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蝉が鳴いている。
夏だな、なんて再認識すると周りの温度がとんでもなく暑く感じた。
「あつ……」
「文句言うなヨ、それ最後の一本だったアル」
定番中の定番のバニラのアイスは冷蔵庫から取り出されて五分と経たないうちに、既にドロドロだ。
垂れそうなアイスを慌てて舌で掬う。
やっぱ夏はアイスだな。
「………おい」
「……何ヨ」
「手ぇ、止まってんぞ」
「断じて止まってないアル、速すぎて止まってるように見えるだけネ」
「んじゃあせめてそのヨダレはどうにかしやがれ」
「アアアァァァ!!!!!!!最後の…最後の一本だったのにィィィィィ!!!!!!」
だめだこりゃ。
宿題見せてやってんのにさっきから1ページも進まない。終わらす気あるのかとため息を吐いた。
昨夜電話があった。
今まで掛けたことも掛かったこともない奴、チャイナからの着信だった。
こいつと関わるとロクな事がない。
残り十日に迫った夏休みを大事にしようと着信には出なかった。
……のは良かったものの。
(この馬鹿)
今の今まで何をしていたんだと疑いたくなる。課題は今日まで見事に手つかずのままだった。
朝、玄関の呼び出し音がなった。
開けた扉の先にいたのは、珍しく塩らしいチャイナだった。助けてと弱々しく呟いたチャイナに、うっかりときめいた。仕方なく、俺がチャイナの家へ課題を持っていく羽目になった。
そして今に至るわけだ。
「さっさと写せよ、写すくれェできるだろィ、阿呆」
「うっ…うっさい!」
チャイナは留学生。
言葉は達者なくせに、書いたり読んだりはまだ苦手らしく、それをものとも思わずバリバリ日本語の課題を出す銀八を鬼だなぁと思った。
「仕方ねー…、そら、それ貸せよ、手伝ってやるから」
「おきたぁ……」
「……あ」
「心の友ヨォォォォ!!!!!!!」
「ぐはぁ!」
見事な腹へのタックルが決まった。
ああ、何でこんなことになってんだろう。俺は平和な夏休みを過ごしたいだけなのに。
腹の上で嬉しそうに暴れるチャイナ。
誰かこいつを止めてくれ。
その時、ぴたりとまるで願いが通じたかのように振動が治まる。
神様っているのかとそんな考えが過ぎったが、チャイナの小さな声で意識を呼び戻された。
「パピー…」
俺の転がった頭上に二本の足。
「パピー…?」
ピピピッ…ピピピッ…
アラーム音が鳴り響く。
自分がセットしたアラーム音だ。
沖田は瞼をゴシゴシと擦る。頭上にはピンク色の空が広がっていた。
あれから沖田は午後の授業をサボり、屋上で昼寝をしていた。
5時設定のアラームが鳴ったということは同時に今日の授業はとっくに終わったということ。
沖田は大きな欠伸を一つかますと、重い腰を上げた。
視線が高くなり、見えたグラウンドに帰宅する学生たちに混ざって見覚えのある二つの影。
沖田は眉間に皺を寄せた。
収まりかけていた苛立ちがまた膨れ上がるような、そんな感覚がした。
沖田の目線の先にいたのは、銀八、そしてその腕に自らの腕を巻きつけ嬉しそうに笑う神楽の姿だった。
断じて嫉妬ではないと自分自身に言い聞かせた。
ただ、叶いもしない色恋なのにそれでも諦めようとせず純粋過ぎる程誰かを想う神楽が、悔しかった。
「銀ちゃんがいてくれて良かったネ」
神楽は銀八の隣でぽつりと呟いた。
銀八のくわえた煙草の煙は夕空へぷかぷかと登っていく。
「銀ちゃん、煙草臭い」
「うるせぇよ、何だよ、いきなり」
「いきなりじゃないヨ、煙草吸い始めた時からずっと…」
