Egoistic Journey


「どこ行くか決めた?」
「うん、とりあえず山越えして、それからは海岸目指して走ってみる。その後はまあ適当に」
「漠然としてるなー」
「それがいいんじゃないか」
「それもそうか」


 大学二年の夏休み、俺とヒロトは兼ねてから計画していたドライブ旅行に出掛けることにした。計画なんて言っても、ただいつか行こうかと口約束を交わした程度で、具体的な目的地やルートは一切考えていない。そしてそれは当日である今日になっても同じだった。カーナビがあるから帰り道は何とかなるし、あてのない遠出というのもなかなか乙なものだ。今夜の宿も決めていない。どうせ男二人なんだし、宿泊手段はいくらでもある。いざとなれば車内で夜を明かしたって構わないし。
 運転は一応交代制だけど、俺はついこの間免許を取ったばかりなので、車通りの多い道なんかはヒロトに任せることになっている。やっぱり安全第一です。

「先に高速に乗っちゃおうか。サービスエリアとかに着いたら交代にしてさ」

 ヒロトの長い指が地図の上をなぞるように動く。かさりと紙が擦れる乾いた音がした。

「高速かぁ。うえー……俺大丈夫かなあ」
「平気平気。歩行者もいないし交差点もないから、一般道を通るより楽だよ。第一、教習で行ったことがあるだろう?」
「だってあの時は教官が隣にいたし……」
「俺がいるじゃないか。これでも結構上手いよ? 運転」
「まあヒロトは器用だからなー。俺とっさの判断がイマイチできなくてさ」
「ああ、予定してたルートが工事中だったってやつ?」
「どこまで行く気だって笑われたよ……」

 初めての路上教習のとき、教官に言われた道を巡って帰ってくるだけだったのに、運悪くその道が工事で通行止めになっていたのだ。だから急遽回り道をすることになったんだけど、パニックになった俺はどこをどう通って行けばいいのか分からなくなり、結果として物凄い遠回りをする羽目になってしまった。一応運転自体は何のミスもなく終えられたけど、正直よく受かったなって思う。

「とにかく、やってみないことにはいつまで経っても上達しないし。行こう?」
「……りょーかい」

 何事も挑戦。いざとなればヒロトが代わってくれるだろうし、不安は残るけどさっさと出発することにする。
 ヒロトは俺を安心させるかのようににこりと笑い、掌でエンジンキーを弾ませた。赤と緑の林檎を模したキーホルダーがきらりと躍る。俺もそれに応えるように微笑んだ。




* * *




 コンビニで軽く食料と飲み物を買い、市街地を抜けて最寄りのインターを通過する。ETCカードの電子音が車内オーディオの音量に紛れそうになりながら小さく響いた。
 
「20km先にパーキングエリアだって」
「じゃあとりあえずはそこを目指そうか」

 インターの入り口から続いていた緩いカーブを抜け、ヒロトの右足がアクセルを踏み込んだ。速度メーターが一気に垂直に近くなる。窓の隙間から聞こえる風音が一際五月蠅くなった。

「窓、閉めなくて大丈夫か?」
「今日はそんなに暑くないし。折角だから暫く開けておこう。気持ちいいよ」
「そっか」

 確かに今日は晴れてはいるけど気温も湿度もそこまで高くはなく、絶好のドライブ日和と言っても差し支えなかった。クーラーを切って外の空気を感じるのも良いかもしれない。
 風を受けてそよぐヒロトの髪が、少し綺麗だと思ったし。
 そんな俺の視線に気付いたのか、ヒロトはくすりと笑いを漏らした。

「あんまりジロジロ見られると流石に手元が狂いそうなんだけど。何、見惚れてたの?」
「じょーだん。それより事故だけは勘弁してくれよ、こんなんで死ぬとか御免だから」
「そんなの俺も嫌だよ。まあ、そういうコトがしたいなら後でじっくり楽しもうよ。海沿いってそのテの建物多いって聞くし」
「ばーか」

