ルート10章辺り、捏造やネタバレにはご注意下さい。





 志を現実にする為、パリまで来て良き友と出会ったのが始まりだ。それから、ほとんど飲めない酒を片手に夢のある未来をえがき、心地よい場所を見つけ、ある情を知ってから――数えきれない程の時が過ぎた。
 始まりがあれば、終わりもあると分かっていても。変わることがあろうと、自身に影響、支障はないと思い、繰り返す日々を数えていなかった。
 そんな認識のまま、願望に向かって進み続け、行き着くところまで来てみれば。地位と名誉と共に、取り返しのつかない何かが失われていた。
 ずっと続くように思えた夢――ロベスピエールにとって、叶わない前提として捉える『夢』は、認識通りになっていた。
 それでも、背後から聞こえる、歩んできた道の崩れていく音と。次第に霞んでく、前方の闇の中で。恐れから早まる鼓動と、焦燥と、不安を感じながら。
 隣にいる、変わっていくし変わらない大切な人と。
 隣にいない、遠くへ離れていっても、やはり何処かしらにいる友と。
 最初に抱いた志を捨てず、最後まで歩んでいくしかない。








Tristesse
-別 れ の 曲-










 二十歳程度の年齢から行き来する酒場ルービスの貸し切りなんて、昔なら思いもしなかった。地位や名誉を得る未来の否定ではなく、貸し切る必要性が浮かばず、無駄と解釈しただろう。
 三人しかいない酒場には、最低限の蝋燭のみ灯し、近くに寄らなければ表情どころか全身闇に溶け込む。それでも物価が上がり続け、改装費を捻出できない、現状維持で手一杯――昔と変わりない行き慣れた間取りである。ある程度なら見えずとも歩けるし、探すこともできるようで、ダントンは椅子から立ち上がり、酒を物色し始めた。
 ロベスピエールはそれを静観しつつ、ぼんやりとテーブルに触れる。指先から、良くいえば馴染みのある暖かい柔らかさ、悪くいえば古く汚れの染みついた木製を感じて。何処か懐かしく、変な感傷を覚え、苦笑してしまう。
「なぁ、クロエちゃん元気か?」
 相も変わらず世話を焼く男らしい問いだった。クロエが経営するフォルタン・ホテルに顔を出しているが、住んでいた頃に比べれば雲泥の差であり、気掛かりと捉えられる。
「病気もなく、至って健康で元気だ……と、俺は思っている」
 ダントンと似たり寄ったりの様子見とあって、断言できなかった。しかもクロエはダントンやロベスピエールの両親と程近い年齢で、いつ何が起きてもおかしくない。加えて、医者に診せること、薬を買うにも限度あり。頼みの綱であるロゼールは所在不明の認識でいるべきなので、健康に越したことはなかった。
「珍しい言い方だなぁ…」
 読めているからこそ、ロベスピエールの曖昧な返答に追及せず。分かりきった、よくある悪い事柄だが、世話になった人となれば声にも出したくない。
「なぁ、これ飲んでいいと思う?」
 吟味した結果の瓶を持ち上げ、見せてきた。ロベスピエールから何を答えても、ダントンは好きな物を選ぶだろう。同罪、共犯を得ようとする台詞であり、無駄な行為でもある。
「店主は安酒と言っていただろ」
「お前それ守る気?」
「……全部飲むなよ、高そうなのは少しずつにしろ。あとで面倒になるのは俺だぞ」
 もともとほとんど飲めないし、隣席でカウンターに突っ伏すリーゼを前提にすれば、深酒などできない。しかも仕事で頻繁に利用するロベスピエールが小言か文句か非難され、ダントンは逃げ切る未来しかなく、責任押しつけもいいところだ。
「店主も上等なの手ぇつけるって分かってるだろ。でもまぁ、飲み干すこともしねぇよ。ちょっとずつ飲んでいくか」
 安酒と忠告していた辺り、店主も想定範囲内だろう。ただしっかり読んだ上でこの開き直りは如何なものか。
「今日しか飲めない酒だしなーまずこれかな」
 よくよく飲み、嗜むダントンは上機嫌に酒樽以外の、やや隠れた場所にある特上そうな瓶を手に取り、明朗らしい笑みを浮かべている。
