ファーレンハイト212゚F

「あっつい……」
「…………」


 まだ夏の入り口と呼べるくらいの時期なのに、室温計は25℃を余裕で振り切ってる。なんだこの異常気象。この間はめちゃくちゃ寒かったくせに。こんなんだから世の農家の皆様が困って野菜が高くて俺が困るんだ。砂木沼さんちでご飯食べるのが申し訳なくなるから。

「ヒロトー暑いー」
「うん、俺も暑い」
「うっそだあ、なんか平然としてるじゃん」
「緑川より忍耐強いだけだよ」
「ちょっと、それじゃあ俺が我慢のできない子みたいじゃないか」
「違うの?」
「晴矢と風介よりはできる」
「……ああ」

 それはそうかも、とヒロトは呟いて小さく笑った。
 汗が滲んだのか、Tシャツの裾を引っ張って頬のあたりを拭いた。行儀悪い。否が応にも白い脇腹とかが見えてしまって、俺は居た堪れない気分になって目を逸らした。
 
「……ハンカチくらい使いなよ」
「手の届く所に無かった」
「あのね」

 口ではヒロトの不精っぷりを咎めながら、俺は必死でさっきの映像を脳内から削除するべく頭をフル回転させていた。ヒロトは無神経すぎるんだ。いつもいつも俺ばっかりこんなことでドキドキしてさ、馬鹿みたいじゃないか。大体さっきの肌の白さは何なんだ、お前それでも本当にサッカー男子か。今までのチームメイト達や対戦相手を振り返っても、ヒロトほど肌の白い奴はいなかった気がする。それなりに日に焼けている俺が隣に立っていたりすると余計にそれが際立つんだ。


「……あのさ、さっきから何でそんな目で俺を睨んでるの」
「ヒロト白すぎ!」
「は?」

 いきなり言われてヒロトは目を丸くしている。うんそうだね、今のは唐突すぎたって自分でも思う。でも口をついて出ちゃったものは仕方がない。

「だからさ、毎日炎天下の中でサッカーしててさ、何でそんなに白いわけ。紫外線弾く必殺技でも持ってるの?」
「いや、技はないけど。日焼け止めなら使ってるかな、結構強めのやつを」
「え、そうなの」

 意外だ。まさか本当に何か使ってるとは。というか男で日焼け止めって、あんまり使ってる奴見たことないような……。これって偏見?
 そんなことを考えていたら、ヒロトがこっちを向いて笑った。

「今、男のくせに女々しいなって思っただろ」
「あ、いや別に、そこまでは」
「誤魔化さなくていいよ。前に晴矢にも言われたし」
「……珍しいなー、ってくらいには」
「正直でよろしい」

 そう言うとヒロトは右腕を軽く翳すように持ち上げた。

「肌がこんなだとさ、日に当たっても黒くならないんだよ。赤くなるだけ。しかもそれがかなり痛いんだよね」
「へぇ……」
「そう言ったら前にバーン……晴矢が軟弱野郎、って突っかかってきたことがあってね。折角だからどのくらい痛いのか教えてあげたんだ、身を持って」
「へ、へぇ」

 なんかヒロトの目がすごくキラキラしてるように見えるのは俺の気のせいじゃないよね。どうやって? って聞いていいのかなこれ。聞かない方がいい気がすごくするけど。

「こう、嫌がる晴矢を無理やり押さえ付けて、亀の子タワシで背中を思いっきり……」
「いやああああああ!!!」

 やだもうこのサディスト!なんでそんな嬉しそうに話すの聞いてるだけで痛いからソレ!!

「勿論それだけじゃないよ。次は塩入り石鹸を使ってもう一度念入りに擦った後で、熱々のお湯で洗い流すグラン入魂のウォッシュサービス。バーンことN雲H矢君には大変好評を頂きました」
「それ絶対嘘だよね、どう考えても絶叫ものだよね」
「とんでもない。声も出ないくらいに感動してもらえました」
「息も絶え絶えだよ!」

 なんでニコニコとそんな話できるの。信じられない。俺はちょっとむかむかしてきた。ちなみにヒロトがお風呂で晴矢の背中を流すとかそんなシチュエーションに腹が立った訳じゃない、断じて。絶対違う。
 違うのに、ヒロトはどうやら見事に誤解してくれたらしい。にやりと笑ってこんなこと言ってきた。

「心配しなくても、別に変なことなんてしてないよ。俺だって風介に恨まれるのは嫌だからね」
「な……、心配とかしてないし!見当外れなこと言うなよな」
「照れない照れない。そうだ、何なら今から一緒に風呂でも入る? 汗かいてるし丁度いいだろ」
「はぁ!?」