 そういう選択肢もまあ想定してはいたけれど、とりあえず一蹴しておいた。


 下らない話をしているうちに目的のパーキングエリアが近づいてきた。ウィンカーを上げてハンドルを左に切る。広い駐車場スペースには日本各所のナンバーがずらりと並んでいた。普通乗用車の他にも大型バスや運送のトラックなど車種は様々だ。
 なるべく建物に近い位置に空いた場所を見つけ、俺達はそこに車を停めた。うう、やっぱりヒロトは運転が上手い。
 俺はバックで車を停めるというのがどうも苦手で、何度も何度も出たり下がったりを繰り返してハンドルを切り直す必要がある。けれどヒロトはいともあっさり、一発で綺麗に駐車してしまった。しかも車体はばっちり白線と平行になっている。完璧だ。

「どうしたのリュウジ。降りないの?」
「あ、いや、何でもない。今降りるよ」

 エンジンを切っても車を降りるどころかシートベルトさえ外さない俺に、ヒロトが訝しげな声を掛けてきた。誤魔化すようにあははと笑って、慌ててベルトを外しドアを開ける。

「車酔いでもした?」
「いや全然! ちょっと考え事してただけだし」
「そう。ならいいけど」

 車を降りると日差しがダイレクトに降り注いで流石に暑かったけれど、風があるので不快感は覚えない。菓子の包みや紙屑などのゴミを纏めて入れたビニール袋がカサカサ鳴った。

「少し早いけどここでお昼にしようか」
「この先暫く何もないみたいだしな。そうしよう」

 一般的なパーキングエリアの設備に漏れず、ここも売店や食堂がちゃんと存在する。食事を取ってからまた飲み物なんかを買い足そう。ああそうだ、トイレも行っておかないと悲惨なことになっちゃうな。




 窓際の席に陣を取り、いかにも大衆食堂といった感じのメニューから注文を済ませて少し早めの昼食をとる。時計の針は11時半を少々過ぎた所だ。
 俺はチャーシュー麺の大盛にもやしと卵のトッピング、ヒロトはきつねうどん。ありきたりな品目ではあるけど、こういった場で食べると何となく普段よりも美味しく感じる。人間の味覚は不思議である。

「そういえばさ、サービスエリアとパーキングエリアの違いって何なのかな」
「規模の違いだよ。サービスエリアの方が大きくて設備も充実してる。最近では殆ど大差なくなってきてるらしいけど」
「ふーん……」

 言いながら俺はふと窓の向こうに目をやった。黒、白、赤、紺、たくさんの色合いの車体が陽の光を反射している。ヒロトの車は薄い銀灰色。車には全く詳しくない俺だけど、どことなく他に比べて高級感が漂っているように思える。

「……ヒロトさあ」
「ん?」
「あの車、父さんに買ってもらったんだっけ」
「うん。何割かはバイトで貯めた金を使ったけど、大半は出してもらった」
「なんか、意外」
「何が?」
「ヒロトはそんな風に、父さんにお金を出してもらうのは避けてるんだと思ってたから」
「…………」

 ヒロトは手にしていた箸を置くと、コップに入った水を一口飲んだ。白い喉が小さく動く。ガラスの表面に付いた水滴がぽた、とテーブルに滴り落ちた。

「……甘えてみたくなった、ってとこかな」
「甘え?」
「そう。大抵はさ、子供って多少なりとも親に甘えて育つものじゃないか。プレゼントをねだったり、言うことを聞かなくて困らせたり……。我が儘、って言った方が良いかな」
「ああ……」

 確かに、世間一般の子供像というものはそんなものだろう。中にはきちんと言うことを聞く優等生もいるだろうが、それでも多少の甘えくらいはある筈だ。

「でも俺達は、誰もそういうことがなかったよね。只ひたすら父さんの言いつけを守って、にこにこ聞き分けよく笑ってて。誰も我が儘なんて言わなかった」
「それはそうだろ。あの頃の俺達にとって、父さんは世界の中心みたいな人だったんだから。我が儘言おうなんて考え自体、誰も浮かばなかったと思うよ」