「もう一度、乾杯するか」
「勝手にしてろ」
 自身のコップに注いでから瓶を元の場所に戻し、着席する際、豪快かつ細かい遠慮のできない物音は聞こえなかった。ロベスピエールなりに数年同居し、把握していた性格と異なり、違和感を覚える。
 ダントンも大人になって落ち着いたか、眠るリーゼを考慮したか。案外分かりやすいもので、基本的に誰にでも情を持つ男だが、この気遣いこそ格別さを表している。同時に、はっきり確信してしまう程の親しい人の別れを繰り返し直面し、痛感した。眉間に皺が寄ったのを自覚するロベスピエールは、頬杖した右手で顔の半分を隠す。
「………待て、俺に注がないのか」
 リーゼに視線を下ろして様子を見るのも一瞬。舌鼓を打つダントンから高そうな酒を注がれなかったことに気づく。
「いやお前、酒癖悪ぃし。リーゼちゃん送るなら飲まない方がいいだろ?」
「少しぐらいならいける」
「その少しでもダメなクセに何言ってんだ」
 正しい推論に対し、いい大人が子供の言い分で通せる訳もない。どちらかが折れない限り不毛な会話は続く。
「……まぁ、いいか」
 ロベスピエールの性格を熟知し、今日初めてにして最後であろう『素直ではないと肯定した』ことが悪くなくて。ダントンは腹を立てず、呆れながらも折れ、酒を取りに行く。
「酔ってもいいけど、オレふたり運ぶの無理だから、リーゼちゃんしか面倒見ないぞ」
「一緒に置いていけ」
「なんだそれ」
 理解できないし、酔っているような発言に可笑しくなる。数本の瓶から吟味して戻ってきたダントンが、一息ついたのち、破顔した。
 ロベスピエールには男の笑顔を見たい趣味などないし、記憶に残しもしない。それでも懐かしく思い、忘れ去った何かを掴めた気すらした。
「おい、ダントン。瓶が違うぞ」
「甘口も辛口もない、きつくないヤツなー」
「美味そうに聞こえない」
「飲んでから言えって。飲みやすいのは悪くねぇだろ」
 ダントン程ではないが、高い酒の味見を目論んでいた。意図的に記憶したラベルと食い違っていたので指摘すると、ごもっともな返答ひとつ。しかも口に含んでみれば、確かに飲みやすい舌触りだったので、反論を止める。
「酒癖といえば、ラファイエットも悪いんだろ? リーゼちゃん運ねぇよなぁ…あ、オレも一日飲み明かしたけど何もしてねぇし、無罪だよな」
「何がむざ…どうしてラファイエットが出てくる」
 酒癖の悪い男とばかり縁があるリーゼ――を話題に上がるのも僅か。ダントンは自身の仕出かしを脳裏に掠め、さりげなく明後日の方向へ投げ捨てようとした。実際、何もしていないし、愚痴や日頃の苛立ち、共感に賛同で飲み続け、明朝ひとり放置されたに過ぎない。
「なに、お前知らないの? リーゼちゃん言ってそーだけど…あー隠すというより言う機会がなかっただけか」
「知っているなら、全て話せ」
 ダントンがラファイエットと一緒に飲んで把握したなら、まだ自然な流れだ。けれど流れでリーゼの名を上げてくるなら、リーゼが身を以て体験した可能高く。聞き捨てならない項目から、ロベスピエールは不愉快そうに睨んだ。
「やだよ。そうだ、リーゼちゃんに水用意するべきだよな」
 目覚めて早々乾いた喉を潤すのが酒では先程の出来事を繰り返す。思いつき、話題逸らしでも、ごもっともな気遣いである。
「おい、ダントン!」
 勝ち誇るような笑みを見せたダントンに、ロベスピエールは胸ぐらを掴む勢いで声を張り上げ――両側から微妙な口論が続けば、間に挟まれたリーゼでも起きてしまうもの。
「ん…ケンカですか?」
 微かながら身体が揺れ、ゆっくり上半身を起こすところでようやく男ふたりも気づき、前のめりになりかけた身体を戻す。
「いや、まだだよ」
「まだ…ですか?」
「そうそう」
 わざとらしいまでに幼い、眠気眼のリーゼに、ダントンは可笑しそうな口調で、愛おしい色を滲ませる瞳を細めた。
