。頭を抱えたのは私も同じで……。どうしたことか、もてなすための美食が、こうしてネペンテスの苦しみの種となっていた。
「……あのシェフをヘッドハンティングしても?」
いや、そんなハッと閃いたような顔してもだめだ。言っただろう、ウチのシェフは腕が良いって。そんな簡単に引き抜かせてたまるか。
断ると途端に、この世の終わりと言わんばかりに悲嘆と絶望をじっくりコトコト煮込んで一晩寝かせたような顔に逆戻り。
「……とりあえず、話の続きはコイツを解体してからにしよう。……どうする? 手伝ってくれるか?」
「ええ、そのほうが気が紛れます」
「じゃあ皮を剥ぎ終わるまで待っててくれ」
「わかりました」
ナイフを猪の後ろ脚へと滑らせ、今度こそ皮を剥いだ。
内臓は既に取り出してあるからいいとして……そうだ、今度ネペンテスにもやらせてみようか? 膀胱周辺を傷つけないよう慎重に手を進める必要があるがネペンテスならまあ大丈夫だろう。もし失敗してぶち撒けたとしても、それはそれで経験のうちだ。
猪の解体を終えた私達は入り口近くの談話スペースで先程の話の続きをしようと思ったのだが――さて、この話題になった途端ぐったりと項垂れてしまったネペンテスをどうしたものか。
「いつまでそうしているつもりだ」
「はあ……そう言われましても……」
膝を抱えて座り込むネペンテスは顔を上げようともしない。
「シェフは遣れない。諦めてくれ」
「……本当に、腕の良い方でした」
「ああ、私の自慢だよ」
「お陰でここ最近は朝食以外全て闇市のレストランで済ませてしまいます」
「……闇市?」
闇市。なにやら聞き慣れない単語だ。いや、どういうものかは知っている。知っているが我が国には存在しない――存在させていないと言ったほうが正しい――ものだから、つい聞き返してしまった。
「ええ、例えば生きた●●を▽▽して、そのまま××したものだとか、そういう料理を提供している店が立ち並んでいる闇市がヴィラスティンにはありまして」
「なるほど……」
どうやらそれは私の想像していた闇市とは異なるようだ。アルテミシアならその手の料理を提供する店は街の表通りで普通に営業している。そこは国民性の違いだろう。この国の民はかなり食に寛容だから、所謂ゲテモノ料理も所詮は料理だろうの一言で片付ける。食の坩堝、此処に極まれり。
……それにしても成る程、ネペンテスは王宮料理よりもゲテモノ料理か。格式や伝統よりも味か。例え見目が悪くとも美味しければそれで良いのか。成る程、となると結論はコレだ。
「――ネペンテス、お前、我が国の食客になれ。食べ飽きるまで私が抱えてやる」
王子としての務めと美食を天秤にかけたとして、ネペンテスが選ぶのは間違いなく後者だ。それならばその心を汲んでやるのが友として私にできる唯一のことだ。
そして肝心のネペンテスはというと、やっと顔を上げたかと思えばポカンと口を開けて呆けたような表情。相変わらず歯はギザギザに尖っている。
「……どうする?」
「……それはそれは……なんとまあ、とても魅力的な……」
ネペンテスの不思議な色の瞳が見る見るうちに輝きを取り戻していくのがわかった。それはまるで、枯れかけていた植物が水を得て復活するかのよう。
「是非とも私を、マルカ様の食客として迎えていただきたい」
そう嬉々として答え、見た目よりも強い力で私の腕を掴み引き寄せた。
ふと、どこからか甘い匂いがしたような気がして、それに気を取られているうちに手の甲に口づけがひとつ、落とされた。
草枯れと返り花