01
「それで、鍋を食べる相手は見つかったのかしら?」
抱えている仕事が一段落ついたのでコーヒーでも飲もうと椅子から立ち上がると、そんな言葉が聞こえてきた。発したのは近くで作業をしている波江だ。そちらに顔を向けると、珍しく俺に笑みを向けている。ただし、それは波江が弟へ向けるものとは違って悪意のあるものだけど。
「……引っ張るね。」
「だって面白くて……あぁ、なまえを誘ったら良いじゃない。簡単なことね。」
昨日のチャットルームでの会話と波江を鍋に誘ったことは出来れば忘れてほしかったんだけど、どうやらそうはいかないらしい。
俺は不機嫌さを隠さず短く返事をした。本音を隠すつもりは一切無いらしい波江を無視して、キッチンへ移動する。
「……まぁ、なまえは俺が誘ったら断らないだろうけど。」
「負けた気がする、なんて考えてるの?」
「別に。」
だからこそ進んで誘いたくないという俺の考えを見透かしたその発言を曖昧にかわし、マグカップにインスタントのコーヒーをいれて、ポットのお湯を注ぐ。少し糖分が欲しい気分なので、スティックシュガーを一本入れて、スプーンでコーヒーを掻き混ぜた。
「……いっそのこと、一人鍋をすれば良いんじゃない?」
「何も良くないよ。」
「新宿の情報屋が一人鍋……面白い絵面だと思うけど?」
「……。」
何も面白くない。誰かを観察するために一人で店に入ることはあっても、皆が鍋をしたからといって一人鍋をすることはない。
温かいコーヒーを一口飲み、小さな息を吐き出す。
「……反応がないとつまらないわね。」
「楽しまれても困るんだけど。」
俺に絡んでくるなんて珍しい。それほど昨日のことが面白かったのか。俺は何も面白くないのに。
少しだけ苛立ちながら、マグカップを手に持ち座っていた椅子に戻り、深く腰掛ける。すると、ポケットに入れていた俺の携帯の着信音が鳴り響いた。この音は、なまえからのメールだ。すぐにマグカップをデスクに置き、ポケットから携帯を取り出してメールを確認する。
「……なまえ、バイト終わったってさ。」
「そう。なら、この書類の整理が終わったら帰るわ。」
「分かった。」
今からすぐに片付けないといけない仕事は無いなと考えながらメールの内容を端的に伝えると、波江は俺の望み通りの返答をしてくれた。
こういう空気の読めるところは悪くないんだけどねぇ。
「……でも、貴方がなまえを鍋に誘うところを見たいから、それを見てから帰ろうかしら。」
……前言撤回。俺の気持ちは全然汲んでくれないよねぇ。
「見なくて良いよ。」
「良いじゃない。たまには人間観察が趣味な貴方のことを観察したって。」
「……。」
確かに俺は人間観察が好きだけど、自分を観察されるのは良い気分ではない。ただ、断ったところで波江が大人しく帰るとも思えず、仕方なく無言で肯定することにした。
「ただいまー。」
ドアの鍵とドアが開く音がして、次になまえの声が聞こえた。靴を脱いだなまえが部屋に上がり、俺達の前に姿を見せた。俺は椅子に座ったままなまえに声を掛ける。
「おかえり、なまえ。」
「波江さん、こんにちは。」
「お疲れ様。私は“用事”が終わればすぐに帰るから。」
波江に気付いたなまえが挨拶すると、波江は俺には言わない労いの言葉をなまえに掛けた。続いて波江が僅かに強調して言った用事というのが何を指しているのかすぐに分かった俺は、二人に気付かれないように小さく溜め息を漏らした。こうなったらさっさと終わらせてしまおうと、笑みを浮かべてゆっくりと口を開く。
「なまえ、今日さ、鍋でも食べに行かない?」
波江がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら俺を見ていることは無視して、出来るだけ自然に誘ってみる。なまえはすぐに頷くーーそう思っていたけど、
「え? ……あ、ごめんね、さっき友達とお鍋を食べに行く約束をしちゃって……。明日でも良いかな?」
「ぷっ。」
まさか断られるとは全く予想していなかった。しかも鍋って。何? 今鍋を食べるのが流行ってるの? 知らないんだけど。
俺は頬が僅かに引きつっていることを自覚しながら、そんなことを考えた。波江は口元を片手で覆って声を抑えながら笑っている。予想外のなまえの反応が面白かったみたいだ。
「……あー、そうなんだ。うん、じゃあ明日ね。」
「ごめんね。ちょっと準備してくる。」
本当は今日食べに行きたかったんだけど、それが叶わないならと明日の約束をしておく。
なまえは波江の反応を不思議そうに見てからもう一度謝り、小走りで二階の部屋に行ってしまった。
「……なまえは俺が誘ったら断らないだろうけど、って言ってなかった?」
口元を片手で覆うのを止めた波江が嫌味をたっぷり込めて問い掛けてきた。正直、今はそれに反論する気力が乏しい。
「……先約があったんだから仕方ないさ。」
「貴方が先手を打たないからでしょ? まぁ私としては面白いものが見れたから良かったわ。それじゃあね。」
波江は言いたいことを言ってからカバンを手に持って足早に玄関に向かい、俺の返事を待たずに部屋から出ていった。
「臨也、行ってきます。帰る前に連絡するね。」
「うん、気を付けるんだよ。何かあったらすぐに連絡して。」
準備を終えたなまえが小走りで階段を下りて、そのまま玄関に向かい、部屋から出ていった。
部屋に一人残された俺は、明日チャットルームで自分も鍋を食べたと報告するべきかどうか考えながら、ぽつりと呟いた。
「……明日、何の鍋を食べようかな。」
◆170602
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