ノアの灯火 沁みるような冷気を感じて目が覚めた。首から下はともかく布団から出ている肌の部分、特に顔が寒い。鼻や頬がキンと冷えているのが分かる。瞼が開ききらないままでもぞもぞと身体を起こそうとして、腰に走った鈍痛にまたべちゃりと寝台に沈んだ。 「ったー……」 既に数え切れないくらいに経験していることではあるけれど、慣れているからといって痛みが和らぐ訳じゃない。腰と、足の付け根と、それから入り口。いつも以上に長く激しく責め立てられたそこは、身じろぎする都度鉛のように痛覚を刺激した。 「調子乗りすぎなんだっつうの、あのバカ」 ぶちぶちと文句を言いながら身を起こし、近くにあったシャツを羽織って軽く手櫛で髪を梳いていると、がちゃりと音がして寝室のドアが開き、赤毛の男が顔を覗かせた。手にしたトレイには揃いのマグが二つ乗っている。 「おはよ。具合どう?」 「……おかげさまで最悪。腰痛い。尻も痛い。脚も痛い」 「あは、ひどい声。確かに昨日はちょっと啼かせすぎちゃったかもねえ」 「ちょっとじゃないだろ! どんだけ絶倫なんだよお前は」 「若いからってことで勘弁してよ。ほら、飲める?」 「……ん」 枕元のミニチェストの上にトレイを置き、ヒロトはマグの一つを手渡してきた。中にはマシュマロと生クリームを浮かべたココアが入っている。綺麗にアラザンが散らされたそれは寝起きの舌に丁度いい甘さで、立ち上る湯気が冷えた頬を優しく撫でた。 「朝食の準備は出来てるけど、シャワーとどっち先にする?」 「シャワー。洗わないと気持ち悪いし」 「一応処理は済ませてあるよ、リュウジが潰れちゃった後で」 「気分の問題だよ。って言うか逆に処理もしないで放置してたら許さないからな」 いかにも俺って気がきくでしょうアピールをしてくるのが鬱陶しい。そのどや顔に今すぐ頭突きをかましてやりたいけど、少し動くだけで痛む身体では到底不可能そうだ。 だから代わりに両手を伸ばし、思い切り不機嫌な顔でこう言ってやった。 「連れてけ」 ヒロトは一瞬だけ目を丸くして、それからすぐに見てるこっちが恥ずかしくなりそうな満面の笑みで頷いた。抱きかかえてくる手付きがまるっきり壊れ物に対するものと同じで、今そんな風に扱うなら昨夜こそもう少し何とかならなかったのかとぎゃいぎゃい耳元で文句を言ってやったけれど全然堪えてなさそうだ。にこにこ笑ってごめんねと繰り返すばかり。ああもうこのバカ。 バスルームに着いてからも俺はヒロトを顎で使った。シャワーは適温に、髪は優しく洗え、身体も念入りに。変なことしたら来年一緒に行く予定の旅行キャンセルしてやる。そうやって脅しながら最終的に入浴後の着替えまで全部やらせた。なんとまあどこの貴族か赤ん坊かと思うけれど、ヒロト本人も楽しそうだったし別にいいだろ。実際何をするにも辛いのは本当なんだし。 そのままリビングまで運んで貰って、食卓に着いた俺の眼前にはいかにも和! って感じの朝食が並んでいた。御飯に焼鮭、卵焼きにほうれん草のおひたし。 「味噌汁は今温めなおしてるとこだよ」 急須に焙じ茶の茶葉を入れながらヒロトが言った。その言葉通り、キッチンのコンロで小さな鍋が火にかけられている。 「具は?」 「ジャガイモとワカメ。リュウジの好きな組み合わせ」 「流石、分かってる」 やがて良い感じに温まった味噌汁も並べられて、その香りに食欲をそそられながら俺たちは早速手を合わせて箸を取った。 「しかし折角のクリスマスだっていうのに、見事に和食なメニューだな」 「クリスマスっぽい食事は昨日の夕食で充分堪能したからね。あれだけ飲み食いした次の日なら和食のほうがいいかと思って」 「それもそうか」 昨日の晩ご飯は買い出し含め、ほぼ二日間かけて準備した大々的なものだった。 23日の昼から車を出して少し離れたところにある大型スーパーに行き、野菜やら肉やら必要な食材を買って、家に帰ってからは本や料理サイトを見ながら下準備。煮込みハンバーグとローストチキン、コンソメスープはこの時点から火にかけたりタレに漬け込んだりしていた。あとはその日は年末の大掃除も兼ねてひたすら部屋を片付け、雑貨屋で買ったクリスマスのオーナメントを飾った。オーナメントと言っても30cm程度の小さなツリーと、サンタ帽を被った雪だるまのスノードームぐらいだけど。 