 父さんに好かれたくて、父さんに笑って欲しくて、父さんに嫌われたくなくて。誰もがそんな思いでいっぱいだったから。父さんが困るような真似なんて、頼まれたって出来なかっただろう。

「うん……だからさ。父さんはもっと、俺達に我が儘言って欲しかったんじゃないかなって。最近思うんだ」
「へ?」

 我が儘言って欲しいなんて、わざわざ面倒を増やすようなことを望むことなんてあるのだろうか。俺の訝しげな視線を受けて、ヒロトはたとえばさ、と言葉を続けた。

「リュウジの大学が授業再開するのって九月末からだったよね」
「え、ああ」

 大抵の大学の例に漏れず、俺のところも休みは九月下旬まで続く。試験が早めに終わった俺の場合はゆうに二ヶ月もの夏休みを満喫している真っ最中だ。

「じゃあ十月の授業全部休んで、俺と海外旅行しようよ」
「……はぁ!?」
「大丈夫、プランなんて旅行会社に任せればいいし。費用も全部俺が持つからさ」
「いや、だってそんな急に言われたって困るよ! 大体ひと月も授業休んだら俺、単位足りなくて留年しちゃうだろ!」
「今どき一年や二年留年する人なんてザラだよ、平気だって。行こう?」
「だから! 俺の都合も少しは考えろよ、無茶苦茶だ!」

 いきなり何を言い出すんだか。
 ヒロトは憤慨する俺を暫く見つめたかと思うと、突然悲しそうに顔を歪めた。

「でも俺は、もっとリュウジと一緒に居たい」
「な……っ」
「同居してるとは言っても、大学入ってからはだいぶ時間が減ったじゃないか。俺は今のままじゃあ全然足りない。リュウジはどう? 足りてる?」
「え、う、あ」
「……一緒に、行きたいな。駄目?」

 どうしようどうしようどうしよう。留年なんて絶対御免だけど、ヒロトがあんまり必死な目をしているから少しだけ心が揺れてしまう。そもそも二人分の旅費を持つとかいくらかかるんだ、ってかどこへ行くつもりなんだ。ひと月も留守にして家のことはどうするんだろう。飼ってる熱帯魚の世話は? 砂木沼さんとか絶対反対するに決まってるし!


 あわあわと混乱する俺の耳に、ぷっ、と吹き出す音が聞こえた。……我慢できない、といった感じの。

「…………え?」
「ごめ、そんな真剣に悩まれるとは、あはははっ」
「え? ……え? ……えええっ!?」

 まさか今の、冗談!?

「〜っヒロト!!」
「あは、ごめん、でも最初にたとえばって言っただろ? ……ふふっ」
「言ったよ、そういえば言ってたよ! だからもういい加減笑うの止めろよばかっ」
「ごめ、ちょっとツボに入った、ははははっ」

 涙を浮かべてひーひー言ってるヒロトが憎たらしくて仕方なかったけど、確かにちゃんと前置きを聞いていなかったのは俺だ。ああ、真剣に考えていたことがあほらしい。
 漸く笑いが収まってきたらしいヒロトが、でも、と目元を拭いながら言った。

「悪い気は、しなかっただろ?」
「……ああ」

 一緒に居たい、と言われたとき、困惑と同時に喜びを覚える自分も確かにいた。さっきのヒロトの“我が儘”を、俺は嬉しいと感じたのだ。

「……父さんも、こんな風に思ってたのかな」
「多分、ね。まあこんなのは俺の勝手な思い込みで、自分を正当化させたいだけのエゴかも知れないけど」
「うん、でも……やっぱ手の掛かる子ほど可愛いって言うしな。甘えて欲しかったのかな……」

 もしも。
 もしも俺達お日さま園の子供が、父さんに甘えてみたり、言いつけを守らなかったりして、普通の子供のように過ごしていたら、あんなことにもならなかったのだろうか。
 けれど過ぎ去ってしまった時間は戻らない。父さんの罪も俺達の罪も、いくら時間が経とうとも風化することは決してない。今でもあのときのことを思うと、心臓に鉛を入れられたような気分になる。