 暗闇に溶けかけているのに、はっきりと認識できる――ように感じたのは、音色の所為か。無防備な女も、感情を隠さない旧友にも不満を感じる。
 だが案外、前からこういう雰囲気をリーゼに見せていたのかもしれない。ロベスピエールが知らないだけで、ダントンなりに大切さを表に出していた可能性もある。故に『今日に限って隠さない』は推論でしかない。
「ダントンさん、」
「ん?」
 微妙な表情を見せるロベスピエールなんて気づかぬ振りのダントンが、酒の力抜きに柔らかく相槌を打つ。
「ダントンさんの…夢を、見ました」
「オレ? ロベスピエールじゃなくて?」
「はい。ダントンさんの、夢です」
 素かわざとか、ダントンの返答はどちらにせよ癪に触る。けれど腰を折る訳にもいかず、ロベスピエールから割り込まない。
「ダントンさんを起こしに行って、挨拶とか時間がないとか…幾つか会話をしながら一緒に階段を下りて…クロエさんのところに行くんです」
 同居していた頃はよくあった出来事で、日々の一部だった。それすらも置き去りにして、各々目的に向かって前に進んでいる。遠い過去の記憶、思い出に成り果てた。
 男ふたり、夢の不意打ちに息を呑むも、寝ぼけてぼんやりと話すリーゼには気づかず。とつとつと夢を言葉にして紡いでいく。
「思い出を夢に見ていると思うんですけど…姿が、今の…えっと、髪を切って、ちょっと渋くて恰好のいい、大人のダントンさんなんです」
 昔を懐かしみ、もう叶わない思い出を夢見る。そういう微睡みだと思っていたけれど、記憶と異なる部分から、違和感もあるらしい。
 寝ぼけているからか、夢の内容を整理しているからか。いつもなら気恥ずかしそうにする言葉ですら、緩やかながら選んで発していた。
 ダントンを誉め称える表現に、茶化したり指摘したり喜んだり、幾つもの隙がある。でも何故か、緩やかなリーゼに割り込めず、ふたりして聞き手になってしまう。
「夢だから、何でもありなんですけど…」
 記憶や思い出は、曖昧かつ美化されていく。今夜出会えた喜びと鮮明な記憶から、混在の可能性もあると理解していても、リーゼは否定し、続ける。
「クロエさんの部屋で、陛下にじゃがいものスープを振る舞う夢も見るんです。ジャックさんの時しかない思い出なのに、夢では陛下なんです」
 微妙な言い回しで紛らわしく分かりにくい表現だけれど、庶民に扮したつもりの恰好がジャックで、それ以外が陛下になる。
「多分どの夢も…私の我が儘なんです。今も、そうしたいっていう願望で、叶わないから夢に見る…」
 今はダントンと同居していないし離れているけれど、昔の日常茶飯事にしたい。宮廷料理に比べれば底辺な味つけでも、自身にとって美味しいじゃがいものスープを持て成したい。そういう、リーゼの我が儘が夢になっている。
「何でもかんでも願うから、私は成長しないんでしょうけど…それでも、夢なら何の我が儘を願ってもいいじゃないですか…」
 徐々に逸れていき、自身を責める発言になったところで、リーゼは右斜め前にあるコップを手に取った。一口しか飲んでいないリーゼ用の酒であり、零さないよう少し避けて置いていたものだ。
 男ふたり「おい、馬鹿!」「あ、水用意してねぇ」の発言とほぼ同時、リーゼが勢いよく飲み始めた。これこそ止める隙なし。憂さ晴らしの如くあっという間に飲み干し、空になったコップは軽い音を立ててテーブルの上に置かれる。
「どうせ、馬鹿です」
 男前のような、淑女らしさを何処かに捨ててきたような、豪快な数秒。しかも開き直りが些か悪い、おかしな方向に転がっている。
「リー…ゼちゃん?」
「……大丈夫か?」
 ほぼ空腹かつ体調不良のリーゼから不安を煽られるふたりを余所に、瞳を数度瞬きしたのち、俯いた。リーゼの長い髪が耳元から頬を滑り、更に表情は見えにくくなる。微妙な沈黙を数秒刻んでから、彼女の口が「主よ」と微かに動く。

