日が昇って間もない冬の朝。吐く息は白く、晴れているものの風は肌を突き刺す冷たさだ。例年に比べ然程積もっていなかった雪も、昨晩降った雪のせいで脛の辺りまで埋まってしまうほど積もっていた。スノーシューを履いているとはいえ、この雪の上を猟銃や諸々の荷物を背負って歩くのはなかなか骨が折れる。やっぱりスノーシューじゃなくて裏面にアザラシの毛皮を貼ったスキーにするべきだっただろうか。スキーと比べてスノーシューはいちいち足を上げて下ろして雪を踏みしめるのだから太ももにくる。これで昨日仕掛けた罠に獲物がかかっていなかったら……いや、そんなことを考えるのはよそう。
 まだ少し葉の残っている木々の枝葉を手で避けながら山の奥へと歩みを進める。もうしばらく行けば罠の目印のネームプレートを括りつけた木があるはずだ。猪か鹿か、そのどちらかがかかっていればいいのだが……。
 防寒しているとはいえ氷点下を吹き抜ける風に晒された顔はひんやりとして、鼻の奥がつんとする。ネックウォーマーを鼻が隠れるまで上げて、フードを被り直した。今の私はコートからネックウォーマーからゲイターから銃のカバーから何から何まで白い。冬場の狩りは獲物に気づかれないために全身白で統一する。もっとも、今日の目的は狩りではなく罠の確認だから別に全身白でなくてもよかったのだが。



 目印が括りつけられた木を発見したものの、一つ目の罠には何もかかっていなかった。ここは猪のヌタ場が近いから他に仕掛けた罠と比べてかかりやすいだろうと思っていたのだが、猪は鼻が利くからひょっとしたらワイヤーの匂いで罠に気づかれたのかもしれない。仕掛けた罠は全部で三つ。早いとこ残りの二つも見に行かなければ。この雪で罠が凍ってしまっては大変だから残念だが罠は回収した。元来た道を引き返し、他の二つに比べて少し開けたところに仕掛けた二つ目の罠を目指す。睫毛が少し凍り始めていた。



 我が国――狩猟の国・アルテミシアの国民は性別問わず成人の半数近くが狩猟免許を取得している。王族はその限りではないが、アルテミシアでは十八歳から狩猟免許取得が認められているので私も去年から公的に狩りをすることができるようになった。そして実のところ、罠猟は今回が初めてだったりする。いつもは罠は使わず猟銃一つで獲物を仕留めているのだが、新しいやり方に触れてみるのも自分の経験値になると思って今季から始めてみた。罠というとトラバサミなんかが思い浮かぶと思うが、それは我が国では禁止されているから、今や罠といえばくくり罠。私のもワイヤーやスプリングを使って自作したくくり罠だ。
 獲物がかかっていることを祈りながら二つ目の罠を仕掛けた場所に辿り着いたとき、私の目に飛び込んできたのはあまりにも予想外過ぎる光景だった。
 ネックウォーマーを顎の下まで下げて辺りを確認する。木に括りつけられたネームプレートには確かに自分の名前が記されているからここに罠を仕掛けたことは間違いない。そして罠は作動している。つまり、かかったのだ。かかったのだが、そのかかったモノが問題だった。
――人だ。ヒト。人間だ。
 冗談だと思いたかった。この寒さで幻を見ているのだと――それもそれで危ないが――思いたかった。しかしそれは現実だった。黒い帽子を被った髪の長い男が足にかかったくくり罠を外そうと地べたに座り込んで雪まみれになりながらもがいているのは、どう考えても現実だった。

「大丈夫か!? 今外す……!」

 私が作ったくくり罠は一見すると普通のくくり罠だが、獲物がかかったとき簡単に外れないようにと魔力が込められている。そのせいでこの男は罠を外せないでいるのだ。
 ああ、これは改善の余地があるな……。対象をヒト以外の動物に限定しなければ。
 罠に手を翳し、纏わせていた魔力を解除する。男の足にかかっていたワイヤーはすんなり外せた。立ち上がらせて男の背面の雪を払う。帽子と同じく黒いコートは雪が滲んで色の濃さを増していた。

「すみません、うっかりしていました……」

 だいぶ消耗しているのだろう。男が紡いだ言葉は弱々しいものだった。そして開いた口から覗いた歯はギザギザしていて特徴的であり、捕食する側のそれだ。寒さで赤くなった顔とは対照的に力強ささえ感じた。男は顔も赤ければ同じように外気に晒された耳も赤く、恐らく痛覚も鈍っている。帽子を被っているとはいえ、それは耳まで覆うようなものではないのだ。コートを着て手袋もつけてブーツも履いているのだが、見るからに防寒性が足りていない。首元にはマフラーなどはなく、隙間から冷気が入り放題だ。そんな格好で雪山に入るだなんて準備不足にも程がある。一体なにをしにやって来たのだろう。それにこの山は私有地だから許可された者しか入れない。私が来なければ最悪凍死していた可能性だってある。