その翌日、つまりクリスマスイブにはまた車を出して予約していたケーキとシャンパンの受け取り。その後はずっとキッチンに篭もり料理を作り続けた。シーフードサラダにカルボナーラ、白蕪のファルシー、厚切ハムとアボカドのワッフルにキノコのガーリック焼き。デザートのいちごと抹茶のムースを作った頃には殆ど日は沈んでしまっていた。 それから簡単にテーブルセッティングをして、漸く乾杯。二人で手間暇かけて作った料理の数々は、込めた情熱に比例してとても美味しかった。大半は俺のお腹の中に消えたんだけど、このときは珍しくヒロトもたくさん食べていた。お互いの手腕を褒め合ったり自画自賛したりしながら、俺たちは舌鼓を打ったのだった。 その後はまあお約束というか何と言うか。軽く休憩して、一通り片付けも終わったところで所謂夜の時間が始まった訳だ。シャンパンでいい感じに酔っ払っていたこともあって、ここ最近の中ではかなり濃密だった。内容的にも回数的にも。 と言うか、ヒロトは割と早いうち――食事の支度をしていた頃からちょっかいを出してきていて、その度に俺がおあずけを言い渡してたんだけど。どうもその所為で余計に火がついてしまったらしい。リビングで一回、バスルームで二回、脱衣所でまでする羽目になって……。寝室に運ばれてからは正直、何回だったかなんて覚えていない。 後半は俺ももう理性とか羞恥心とかが吹っ飛んでて、なんかもう喘ぎすぎて声がガラガラだった。今もまだちょっと痛い。 茶碗の中の米を一粒残さず食べたところで箸を置き、ごちそうさま、と手を合わせた。ヒロトは湯呑みに淹れたお茶を啜りながら新聞の朝刊を読んでいる。 「なー、のど飴持ってる?」 「ああ、確かこの前コンビニで買った気がする。……まだ痛むの?」 「誰のせいだと思ってるんだよ」 「俺のせいだね。ごめん、今日はその分うんと甘やかしてあげるから」 「当然。とりあえず朝食の片付けヨロシク」 「かしこまりました、お姫様」 「誰がだ」 ふざけたことを抜かす赤毛頭にびしっとチョップを決めて、その後は顔を見合わせてけらけら笑った。なんだかんだ言いつつも結局は幸せなんだ、これでも。 その後は二人でソファーに座って特に何をするわけでもなくただダラダラと過ごした。正確にはソファーに腰掛けているのはヒロトで、俺はその上に横抱きになるように座っている。 ヒロトの首に腕を回し、肩口に頭を預ける。昨日の慌ただしさと激しさを精算するかのような、穏やかで静かな時間。 「そういえばさ」 「ん?」 ゆるゆると俺の髪を梳いていたヒロトがはたと手を止めた。疑問を視線に乗せて送ると、これ、と言って小さな箱を取り出した。 「本当は昨日渡すつもりだったけど、盛り上がり過ぎて忘れてた」 「……クリスマスプレゼント?」 「開けてみて」 促されるままに箱を開けると、そこには一対の光る石が並んでいた。 「……ピアスだ」 「パイロープガーネットだよ。なかなかピンと来る色が無くてね、漸く決めたものなんだ」 する、と髪の毛を掻き上げ、耳朶に振動が伝わる距離で囁かれる。そのまま柔く甘噛みされて、くすぐったさと仄かな快楽とにぞくりと背筋が震えた。 「リュウジに似合うと思って」 低く甘いその声に、けれど俺は何も応えずに眼前の項に顔をうずめた。女みたいに白くて綺麗な、けれど確かに男の骨格を持った項。ふわりと薫るヒロトの香りがどうしようもなく胸を掻き立てる。 「……嬉しくなかった?」 無言のまましがみついて顔を上げない俺に、頭上から問い掛けが降ってきた。少し困惑したような、悲しそうな……不安に揺れる声。 それにふるふると首を振ると、俺は再び首筋に顔を埋め、真白い肌に小さく吸痕を付けた。 「っ、リュウジ?」 「は、あははははっ」 戸惑う様子に抑えが効かなくなり、俺はとうとう吹き出した。だってまさか、こんなの誰が予想出来たって言うんだ。 「俺もなんだ」 「え?」 珍しく狼狽えるヒロトが堪らなく可愛く感じる。重症だ。 「俺も、ヒロトに似合うと思って買ってたんだ。クリスマスプレゼントのピアス」 * * * ヒロトのパイロープガーネットは血のように鮮やかな赤。俺のツァボライトガーネットは深い緑。それぞれお互いの色の石で、相手の耳を飾る算段でいたということだ。狙いすましたみたいに二人ともガーネットを選んでるし。 