『あの方と祖国の庭園にいる夢を…夢に見ることを、どうか、お許し下さい』

 聞き慣れない、聞き取れない台詞が零れた後、リーゼの身体がふらりと前に傾いた。酒一口で落ちた人が一気飲みすれば繰り返すのは自然であり、何ひとつ学んでいない。両隣動転しながらも、ロベスピエールが右腕をリーゼの胸元から両肩辺りに伸ばして支え、ダントンは空のコップを掴んで逃した。
 大きな物音が鳴ってすぐ、場はいきなり静寂に加え、微妙な間が流れる。
「えーと?」
「おい、」
 両隣が慌てて動いたおかげで無傷のリーゼに、身動きなく。男ふたりしてリーゼの顔を覗けば、青さのない血色で、先程の暗い口調など嘘のように寝息をたてている。
「……びっくりするなぁ」
「馬鹿が…」
 一瞬の動揺も過ぎればなんとやら。リーゼの言動は心拍数急上昇で、心臓に悪い。どちらも安堵と唖然の重たい溜め息が漏れた。
「本当に好き勝手しやがって…」
 叩くなり揺さぶるなりして起こしても良いが、呆れからやる気になれない。ロベスピエールは椅子に浅く座り直し、若干前屈みで抱き寄せる。人前で引っ付く気などないが、リーゼを離したら前に倒れていくので、支えながら好きに寝かせることにした。
 それに人の、リーゼのぬくもりも、柔らかさも、決して悪くない。彼女の髪を梳きながら、動転した心を落ち着かせる。
「そういえば、リーゼちゃん。他の国から来たんだよなあ…」
 冷やかせば冷やかす程、惨めな気持ちになるのだろう。ダントンは数秒、微妙そうに瞳を細めたが、指摘せず。もう一度立ち上がり、リーゼ用の水を用意しながら、忘れていた出生を思い出していた。
 流暢で聞き取りにくいとなれば、祖国の言語――の推測は妥当だ。リーゼの口からほとんど聞いたことがなかったし、訛りのないフランス語を話すので、すっかり忘れていた事項でもある。
 怒っても、笑っても、寝ぼけても、フランス語だったリーゼが切り替えたのは、わざと聞かせない為か、無意識か。

「王妃の…どんな夢を見たんだろうな」

 ダントンの零した僅かな音色は響かず、暗闇に消えていく。
 リーゼの心の底に仕舞っていた言語が出る程の相手なんて、ひとりしか浮かばない。どちらにも容易く推測できたし、何よりリーゼの意識が飛ぶ寸前、掠れた声で吐露された名で確定になっていた。
 どれだけぞんざいに扱われ、四年以上周囲が諌め、諦めるよう説得に努めても。その生き方しか分からない必死と意地がいつのまにか、最後まで共にありたかったと願う一途な情にまで熟した。リーゼが真っ直ぐ思い続ける相手――マリー・アントワネットは今、タンプル塔にて幽閉生活をしている。
 ふたりからすれば、リーゼへの対応を聞いているだけで不愉快だったし、身代わりの薬で対面した時も良い記憶などなく、志や願望に対して邪魔な存在であり、いつかいなくなるべきと思い続け、和らぐことはない。
 それでも、リーゼの中にいるマリー・アントワネットは、誰よりも我が儘で、傲慢で、そして気高く、眩く捉えられる。祖国を捨てる羽目になった原因であり、唯一縋れる者という盲目もあるだろうが――夢に出てくる際、どういう面影だろうか。
「なあ、ロベスピエール」
 水を用意した後、次の酒を探すダントンが、振り向くことなくロベスピエールに話し掛ける。
「リーゼちゃんは自分の我が儘だって言ってたけど、」
 物色する後ろ姿とあって、どういう表情か分からない。