 どうしてそうなる。ヒロトの思考のぶっ飛び具合に追いつけずにいる俺を余所に、当の本人はさっさとタオルを出したりして風呂に行く気満々だ。

「ちょっと待ってよ、何でそうなるんだ!大体入るにしてもなんで一緒になんだよ、子供じゃあるまいし。それに俺タワシで力一杯擦られるのなんて嫌だよ!!」
「えぇ? 緑川にそんなことする訳ないじゃない」

 え、なにそのいやらしい笑顔。絶対ろくでもないこと考えてるよこいつ。
 怪訝な顔してたら、突然ぐいっと引き寄せられて、気付けば俺の目の前にヒロトの顔があった。ちょっ、近い近い!なにこれどういう状況!?
 あわあわ困惑してたら、ヒロトはそのまま俺の耳元に口を寄せてきた。と、吐息が耳に掛かる!くすぐったい!

「……リュウジのことはさ、丁寧に、優しく洗ってあげる。隅から隅まで、じっくり……ね」
「!!」
「大丈夫、痛くなんてしないよ。気持ち良くさせてあげる……」
「ぁ、う、わ」

 な、なんでそんな低い声で囁くの、嫌だよなんかぞくぞくする、背中流すっていう話じゃなかったの!? しかも今名前で呼ばれた!
 まるで別のことについて言ってるみたいで、おまけにそれを告げるヒロトの声がめちゃくちゃ色っぽくて、俺の鼓膜を震わせてから一気に脳髄から足の先までを痺れさせた。顔が赤くなってるのが自分でも分かる。今にも全身が沸騰しそうだ。
 そんなことを考えているうちにヒロトの手はするすると俺の腰に回されてて、もう完全に抱き竦められてる形だ。頬とか腕の一部とか素肌同士が触れ合って、薄いTシャツの布地越しに心拍数が伝わりそうで……

「だからさ、リュウジ……」
「…………い」
「え?」






「あっつーーーーーいっ!!!」
「わっ!?」

 俺は思いっきりヒロトを突き飛ばすと、そのまんまライトニングアクセルばりのダッシュで部屋を出て玄関へと向かった。後ろからヒロトの声が追いかけてくる。

「ちょっと緑川、どこいくのさ!?」 
「砂木沼さんち!」
「はぁ!?」
「ヒロトの傍にいたら、俺沸騰して死ぬ!」

 全部ヒロトが悪いんだ。暑いって言ってるのに、これ以上傍にいたらきっと俺は溶けてしまう。だって声を聞いてちょっと触っただけでこんなにどきどきしているのに、お風呂なんて入ったら……!
 絶対溶ける。髪の毛一本残さずにヒロトに溶かされてしまう!

 こういう時は砂木沼さんのとこに行くのが一番いい。砂木沼さんに話を聞いてもらって、頭を撫でてもらって、それから砂木沼さん特製の冷たいビシソワーズをご馳走になるんだ。野菜の価格高騰については今度菓子折りを持っていくってことで今は考えない。とにかくヒロトから離れるんだ!
 待てよ、という静止の声を無視して、俺は足を無理やり靴に突っ込むと、脱兎の如く飛び出して行った。





* * * *



「……逃げられちゃった」

 一人ぽつんと残された俺は、誰に聞かせる訳でもなく呟いた。ちょっと揶揄いすぎたかな?
 揶揄うと言っても、ほとんどが本気の言葉だったんだけど。
 俺が緑川に触れたいのは本当のことで、健全な男子としては当然の欲求なんだから変に誤魔化すこともないと思ってる。ただ緑川自身はどうも初心と言うか、俺に好意を抱いてくれていると感じるのは決して自惚れじゃないとは思うけど、過度に接するとああやって逃げ出してしまうんだ。何だっけ、緑川が好きなゲームに出てくる魔物。なんとかメタルみたいに。
 しかもその逃げ出す先が毎回砂木沼の家だというのが俺としては面白くない。今日もしばらく滞在して夕飯までご馳走になってくるんだろう。そんな風に世話を掛けているから、こちらとしても砂木沼を邪険に扱うことも出来ない。彼はエイリアでの仲間だし友情も感じてはいるけれど、それとこれとは別物だ。砂木沼自身緑川のことを気に入っているフシがあるし(そうじゃなければ毎回家に上げたりなんてするものか)油断は禁物だ。

 とは言っても今回はもう逃げられてしまったし、どうせいずれは帰ってくるのだ。その時にはやりすぎたことを謝って、ついでにお詫びとして緑川の好きな抹茶のアイスを買っておこう。勿論ダッツ。

「さて、とりあえずは一風呂浴びてこようかな」

 緑川は平然としてるなんて言ってたけど、俺だってそれなりに暑いんだ。身体中に纏わり付く汗と一緒に、この昂った感情もひとまずは流してしまおう。



「……俺はいつだって、リュウジと一緒にいるだけで沸騰しそうになってるのにな」

 いつになったら、気付いてくれるのか。




end.




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