「謝るのはこちらのほうだ。これは私が仕掛けたんだ。本当に申し訳ない」
「あなた様が……ということは、あなた様は猟師なのですか?」
「いや、猟師じゃない。狩りは趣味だ。狩猟の国というだけあって猟師だけじゃなくそういう趣味のやつも多いんだ」
「そうなんですか……」

 狩りが趣味な女が珍しいのか、男は少なからず驚いたようだった。私は背負っていたリュックの中から予備のネックウォーマーを取り出して男に差し出した。

「そんな格好じゃ寒いだろう、ほら」

 ありがとうございます、と男がネックウォーマーをつけたのを確認してから、今度は水筒を差し出した。

「これは……?」
「ホットのハーブティーだ。飲みさしで悪いが温まるぞ」

 この辺りの山に自生するハーブをいくつかブレンドしたもので、この季節には欠かせないんだと言うと男は興味深げに頷いて水筒を開け、少し香りを確かめてから飲み口に口づけた。味の感想を聞かせてほしくてついまじまじと見つめてしまっていたのだが、一口飲んだところで男がカッと目を見開いたかと思うと、続けて二口、三口と凄まじい勢いでハーブティーを飲み始め、そんなに喉が渇いていたのかと私が申し訳ない気持ちになっているうちに最後の一滴まで飲み尽くしてしまった。

「……しい」
「え?」
「素晴らしい!」
「……はい?」
「まさか水筒を開けた途端にこんなに芳醇な香りが私を待ち受けているだなんて……! そして今まで飲んだどのハーブティーよりも口当たり良くまろやかな味ときたら……! まるで年代物のワインを飲んだときのような高揚感です。これは素晴らしく美味しい……!」
「そ、そうか、ありがとう……」

 まさかこんなに喜んでもらえるなんて……。さっきまでの弱々しさは何処へやら、嬉々としてハーブティーの感想を語る姿に、かなり食に精通している印象を受けた。

「ああ、そういえば自己紹介がまだでしたね。私、名をネペンテスと申します。この国にしかない美食を求めてやって来たのですが、これはかなり期待できますね。幸先の良いスタートです」

 ハーブティーが美味しかったとはいえ、私有地に入り込みくくり罠にかかってあわや凍死しかけたのは果たして幸先の良いスタートなのだろうか。

「こちらこそ申し遅れた。私はマルカ。美食を求めてやって来たのなら、是非ともアルテミシアのジビエ料理を食べてほしい。お詫びに御馳走させてくれ」
「本当ですか? では、お言葉に甘えるとしましょう」

 ネペンテスの声が嬉しそうに弾んだ。
 私はネペンテスから握り締めたままだった空の水筒を受け取ってリュックのサイドポケットに入れ直した。

「あー……ネペンテス、回収しなければならない罠がもう一つあった。寒いところ申し訳ないが回収に付き合ってくれ」
「ええ、構いませんよ。ハーブティーのお陰で体も先程より温まっていますから」
「それは良かった。じゃあ私の後をついて来てくれ」

 ヒールの高いブーツでこの雪道を歩くのは辛いだろう。歩幅を調整してネペンテスが少しでも歩きやすいように雪を踏みしめる。
 一つ目の罠は空振り、二つ目の罠にかかっていたのはまさかのヒト、三つ目の罠は果たしてどうなっているだろう。



「おっ」
「かかってますね」
「若い雄鹿だ。仕留めるから待っていてくれ」

 喜ばしいことに三つ目の罠にかかっていたのは鹿だった。リュックをネペンテスに預けて猟銃に弾を装填し、構える。この距離なら難なく頭を狙えるから鹿に何度も痛い思いをさせなくて済む。鹿は罠から逃れようと必死になってもがいていた。狙いを定め、引き金に指をかける。この瞬間はいつになっても緊張する。全神経を集中させて放った弾丸はーー狙い通り、鹿の頭に命中した。

「お見事です」

 ネペンテスがリュックを抱えたまま手を叩いた。手袋をつけているから音はぽふぽふと控えめにしか鳴らない。

「ありがとう。早速血抜きしよう。そうしたらネペンテス、悪いが沢まで運ぶのを手伝ってくれ。汚れるのは申し訳ないから今つけている手袋の代わりにリュックの中に入ってるやつを使ってくれ」
「ええ、それは構わないのですが……どうやって運ぶのですか?」
「少し太めの棒くらいの木を切ってそれに鹿の手脚を括りつけて運ぶ」



 水面が陽の光を反射してきらきらと輝いている。鹿は血抜き処理の後、沢の水に浸けて冷やすことにした。流れていかないように脚を適当な木に紐で括りつけてある。私とネペンテスは焚き火をして小休止中だ。オレンジ色の炎はゆらゆらと揺れて熱を発する。ネペンテスと二人、手頃な岩に腰掛けて暖をとった。

「そういえば、ネペンテスは何処から来たんだ?」
「言ってませんでしたっけ」
「聞いてないな」
「花の精の国・ヴィラスティンです」
「ヴィラスティン……名前なら聞いたことはあるがあまり詳しくは知らないな」
「でしたらハーブティーのお礼に今度招待しますよ」
「そんなに気に入ったのか」
「ええ、とても」