「オレとかジャックとか…王妃の叶わない願いが、リーゼちゃんの夢まで飛んでいった気もする」

 それでも、リーゼが祖国の言語を零した時以上に、泣きそうな、泣かないけれど泣きたいような音色に感じたのは、脳内の脚色か。
「ひとまずオレは、リーゼちゃんにして欲しい願いだったよ」
 もう叶わない思い出で、とても大事だから。リーゼが懐かしんで、望んでくれたら嬉しいのにと、願ってしまう。
「だから、リーゼちゃんが我が儘と言ってくれたの、嬉しかった」
 その伝えられない気持ちが、リーゼまで伝わったように思えて、不謹慎ながら胸が熱くなる。少し異なる感情で、正しく伝わっていなくても不満などない、十分だった。
「それを、リーゼちゃんに伝えてもいいか」
「お前が言えるなら、好きにしろ」
 伝えるのは本人の自由であり、その度胸があるなら止めない。ロベスピエールから躊躇いなく返せば、ダントンはゆるりと振り向く。
「お前らしいなぁ」
 ロベスピエールは大切な女であろうと、寛容なところがある。ダントンなりに反応を予想していたようで、苦しそうな、懐かしむような、何処か負けて悔しそうな――複雑な笑みを見せた。薄暗い灯りながらなんとか捉えたロベスピエールからすれば、器用な表情だと思えたが、抉る気もない。
「酒、まだいるか」
 選んだ瓶を軽く持ち上げ「この酒で良ければ」が付け足される。
「注げ」
「おいおい、ほどほどにしろよ」
「それなら聞くな」
「聞かないと怒るくせになぁ。まー飲みたくもなるか」
 身近で親しいダントン、生存側に幾つもの思い出を焼き付かせたまま死んだジャック。それだけでも十分なのに三人目、リーゼを散々な目に遭わせた王妃が出してくるなど――面白くない。決してつまらなくもないし、リーゼの大事な一部であり、全て守れたらいいと欲張りになっていても。ロベスピエールが容易く認められたら、もう少し素直になれている。
「なぁそれより、抱き寄せながら飲めるのか? オレが代わってやろうか」
「断わる」
 支えるくらいならひとまず片手でどうにかなる。後は零さないように飲めばいい。伝えることを許しても、触れることに頷けない。ロベスピエールの器量は広いような、狭いような。またもはっきりと返答すれば、ダントンにしては珍しい、淡い笑みを零してきた。




***



 貸し切りを有効活用し、東の空が白んでくるまで飲んでも良かった。しかし、ほとんど飲めない男と、飲みたくて飲んでいる訳ではない男と、体調不良に近い女の三人とあって、嗜む程度に。静かながら柔らかい雰囲気で、ゆっくりと会話を続けて。人生の長さからすれば瞬き程の短い、けれど尊い時間を刻んで――まだ暗い夜空の下、酒場の前で別れた。
 リーゼだけが先に立ち去るダントンの背を見送り、ロベスピエールはほぼ同じ間合いでフォルタン・ホテルへ向かって歩き出す。決別したふたつの道が、ほんの僅か交わっただけ僥倖。男としての矜持か、振り返る未練を残さない。
「マクシミリアンさん。その、よかったんですか?」
 政経に詳しくなければ、ふたりが決別した理由も正しく理解できていない。それでも、長いこと共に居て、雰囲気で察したリーゼは『解散して良かったのか』を含んだ、不安そうな気持ちで問い掛けた。
「なにが」
 慌てて追い掛けるリーゼの為に足を止め、辿り着くのを待ちながら、しらばっくれる。ロベスピエールから説明をする気はなかった。面倒でも疎外にしたい訳でもなく、ダントンのことを声にしたら、色々な感情が表に溢れかねないだけ。本当に親しい相手との決別は、実感すればする程、苦しさが増していく。今この場で、リーゼに縋るように、掻き抱いてしまう。
 不満の表情に変えても、あえて無視。隣に着いた辺りでロベスピエールから左手を伸ばし、リーゼの右手を握って、再度歩き出した。

