18
15分後 新宿 某所ーー
杏里を公園の中に置き去りにし、自分のマンションへと帰る途中ーー
「ヘイ。」
ふと、背中から声を掛けられた。
聞き覚えのある声に振り返るとーーそこには闇夜に溶け込むように鮮やかな黒肌の、2メートルを超す巨漢が立っていた。
「サイモン…?」
臨也に名前を呼ばれ、サイモンはいつも通りの陽気な表情で微笑みかけてくる。
ーーどうしてサイモンが此処に?
珍しく、臨也の心が完全な"疑問"に包まれた。普段は他者に疑問を与えて混乱させる臨也が、今は逆の立場になっている。
それはほんの一瞬のことだったがーーサイモンには、それで充分だった。
臨也が何か声を掛けようとした瞬間ーー傷だらけの巨大な拳が、臨也の顔面へとめり込んだ。
強烈な一撃を喰らった臨也は、顔面の痛みと同時にーー自分の身体がふわりと浮き上がるのを感じていた。浮遊感は即座に終わりを告げ、数メートル離れていたマンションの塀へと背中を強く打ち付けられた。
意識が朦朧としたが、衝撃による内臓の痛みと吐き気が強制的に意識を覚醒させ、目の前にしゃがみ込む黒人の声を拾い始めた。
『ヘイ、少しばかり、嫌な話を聞いてくれるか。』
というフレンドリーな言葉から始まる、長い長い一人語りを。
『笑える程に、卑怯な奴だなお前は。ハハ…ハハハハハハハハハ。』
ロシア語で言われた皮肉と嘲笑を受けながら、臨也は眼前の大男に目を向けーーゆっくりと口を開く。
『ああ…卑怯だと思うね、我ながら。』
その言葉は紛れもないロシア語でありーー東洋人と黒人がロシア語で会話するという、些かシュールな絵をアスファルトの上に作り上げていた。
『だけどね、サイモン。俺は、この自分の卑怯さが結構好きだ。』
塀に背をもたれさせながら、臨也は尚も余裕を浮かべてサイモンに尋ねかける。
『サイモンが街のことを想ってるのは分かったよ。…だけど、どうして此処で出てくる?君には何の関係も無かったはずだろう?』
『何、簡単なことさ。』
珍しく素直に尋ねる臨也に対し、サイモンは隠すことなく真実を述べ始めた。
『正臣の彼女が、うちの相棒に言ってくれたのさ。あんたのことも、今起こってることもな。』
沙樹が自分を裏切り、病院の電話帳を見て露西亜寿司の板前に助けを求めた。そのとき、彼女は何と言ったのだろうか。それを考えると、臨也は自然と笑いがこみ上げてきた。
サイモンはそんな臨也の笑みを見下ろしながら、自らも冷たい笑いを浮かべて言葉を紡ぐ。
『結局昼にゃ間に合わなかったが、今、こうしてお前に釘を刺しにきただけだ。』
『…。』
『なあ臨也。手前、あんまよぉ…街を荒らすな。』
『サイモンさぁ…。』
腫れ始めた目で黒人の顔を見上げ、臨也は日本語で呟いた。
『お前…ロシア語と日本語で言葉の印象変わりすぎだって…。』
♂♀
15分後 新宿 某マンションーー
「遅かったわね。で、例のものは…どうしたの?その顔。」
左目を真っ青に腫らした臨也の顔を見て、波江は思わず双眸を見開いた。ハードパンチャーとの試合を終えたボクサーのように、片目の瞼が大きく腫れ、その周囲に青あざが色濃く広がっている。
「…ちょっと、いいパンチを食らってね。なんかしばらく立てなくなったとこを、ロシア語で散々説教されまくったよ。」
「なに?ロシア語で説教ってどういうこと…?大丈夫?脳出血とかしてないでしょうね?」
波江が珍しく臨也を心配するような言葉を向けるが、臨也の耳には届いていない。
「くそ…罪歌を出し抜いて、自分が特別な存在かもしれないなんていい気になった直後にこれだ。」
ただ、久しぶりに味わった直接的な"痛み"を感じながらーー尚も臨也は、楽しくて仕方がなかった。
鏡を見て瞳孔等をチェックし、とりあえず脳出血の症状等が無いことを確認するとーー臨也は嬉しそうに笑いながら、波江に向かって問い掛ける。
「なあ…一つ聞いて良いか?」
「何よ。」
「法螺田に帝人君の情報を流したのって…君だろ?」
「どうかしらね。仮にそうだとしても、どうせ見越してたんでしょう?」
表情一つ変えずに答える波江に苦笑して、臨也は天井を仰いで楽しげに語り出す。
「まったく、君みたいに、僕の予想通りに動いてくれる人も居れば…サイモンやシズちゃんみたいに、俺の予想を覆す人間も居る。だからこそ、俺は人を愛して愛して愛してやまない…ああ、そうさ。だからきっと、こんなくそったれな仕事を続けていられるんだろうねぇ。…反吐が出るぐらい楽しいよ。」
ほんの僅か。紡がれた言葉の中に、ほんの僅かな本音が混じっていた。
だが、波江は臨也の感情の吐露を真正面から聞きながらもーー
「何度も何度も言うけど…。」
やはりいつもと変わらぬ冷徹な声で、臨也という人間を否定した。
「人間の方は、多分あなたのことが大嫌いよ。」
◆161122
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