「本当はデマントイドが良かったんだけど、とてもじゃないけど手を出せる値段じゃなくてさ」 「確かそれ、ガーネットの中でもかなり希少な種類なんじゃなかったっけ」 「ああ。あの色、ヒロトに似合うと思ったんだけどなあ」 「俺としてはリュウジからの贈り物だっていうだけでダイヤ以上の価値があるよ」 「それはどうも」 相変わらずこいつは気障なことをさらりと言う。昔はそのたびに真っ赤になったものだけど、慣れてしまった今となっては別段慌てる程のことでもない。 「男にジュエリーピアスってのも少し悩みどころだったんだけどね。なんか女々しく見えそうで」 「あ、それは俺も思った。ヒロトが普段付けてるのもシルバーばっかりだしな。だからあんまり石が大きくないやつにした」 「……本当のところは?」 「予算の都合だよ。言わせんな」 お互いの贈り物を掌で弄びながらそんな軽口を言い合う。角度を変える度にきらきら煌めく、赤と緑の二対の光。 「ねえ、穴あけてあげようか」 「ん? ピアッサー持ってたっけ」 「殆ど使ってないけどね。ちょっと待ってて」 ヒロトはそう言って腰を上げると部屋へ向かった。少しして戻ってきたその手には、言葉通りあまり使われていなさそうなピアッサー。もう一方の手には脱脂綿と小さな消毒用ジェルのチューブがあった。 「リュウジは今まで穴開けたことないんだっけ?」 「あー、うん。何となく」 「本当は怖かったとかじゃなくて?」 「うっさい。別に今は怖くない……、ひゃっ」 冷たいジェルを塗った指が左の耳朶をひやりと撫でる。その感覚に思わず身体がびくりと跳ねた。 「んっ、や……」 「……やらしい声出さないでよ」 「仕方ないだろっ……、耳弱いの知ってる癖に!」 「そりゃあお前の身体については何でも知ってますけどね。こんなことで一々煽られるこっちの身にもなってよ」 「勝手に煽られてろっ」 不可抗力だ、こんなの。 「それじゃ、開けるよ」 「…………っ」 きゅ、と身を縮こまらせた俺を見咎め、ヒロトは小さく苦笑した。俺の腕を取って自分の腰に回し、空いた手でぽんぽんと背中を軽く叩かれる。 「怖かったら、掴まってていいよ」 「……別に、怖くないし」 「はいはい。じゃあ、掴まっててくれないか? その方が俺が嬉しいから」 「……しょーがないな」 穴を開けやすいように顔を傾けて、ヒロトの身体にぎゅっとしがみつく。力を抜いて、と耳元で囁かれ、その声音と吐息に一瞬くらりと眩暈を覚えた。 「じゃあ……いくよ」 その言葉を合図により一層強くしがみつくと、やがてパチン! という音と共に左耳に強い刺激が走った。その後金属が触れる感覚があって、ぐい、と固いものが奥まで押し込まれ、鈍い痛みがじわりと広がる。一連の動作が済んでから、強張ったままの俺のこめかみにふわりと唇が降りてきた。 「はい、おしまい」 小さな鏡に映し出された耳には、赤い宝石が埋め込まれている。 「本当は専用のものがいいんだろうけど……。チタン製だし、軸もそんなに細くないものを選んだから、ファーストピアスがこれでも大丈夫だと思うよ。痛みはそんなになかっただろ?」 「ああ、うん。なんか拍子抜け」 「そういうものだよ。初めてだとみんな緊張するみたいだけどね」 「へえ……」 俺が鏡の中の耳元をじろじろ眺めている間に、ヒロトはさっさと自分も俺があげたピアスを装着してしまった。ツァボライトの濃緑が白い耳朶を彩っている。 「どうかな?」 「ああ、いいんじゃないか」 ヒロトの中性的な雰囲気に、ピアスという装飾具はよく似合っている。するりと耳にかかる髪の毛を避けて、ふ、と吐息をかけたらくすぐったそうに目を細めた。お返しと言わんばかりに伸びてくる白い指が耳を撫で、頬に触れて顎を捉えた。親指の腹で下唇がゆっくりなぞられる。 「リュウジもよく似合ってる。可愛いよ」 「男に可愛いとか言うなよ」 「可愛いものは可愛いんだから仕方ない」 にこにこと上機嫌に笑いながら、ヒロトが俺の目を覗き込んでくる。どんな宝石も適わない、深い深い翠の眼。 お互いを瞳の中に映したまま、俺たちは昨日何度も告げた言葉をもう一度だけ唇で紡いだ。 「メリークリスマス、リュウジ」 「……メリークリスマス、ヒロト」 甘い言葉はそのまま重ねた口付けに溶けた。 きらりと光る余韻を、それぞれの耳に残して。 end. ―――――― 2010クリスマス記念フリー文。ご自由にお持ち帰り下さい。 戻る |