 決して治安のよくないパリの夜は日中より危険も増すが、深夜とあって人の気配すら殆どない。そしてフォルタン・ホテルとルービスの距離は、リーゼが夜分に出歩くのを許せる程の短い距離だ。さっさと歩いて帰るのが最善である。ただ、速度を上げれば、ふらついて転ぶかもしれないリーゼの歩幅に合わせ、進む。
「ダントンさんに何か言われた…とか?」
 子供のような抵抗、恥じらいや淡白さもないけれど、積極的ではない。あからさまな触れ方のない男があっさり手を握るので、リーゼとしては驚嘆だった。
「だからなにがだ」
「………もう。なんでもないです」
 二度程問い掛けても怒られないが、折れてもくれないらしい。少しくらい答えてくれても――と、リーゼなりに不服だけれど、どういう心境の変化であれ、嬉しいのも事実で。自然と笑みが零れ、繋いだ手を握り返す。すると、やや驚きを隠せないロベスピエールと目が合う。
 力が強過ぎたとか、女からはしたないとか。恋愛の基本がいまいち分かりきっていない、認識と常識に誤差があると感じているリーゼは不安になり、手を解こうとする――も、逃してくれず。
「マクシミリアンさん、その」
「このままでいい」
 互いに想いを言動に示していなかった。だからロベスピエールから手を握ればリーゼが驚き、リーゼから握り返せばロベスピエールが動揺する。
 嬉しかった。離して欲しくなかった。ロベスピエールの気持ちは明解なのに、慌てたリーゼを言葉で抑え、離さないことで感情を伝える方法しかできない。素直を持ち合わせていれば、ここまで苦労していないし、もう少し色々と上手くことは進んでいる。
 今回は勘違い、誤解されなかったようで――リーゼは瞳を数度瞬きしてから、手を離そうとする行動を止め、微笑んだ。
 これまで泣いたり怒ったり、すれ違いばかりだけれど、ようやく笑ってくれて。ロベスピエールの手に、リーゼの手が繋がれている。
 大半無関心の性格が真っ直ぐ情を向けた時点で明らかなジャックもといルイ16世を筆頭に、女なら無条件で柔らかくあまいフェルゼン、典型的な堅物の軍人で真摯なラファイエット、そして明るく開放的で人情に篤いダントンを差し置いて、リーゼの隣にいる。この事実――ロベスピエールにとってリーゼ絡みのことは、運か奇蹟に近い。

