優しい食卓
「しーずーおー!」
今日の仕事を終えて家に向かって歩いていると、聞き慣れた声が俺の名前を呼んだ。ゆっくりと後ろを振り返ると、予想通りの人間が俺の方に向かって走ってきている。
「なまえ……こんなところで会うなんて珍しいな」
「はぁ……っ、仕事帰りにぶらぶらしてたら静雄を見かけて……、久しぶりに走った……」
俺に追いついたなまえが肩で息をしながら、笑みを浮かべて理由を説明した。
なまえの家も職場も渋谷だ。ぶらぶらって……買い物でもしてたのか? いやでも買い物袋らしいもんは持ってねぇな。
「そうか」
「ね、時間ある? 一緒に夜ご飯食べない?」
「あぁ。何処で食う?」
「静雄の部屋! スーパーに寄って材料買って帰ろう
!」
「分かった」
なまえはこうして、たまに俺の家に来て一緒に飯を食うことがある。飯はなまえが作る。これがまた美味い。それになまえは俺を苛つかせることがあまり無い。だから、一緒に過ごすのは嫌ではない。
一時間後ーー俺の家……狭い部屋のテーブルには、なまえが作った飯が並んでいる。どれもこれも美味そうだ。ただ、飯を食う前に聞いておかなければならないことがある。
「……で? 今日は何があったんだよ」
「へっ? ……あー、あはは……バレちゃった?」
「当たり前だろ。なまえが俺の家に来るときは何かあったときだけじゃねぇか」
幼馴染みだからだろうか、なまえは俺を頼ることがある。それ自体は良い。こんな俺でも、誰かの……なまえの役に立てるのは嬉しい。
コップに入れた冷たい水を一口飲み、向かい合って座っているなまえが話し出すのをじっと待つ。なまえは数秒視線をさ迷わせてから、ゆっくりと口を開いた。
「……んー……ここ最近、ちょっと仕事が上手くいかなくてね。……このままじゃ駄目だって分かってるんだけど、……抜け出せない気がして……」
「……」
仕事が上手くいかない辛さはよく分かる。そしてそれを誰かに聞いてもらえる嬉しさも。俺は余計な口を挟まずに、なまえの話を聞き続ける。
「……静雄にはいつも申し訳ないんだけど……静雄とこうやってご飯を食べると元気が出るから……、今日、仕事が終わってから池袋を歩いて静雄を探したの」
「別に申し訳なく思う必要はねぇって。俺だって、なまえに仕事の愚痴やら聞いてもらってるしな。……っつーか、電話すりゃ良かったのに」
「あ……そ、そうだね……あはは……」
すっかり忘れていたのか、少し暗い表情から驚いた表情に変わったのを見て、思わず笑みが零れた。
ふとテーブルを見ると、料理が少し冷めてしまったように見える。両手を合わせて挨拶をしてから、料理に手をつけた。
「そろそろ食うか。いただきます」
「うん、いただきまーす」
「ん、やっぱりこの煮物美味いな」
「前もそれ美味しいって言ってくれたよね」
最初に口にした鶏肉と大根の煮物の感想を漏らすと、なまえはほっと胸を撫で下ろした。
前に一緒に飯を食ったのは……数ヶ月前だったか。よく覚えてんな。
「あぁ、これだけで茶碗一杯食えそうだ」
「あはは、良かった。たくさん作ったから、明日食べて」
「サンキュ」
俺は大したもん作れねぇから、正直すげー助かる。なまえと恋人になれば、毎日こうして一緒に飯を食えるんだろうか……、いやいや、何考えてるんだ俺。
意識的に押し込めていたある思考が浮かび、それを打ち消すために首を左右に振ると、なまえが不思議そうな表情で俺を見ていた。俺は慌てて取り繕う。
「き、気にすんな」
「うん……。静雄も何か悩みがあったら相談してね。私に出来ることなら、力になるから」
「……あぁ」
まるで俺の考えを見透かしたかのような発言をされ、かなりどぎまぎした。なまえにバレていないように願いながら、小さく頷く。
言えるわけねぇだろ……。俺が告白したとしても、受け入れてもらえるとは思わねぇ。それなら、幼馴染みとしてこうやって僅かな時間を穏やかに過ごしたい。
「ご馳走様!」
「ご馳走さん。美味かったぜ。後片付けは俺がやるから、なまえはもう帰れ。明日も仕事だろ?」
「んー……ごめんね、いつも後片付けさせちゃって」
「俺の方こそいつも作らせてるしな。……暗いし、駅まで送る」
本当はもっとゆっくりしていってほしいが、俺が余計なことをしちまう前に家から出すのが得策だと判断して、少し早口で言葉を紡ぐと、なまえは素直に頷いた。空の食器をそのまま置いておき、家を出る準備をする。
「お邪魔しました」
「ん」
二人で俺の家を出て、すっかり暗くなっている夜道を歩く。なまえは少し元気になったみたいだが、口数が少ない。俺もあんまり気の利いたことを言えなくて、黙って駅へと歩いていく。
「……今日はありがとう。また連絡するね」
「あぁ。……あんまり無理すんなよ。いつでも話聞いてやるから」
「……静雄は優しいね。静雄も無理しないで。じゃあ、またね」
すぐに駅に着き、別れの挨拶を済ませるとなまえは改札に入ってしまい、その背中はすぐに見えなくなった。
俺は踵を返して、自分の家に帰る。数時間前になまえと歩いた道を一人で歩きながら、物思いに耽った。
次になまえが俺の家に来るのはいつになるのか。早く俺の家に来てほしいと思う反面、なまえに平穏無事で居てほしいとも思う。
ただ、もしまた俺の家を訪れたら、しっかりと話を聞いてやろう。
◆170712
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