 そう答えたネペンテスは見るからにうっとりしているから本当に気に入ったのだろう。ありがたいことだ。

「あれらのハーブは国外ではほとんど流通していないからなあ……気に入ってもらえたみたいだから、ネペンテスさえよければそのとき持って行こう。ハーブティーの作り方も教える」
「是非ともお願いします!」
「わっ……!」

 ネペンテスがあまりにも勢いよく手を握るものだから、驚いて思わず声が漏れてしまった。出会って間もないがネペンテスの食に対する貪欲さは人並み以上だと確信を持って言える。間違いない。

「そういえば、ジビエ料理なんだが……ウチで食べないか? 熟成してちょうど食べ頃の肉がいくつかあるんだ。きっと満足してもらえると思う」
「それはそれは……なんとも食欲をそそられますね。あなた様が料理するのですか?」
「それも考えたが、今回はシェフに任せるよ」
「お抱えのシェフがいるのですか?」
「ああ、とびきり腕の良いのが」

 私だって料理ができないわけではない。むしろ料理は好きだし、得意だ。しかしネペンテスは美食家。いくら料理が得意とはいえここはプロに任せるのが一番だろう。なによりウチのシェフのジビエ料理は贔屓目抜きで絶品だ。ネペンテスは美食を求めてやって来たのだから、もてなすなら最上級で、だ。

「お嬢様だったのですね」

 不意にネペンテスがそう言った。お嬢様か。あながち間違いでもない。というか、間違ってはいない。……そうか、私達はお互いの名前は知っているが素性は知らないのか。

「……そうだな、改めて名乗ったほうが良さそうだ」
「改めて、と言いますと?」
「――私はアルテミシア第一王女のマルカ。罠の件は本当に申し訳なかった。考えが及ばなかった私の責任だ」

 信じられないとでも言いたげなネペンテスと目が合った。気持ちはわからなくもないが、世界は広いから一人くらいこんな王女がいてもいいだろう。

「まさか、王女様だったとは……」
「らしくないだろう?」
「護衛もつけずに手ずから狩りをする王女様は確かに珍しいですね」
「そういうネペンテスもな」
「私も?」
「ああ、ネペンテスみたいなタイプには初めて会ったよ。色々驚かされてばかりだ」

 初対面で罠にかかっていたり、食に対して異様に貪欲だったり、意外性とインパクトは今までで一番だ。
それを聞いていたネペンテスは口元に手をやって何事か考え始めたかと思うと、少ししてから思いついたように口を開いた。

「ふむ……では、もっと驚かせて差し上げましょう」

 ネペンテスの言葉に、これ以上なにが飛び出すのだろうと内心期待している自分がいた。
 しかし、一呼吸置いて続けられた言葉を聞いた私は驚くと共に、しまった! と今まで生きてきた中で一番強く強く思った。

「私も改めて自己紹介しますね。私、花の精の国・ヴィラスティンのウツボカズラの一族の王子、ネペンテスと申します」

 ネペンテスは帽子を押さえて頭を下げた。その口元はにやりと弧を描いている。

「……ネペンテスが……王子……?」
「その様子だと驚いてもらえたみたいですね」
「いや、正直驚くどころじゃない……」

 なんてことだ。自分はよりにもよって他国の王子を罠にかけてしまったのか!

「罠のことは気にしないでください。というより、謝るべきは私のほうです。恐らくこの山は王族の私有地なのでしょう?そうとは知らず勝手に入って罠にかかったのだからあなた様が責任を感じる必要はありませんよ」
「し、しかし……」

 しばらく押し問答を続けていると、不意になにやら聞き覚えのある低音の響きがした。すぐ近く、ちょうどネペンテスの腹の辺り――ということは、腹の虫か? 朝も早よから山に入っていたのだから、ひょっとしたら朝食もまだなんじゃないだろうか。

「うぅ……流石に我慢の限界です……」

 ネペンテスの眉尻が下がる。なんて辛そうな顔をするんだ。つられて私まで空腹を意識してしまう。

「ならば城へ戻ろう。そして申し訳ないがまた手を貸してくれ。鹿を運ばなければならない」

 焚き火を消し、沢の水に浸けておいた鹿を引き上げ、再び手脚を木の棒に括りつける。よろよろと立ち上がったネペンテスが棒の片側を手に持ったのを確認してから二人でタイミングを合わせ慎重に肩に担いだ。鹿の重みがズシリと肩を圧迫する。

「はぁ……美味しいジビエ料理のためなら、なんのこれしき……」

 踏みしめるたびに音を立てる雪道を先導していると後ろからそんな声が聞こえた。少し振り返ってネペンテスを見ると心なしか顔色もさっきより良くなっている気がする。本当、見上げた美食家根性だ。
 そうだな、ネペンテスには色々手伝ってもらったし朝からフルコースにするか。
 頬を撫でる風は先程よりも優しく、山肌に積もった雪をふわりと巻き上げた。

風花舞う頃

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