「だからさ、今、俺は甘えてみてるんだ。既に学費や生活費なんかを工面して貰ってるんだから、それが甘えと言えばそうなんだけど。それとは別に、無茶を言ったり我が儘を言ったりして、父さんの手を焼かせてみてる」
「もう成人なのに?」
「そう。でっかい子供だろう」

 俺の揶揄にヒロトは調子良くそう返した。芝居がかった口調に思わず笑いが零れる。少しの間、お互い向かい合ったままくすくすと笑った。
 


「それでもうじき社会に出たら、俺は叶えて貰った我が儘の分、いやそれの何倍ものお返しを父さんにするんだ。金銭的な部分だけじゃなくて、もっとたくさんのものを。俺が今まで生きてきて父さんから貰った分を、何倍にもして返すんだ」
「……ああ。俺もそうしたい」

 だからそれまではたくさん甘えてみるつもり。
 そう冗談めかして笑うヒロトの瞳は、いたずらをする子供のようにきらきらしていた。

「うん、そうだな。それ良いかも」
「だろう?」

 愛しているからこその我が儘を。その手始めがまずはあの車だということだろう。
 そしてそれは、きっとヒロトにしか出来ないことなのだ。

「じゃあ俺達の分まで、うんと我が儘言わなきゃね。頑張れよヒロト」
「はは、流石にやり過ぎは良くないけどね」

 父さんに甘えてみろなんて言われても、今更俺には無理だと思ったし、晴矢や風介なんかの他の連中も同じだろう。だから、これはヒロトしか出来ないこと。決して妬みや嫉みなどではなく、ヒロトはやっぱりお日さま園の子供たちの中でも特別な存在だから。素直に父さんに甘えてあげられるのは、おそらくヒロトだけなのだ。




 すっかり長居をしてしまった。眼前の食器はとうに空になっていて、丁度お昼を過ぎたあたりなので人はどんどん増えている。このままでは邪魔になるので早々に退散することにした。隣の売店で飲み物と菓子類を買い、俺達はパーキングエリアを後にした。


「じゃあ次はリュウジが運転する番だね。はい鍵」
「うう……。せめて駐車場出てから代わってくれない?」
「無茶言わないの。大丈夫、俺がついてるってば」
「う、ぶ、ぶつけたりこすったりしたらごめん」
「そうなったらリュウジに弁償してもらうから大丈夫だよ」
「それ全然大丈夫じゃないし!」

 あはは、と笑うヒロトを尻目にキーを車に向けてボタンを押す。リモコン式のロックは便利だよなあ。
 運転席のドアを開け、シートやハンドルの位置を調整。俺とヒロトは殆ど体格差はないけど、各々運転しやすい感覚というものがある。こういう微調整が結構大事なのだ。
 全てチェックし終えてからシートベルトを締め、ギアがパーキングに入っていることを確認してからブレーキペダルを踏み、キーを回す。ぶおん、とエンジン音がして車体が振動し始めた。前後左右をチェックしてギアをドライブに入れ、いよいよ出発。

「間違ってもハンドル逆に切らないでね」
「しないよ!」

 たくさんの車が並ぶパーキングエリアを抜けて、アクセルをぐっと踏み込んだ。メーターがさっきと同じく垂直を目指して上昇していく。


「で、俺、どの辺まで運転すればいいの?」
「どこまででも。道はまだまだ長いからね」
「うー……。ちゃんとサポートしてくれよ?」
「勿論」

 道路はしばらくは直線のようだった。ぽつぽつと前の車が見える中、前方に果てし無く続いているねずみ色のアスファルト。
 ぱき、と隣でヒロトが炭酸飲料のペットボトルを開けた。
 
「あ、俺にもちょーだい」
「ん、いいよ」



 空は相変わらずの綺麗な青。車の窓も開けたまま。

 ああ。
 いい風だなあ。



 この長い長い道のりを、俺達はまだ出発したばかりだ。





end.




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