Whale's Dream


 時折、何の戯れなのかひたすら柔らかく――優しく、と表現するのには抵抗があった――扱われることがある。繊細な硝子細工に触れるかのように、掌中の珠を慈しむかのように。彼の人と接する時間のうち、痛みを伴わないものは非常に稀有だ。その落差に戸惑いながらも、一時の安らぎは素直に甘受することにしている。
 たとえ翌日には普段通りの、玩具にも劣る扱いに戻るのだとしても。

「レーゼ」
「はい、」
 誘う声に従い、その足元まで摺り寄って跪く。白いしなやかな手でするりと顎を捉えられ、指先で顔を上向かされた先、はちりとぶつかる底の見えない深い翠。
「少し肌が荒れているね。ちゃんと休養は取っている?」
「あまり……最近は」
「それはいけないなぁ。俺の所有物たるもの、常に完璧でいてくれなくちゃ。こんな触り心地だと楽しさも半減だ」
 お前の肌を傷付ける、ね。
 歌うようにそう言って、頤を支えていた指はそのまま輪郭をなぞるように辿っていった。ヒトの肌であるはずなのに、まるで金属やプラスチックのように無機質なその感触にぞくりと全身が粟立つ。
 不意に下顎のあたりを撫でていた指が口元へと伸びてきた。拇の腹が軽く叩くように幾度か下唇に触れ、その意図を察して徐に口を開く。途端に内部へと侵入してきた指先を歓迎するべく、十二分に躾けられた舌を動かした。
「ん、ふ、……ぅ」
「お前は常に俺という存在を意識していなければいけない。お前を形作るもの一つ一つが、俺に相応しく在らなければいけないんだ。分かるね?」
「は、い……」
「うん。いい子」
 唾液で濡れた指を引き抜き、紅い舌がべろりといやらしく滴る糸を舐めあげる。妖艶な笑みに引き寄せられるまま、大人しく瞳を閉じて身を委ねた。
 指先とは打って変わって熱い舌が、呼吸すら奪い尽くそうと口腔を蹂躙する。一方の手は頬に添えられ、もう一方の手は纏めていた髪を乱すようにこめかみから頭蓋を覆う頭皮へと触れた。ぱさ、と軽い音と共に肩口に髪束が触れる。
 それから何度も、何度も。感触を確かめるかのように、つめたい指は髪の生え際から毛先にかけてを往復した。
 数分か、数十分か、あるいは小一時間ほどしてから、気が済んだとばかりに唐突に唇が離される。けれど顎を捕える手はそのままで、深翠がひたと此方を覗き込んできた。些細な感情の揺れ動きすら見逃さない、とでも言うように。
「ねえ。俺が怖い?」
「は、」
「怖いかって訊いてるの」
 弧を描く口元とは裏腹に、その目は全く笑っていなかった。生殺与奪を手にした支配者の目。虫けらを前にして踏み潰すべきか否かを見定めようという眼差しだった。
 息を吸い、返答をしようとしたが、口から漏れたのはひゅう、という枯れた音だけだった。咽奥に異物が絡み付いたように声が出ない。見上げる先のふたつの翠はまだ猶予を告げていたが、これ以上は待たないという絶対的な警告をも雄弁に伝えていた。
 からからに渇いた口内を無理矢理に唾液で湿らせて再度唇を開く。ごくりと喉が鳴る音がやけに大きく辺りに響いた。
「怖い、です」
「……へえ」
 小さく、しかしはっきりとした返答に、みどりの目は三日月のように細まった。
「まあまあ及第点、かな。回答が遅いのは頂けないけど、まあ大目に見てあげよう」
「……はい」
「これでもしも怖くない、だなんてつまらない嘘を吐いてたら、お前の頭を蹴り潰していたかもしれないからさ」
 よかったね、と無邪気に笑ってふたたび髪を弄ぶその様子はひどく楽しそうだ。万一、示された通りの答えだったならば本当に頭部を蹴り潰されていたことだろう。この方はいつだって嘘はつかない。
 そして自分にとって、この方の言葉こそが真実であり理なのだ。
「恐怖という感情は、他者を支配するときに無くてはならないものだ。ヒトが闇を恐れるように、お前はいつでも俺を恐れるといい。お前の本能にまで入り込んで、お前の全てに君臨してあげる」
「あ…………、」
 首筋にぞろりと歯が立てられ、そのまま深く食い込んでいく。普段ならこのまま肉を喰い千切られそうなものだが、今日はただ強く吸われるばかりで、じわじわと性感を刺激するようなもどかしい痛みしか与えられない。赤い鬱血痕が刻まれてゆくその感覚に、知らず知らずのうちに熱を帯びた吐息が漏れていた。
「ん……ぁ、は……」
「あぁ……本当に、お前はいやらしいね」
 嬌声に気を良くしたのか、空いていた手が再び髪を弄りだした。頤を捉えていたもう一方はそのまま腰へと回され、背骨のひとつひとつをゆっくりとなぞり上げていく。
 手ずから拓かれたこの身体はすっかり快楽に従順になってしまい、こうしてただ触れられるだけでも脳髄は痺れ、思考は沼の底に沈んでいく。一欠片も残さずに染み付いたこの指が、香りが、痛みが肉体という器を縛り、絡み付いて離さない。身体中に刻まれた傷痕は所有の証だ。
 かつて自分を作り上げていた全てのものは一度この方の手によって粉々に打ち砕かれ、そこから新たに生み出されたのはこの方の為だけに存在する人形だった。ありとあらゆる欲の捌け口となる為に生まれた、薄汚い玩具。それが今の"私"の姿。
 それでもよかった。
 それでこの人が満足するというのなら。眼差しも肌もすべてが冷たくなってしまったこの人が、私を嬲り虐げることで熱を発することができるのなら。私が身を捧げる事で保たれるものがあるというのなら、たとえこのまま切り刻まれてしまったとしてもそれで構わなかったのだ。
 いつだって私はこの人の影に怯え、この人の一挙手一投足に行動を支配される。どこにいても、何をしていても、魂の奥深くまで穿たれた楔が私を貫き続けるのだ。
「髪も少し傷んでいるね。指通りも悪い。もう少し気を使うことだ。毎度この調子では、俺の唇が荒れてしまう」
「はい……、」
 ゆっくりと押し倒され、ざわざわと皮膚を這う冷たさを感じながら、身体の力を緩めて脚を開いた。浮かぶ笑みがより一層深くなり、伸ばされた手が床に散らばる髪を一房掴んで口元へと持っていく。
 やがてじんわりと悦楽の毒が脳髄へ浸透してゆくのを感じながら、今日もまた全てを眼前の暴君へと曝け出す。

「ねえ、レーゼ」
「…………はい、グラン様」

 ただ一つだけ、縋る先がこの腕に無いことを少し不便に思いながら。





end.




――――――

11/10 グラレゼの日記念フリー文。ご自由にお持ち帰り下さい。


戻る