 惚れた女の大切な人を助けず、むしろ殺す方向へ動かすロベスピエールは、今でも志に対して真っ当で、正しいとも思っている。だがこの時勢、擦れに擦れても大切な感情を守り続けたリーゼから、自身が人として大事なものをひとつずつ捨てていく自覚ばかり受けて、正面から見つめ返せなくなった。そして、リーゼが感情的に責めて離れた時も、呆れや落胆なく、ただただ不安を覚えさせられた。
 落ちに落ちても、志だけは捨てられず。リーゼと離れるのが良案で、距離を置いても。結局、離れていてもつらいと気づかされ――側にいることを、素直に望んだ。こうして今、ダントンを餌にして酒場まで来てくれたこと、まだ修復可能な位置に留まっていたことに、安堵する。
 この巡るような、繰り返すような、遠回りばかりのすれ違いは、決して無駄でなく。互いに正直な気持ちを選び続ける、ふたりにとって大事な過程だった。
 ようやくここまで来た――再度仕切り直しに過ぎない。反省を踏まえ、これからもっと言動にしていく努力が必要である。だがそれは、ロベスピエールの性格上、あまり向いていない、面倒と気合いのいる事項でもあった。
 時間を掛けていきたいと億劫にもなる。けれど、タンプル塔で淡い表情を見せたジャックが脳裏に焼きつき離れず、焦燥を掻き立てられ、嫌とも言っていられない。
 遺書を残し、祈り、死を待つばかりの人間だから、冷静に他者を想えるし、塔の孤独と静寂から憎むこともできる。どちらにも転がる猶予で、想い人の幸せをただただ願う精神。あの男の中でも落ち着いた、けれど抑揚と垣間見えた情は、そうありもしない。
 リーゼの想いに負けるつもりなどないが、ジャックもダントンも、情の表現が異なる。あの遺言通り、ジャックがするだろう言動を、真似できる訳もなかった。争う相手のいないロベスピエールなりに、リーゼをこれ以上傷つけないよう、大切にしていくしかない。
 この焦燥は無駄で、自分の要領に合わせるべきと分かっている。それでも、去っていた何人もの仲間を思えば、面倒や億劫を感じることすら不誠実に捉えられて。
 心境の変化か、土壇場の開き直りか。複雑な感情のロベスピエールなりにリーゼを想い、言葉を紡いでいくことに努力する。
「リーゼ」
「はい?」
「俺の夢はないのか」
「……夢?」
「ダントンとジャックの夢は見たんだろ」
 アントワネットのことは、ロベスピエールから触れないし、ダントンもそこを追及していない。リーゼが個人的に大事にしたい思いであり、多分誰にも理解されない苦しみから、理解を求めない域まで達していた。
 ふらふら揺れて、いつも悩んでばかりのリーゼがひとつ決めると、誰にも譲らない頑になることを数年前から知っている。後悔ばかりして苦しんでも、それしかないと思い込んで――最後には正当なものにする運すら持ち合わせていた。
 余談だが、誰よりもリーゼの心を奪っているのはアントワネットで、ミトワール会より強敵の気がしてならない。
「夢……はい、見ました…けど。俺の夢…? マクシミリアンさんの夢、ですか?」
 何を言い出すのかと不思議そうにされても困る。もう少し説明を付け足せば、リーゼが納得したようで、一度ばかりしっかり頷いた。
 くだらないことや思い出、ささやかな話題など、取り留めなく。寝落ちもしたが、どちらかといえばリーゼからよく話していたので、始めの方を忘れていたようだ。
「……絶対、言いません」
 夢に出てきたことはある。ただそれがどんな夢か、教えてくれないらしい。
 ロベスピエールにしては柔らかく問い質したのに、頑固な返答を食らうと腹が立つ。左隣を睨むように見下げれば、怯まない、負けない、意地になった表情とぶつかる。
「言ったら、叶わない夢になる気がするから……言いません」
 もう会えない人たちが出て来る夢が叶わない願いと分かっているからこそ、リーゼは声に出さない。夢は叶わないもの、願望は必ず結果に出すと声にした男に、伝えたくなかった。
「マクシミリアンさんのことは、私が絶対叶えます」
 決意のように、想いが負けないように。いつも迷って後悔ばかりのリーゼにしては珍しく頼もしい強さで、握る手に力を込めた。
「そうか。その夢が結果になったら、俺に言え。俺の出てくる夢が何か知らないのもむかつくからな」
「……なんでむかつくになるんですか」
 ダントンは自身が出てくる夢を聞いているところ――なんて言える訳もない。夢に出てくることは許せるのに、向こうしか知らないことが引っ掛かる。
 本当に親しい男と、飲んだり、中身のない会話をしたり、未来を馳せたり、日々を共に過ごすことはできなくなった。それでもこの手に掴んだ、離れなかった、離せなかったものがある。

 ダントンと飲み交わす前、リーゼの部屋まで行って発した「会いに来い」の言葉を、まだ、覚えているだろうか。
 散っていったミトワール会の為、リーゼを大切にしている人の為、何より自分の為。今日はフォルタン・ホテルまで送るが、リーゼ自らロゼールの屋敷まで来たら、今度こそ手放さないと決めている。
 けれど、必ず会いに来い、会いに来て欲しい――繰り返し言葉にしたら、縋っている、惨めな気がした。
「マクシミリアンさん…?」
 微妙な時だけ気づくのは卑怯だし、常日頃もっとしっかりしろと言いたい。そして、上手く隠せていない時に気づかれるとも思い、ロベスピエールは自身が情けなくなる。
「……いや、なんでもない」
 言葉として繰り返し出さないのは、リーゼを試しているようで、ただ恐いだけ。分かっていても、矜持を捨てられない。握っていた手を軽く解き、五指でリーゼの指と絡め直して。離さない決意を触れる手から伝わるよう願うことしか、今のロベスピエールにはできなかった。


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