「臭いのほうじゃなくて」
「知ってるアル!」
神楽はでもやっぱり臭い、そう言うと銀八は仕方なく、ポケットから携帯用灰皿を出して煙草を押し付けた。
それと同時に宙を舞っていた煙もふわっと姿を消した。
「そう思ったのは銀ちゃんが煙草吸い始めた時からネ、いつだっけ……んー…たぶん高二の夏カナ?」
「あー…多分当たってる」
銀八は自分の髪をガシガシとかいた。
「春からこっち留学してきて、なんかよく分かんなくて……まあ持ち前の明るさであっという間に仲良くなったけどナ!」
「自分で言うな、自分で」
神楽はにかりと白い歯を覗かせて笑って見せた。
こういう人懐っこい笑顔がみんなと仲良くなれたひとつだろうと銀八は思った。
「でもなんか、精神的に参っちゃってたネ、知らない土地でいつもビクついてたヨ、本当はずっと怖かったアル」
「……ふーん」
「そんな時銀ちゃんが奢ってくれたラーメン、あれごっさおいしかったアル!」
「そういや、お前、店で号泣したな、あん時の恥ずかしいことといったら」
「あれから吹っ切れたアル、銀ちゃんがラーメン奢ってくんなきゃ私今頃死んでたかもネ」
「じゃあ何か?俺はお前を救った命の恩人、みたいな」
「んー…まあそれもネ」
神楽は小石を靴の爪先立ちで蹴り上げた。石は低い放物線を描いて再び地にその胴体を付けた。
勿論、銀八の言った命の恩人、そういう意味も込められている。
でも一番は辛い時、寂しい時にいてくれた異性に対する甘酸っぱい想いだった。
「それは俺だけじゃねーだろ」
「?」
「お前のダチ」
「姉御たち?」
「そう、どっちかてと俺よりあいつらの方がずっとお前を支えてっからなぁ」
「それは同感アルナ!」
「……ちょっと否定して欲しかった」
神楽は悪戯っぽく笑ってみせた。
「沖田もなんだかんだお前を助けてると思うがなー」
「はあ?あいつが助ける?そんなの有り得ないネ、あの馬鹿は心配してくれるどころか、毎日馬鹿とか阿呆とか……私の精神的傷の半分はあいつのせいネ!」
「すげー言われようだな、沖田くん」
「ありのままを言っただけアル!」
神楽は銀八の数歩前を歩く。
銀八はその小さな背中を見ながら思った。神楽が神楽で居られるのは沖田のおかげでもあると。
当の本人たちはまったく気付いちゃいないがな、ぽつりとこぼした。
「何か言ったアルカ?」
「いやー…何も」
「……ふーん、あ!銀ちゃん先帰っててヨ」
「あー?どした?忘れ物?」
神楽は嫌そうな顔をして、ため息を吐いた。
「……荷物、沖田んちアル」
あーそうかと銀八は手のひらを打った。付いて行ってやろうか、そう言い掛けて口を閉じた。
あの時の沖田は明らかに怒っていた。神楽も困っていたようだし、仲介してやるのがいいかもしれないけれど、二人だけでこの問題はどうにかするべきだ。
(仮にも夫婦、だしなぁ)
「じゃあ先行ってるぞ」
「うん!また後でネ、っと銀ちゃん!ご飯作っちゃ駄目アルヨ!私が今日はご馳走するアルから」
「はいはーい」
神楽は銀八の去っていく背中を数秒間見つめたあと、沖田の家へ走り出した。
本当は行きたくない。
だけど何もかも置いてけっぱなしだ。
(なんでパピーは沖田なんか、どうせなら銀ちゃんにしてくれればいいのに、そしたら……)
神楽はにやける口元を腕で覆った。
そんな風になれたら幸せなのに。
(ずっと…、ずっと一緒アル)
叶わないと思っていた恋が、少しだけ前に進んだような気がした。
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