03
「〜♪」
「……。」
池袋集団暴走事件から数日後ーー、矢霧波江はこの日もいつもと同じように雇い主である折原臨也のマンションで臨也に指示された仕事をこなしていた。淡々と、滞りなく、仕事をこなしていたのだが、
「〜♪」
「……。」
理由は分からないが上機嫌らしい臨也の鼻歌が耳障りで苛立ちを覚えていた。数分ならば我慢も出来た。しかし、部屋を訪れた波江に対して仕事の指示をしてから臨也が鼻歌を歌い続けてもう30分は経っていた。
「〜♪」
「……はぁ……。」
仕事の指示を受けてからは臨也の顔を見ずに自分のパソコンの画面だけを見ていたが、そろそろ苛立ちが頂点に達しそうになり、自分を落ち着かせるために溜め息を漏らす。
このまま無視し続けるよりも鼻歌を止めさせる方が良いと判断して、波江は椅子から立ち上がり、ソファに座っている臨也に歩み寄ってその背中に声を掛けた。
「ちょっと。」
「……ん? もう仕事終わったの? さすが優秀だねえ。」
「まだよ、貴方のその鼻歌のせいで集中出来ないの。」
波江に声を掛けられて、何やら作業をしていた臨也はぴたりとその手を止め、顔を後ろに向けた。はっきりと不満を伝える波江だが、返ってきた反応はあまり予想していないものだった。
「……あー、無意識だった。気を付けるよ。」
「……貴方が素直なのって、何だか気持ち悪いわね。頭でも打った?」
「ちょっと、俺を一体何だと思ってるのさ。酷いなあ。」
「……ねぇ、それ、なまえのカバンじゃないの?」
予想外の反応に思わず本音を漏らした波江は、“あること”に気付いた。
それは、臨也の膝の上に女性用のカバンが置かれていることだった。ーー波江は、なまえが持っていたことを思い出した。
「そうだよ? 俺がなまえにあげたんだ。」
「……どうして、貴方がそれを触っているの?」
何となく嫌な予感がして、止せば良いと分かっていながら問い掛ける波江に、臨也は表情を変えずにさらりと答えた。
「これに超小型の発信機を付けるからだけど。」
「……は?」
「ほら、この前の集団暴走事件のとき、なまえの居場所がすぐに分からなかっただろ? 携帯の電源が切れてGPSが作動しなかったから、保険を掛けようと思ってさ。さすがにアクセサリーや腕時計は無理だけど、これならいけるかなって。」
ーーそう、集団暴走事件当日、臨也はなまえに夕食は何にしようか? とメールを送った。
しかし、なかなか返信がなかった。何となく嫌な予感を覚えた臨也がなまえに電話を掛けると、電波の届かないところに居るか電源が入っていないため繋がらないとのアナウンスが流れた。GPSで居場所を割り出そうとしても、電源が入っていないため確認することが出来なかった。
そのため、子飼いの情報源になまえを見掛けたら連絡するようにと指示を出した。本当は臨也自身も探しに行きたかったのだが、急いで処理しなければならない仕事を抱えていたため、仕方なく仕事を優先した。
その後、急ぎの仕事を終えると同時になまえが新宿行きの電車に乗ったとの情報を得たため、駅まで迎えに行ったのだ。
「……あぁ、妙に慌てていたわね。なまえのことになると余裕をなくすのはどうにかならないの?」
「どうにか出来ればそうしてるさ。」
あの日のことを思い出した波江は呆れたような表情で問い掛ける。臨也は肩を竦めて、止めていた作業を再開させた。
「……なまえにバレたらどうするの?」
「安全確認のためって言うよ。」
「……はぁ……。」
全く悪びれることのない臨也の言動に、波江の口から自然と溜め息が漏れた。なまえの身を案じながらも、結果的になまえが受け入れるであろう未来を想像して、もう一度溜め息を漏らした。
「……そうだ、せっかくだし盗聴機も仕込もうかな。」
「止めなさい。なまえのプライバシーをゼロにするつもり? いくらなまえでも嫌がるわよ。」
「ちぇー、まぁ今は手元に無いからな……。」
発信機を仕込み終えた臨也が名案とばかりに言い出したのを聞き、波江はぴしゃりと言い放ち阻止を試みる。ーー結果としては現段階での阻止は出来た。しかし、盗聴機を入手した後は分からない。
「……はぁ……。」
波江は今日何度目か分からない溜め息を漏らし、再度なまえの身を案じるのだった。
翌日に仕込んだ発信機を使ってなまえの居場所を確認する臨也の背中を見て大きな溜め息を漏らすことになるのを今の波江はまだ知らなかった。
◆170706
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