空から落ちたクリスタル8




 力なくテーブルに伏し、肺に溜まった空気を吐き出す。
 昨日の夜はあれからリュウジの姿を求めて街中を駆け回ったけれど、あの新緑の髪を目にすることはとうとう出来なかった。明け方近くになってから両足を引き摺るようにして店に戻り、そのままソファーへと倒れ込んだ。

 殆どただ眼を閉じるだけの睡眠を取り、開店時間が近付く頃には鉛のような身体を起こして支度を始めた。食欲も何も湧かなくて、リュウジが作ってくれていた食事は結局手を付けず仕舞いだった。せめて何か口に入れようと無理矢理に数粒の柘榴を押しこんで、いつもの通りに店を開け、商品を売り、店内を整えて一日を終えた。リュウジが訪れる前と全く同じ、いつもの日常を過ごしたのだった。夜になって店を閉めてから、もしかしたらと思ってもう一度近くを捜してみたけれどやはりリュウジは見当たらなかった。
 そして今日――ハロウィンの当日も、同じような一日を過ごした。もう日はすっかり落ちて、夜の帳が降りている。


 本当は何もかもを放り出して、地の果てまででもリュウジを探しに行ってしまいたかった。けれど今そんなことをしてしまったら、今度こそリュウジとの絆が完全に断ち切れてしまうような気がしたのだ。
 昨日リュウジが出ていって以来、いつもよりも石の声が聞こえなくなった。禁忌を犯しかけたせいなのか、或いは俺自身が石に心を傾けられなくなっているからなのか。きっと今雷卵石に触れたなら、間違いなく雷を落とされてしまうだろう。……いっそ本当に試してしまおうか。

 俺は今、無性に罰が欲しかった。自分のエゴをリュウジに押し付けようとした、その浅ましさを誰かに裁いて欲しかったのだ。
 リュウジを救うだなんて言っておいて、結局は自分自身が彼と共にいたいが為に時を操ろうとしたのだ。ハロウィンの手前で時間を止めてしまえば、リュウジは消えることも還ることもなく俺の傍に居てくれるかもしれないと、そんなことを望んだから。
 俺の身勝手な欲望に、リュウジを巻き込んでしまったのだ。

「何だ……。俺、もうひとつ禁を犯そうとしてたんだ」
 
 私利私欲にその力を使うことなかれ。
 自分の滑稽さを笑う気力すら、最早なかった。


 食欲は相変わらず湧かないけれど、喉の渇きは定期的に覚える。水晶水をひとくち飲もうと重い腰を上げたそのとき、何かがちゃりん、と音を立てて床に落ちた。





「あっ…………」




 それは店の鍵だった。小さなモルダバイトを埋め込んだ銀色の鍵。父さんと姉さんの元を離れてここへ来たときに、自分で細工をして作ったもの。

『俺はこの力を、もっとたくさんの人の為に使いたい。俺の力でほんの少しでも、誰かを幸せにしたいんだ』

 そう告げて家を出てきたあの日。何も言わずに頭を撫でてくれた父さんと、大雑把な俺を心配して細々と世話を焼いてくれた姉さん。
 そして初めてこの鍵を使ったときの、胸の高鳴り。
 たくさんのものが一気に心の中を駆け抜けていって、気付けば俺の頬は熱い雫で濡れていた。


「…………っ」


 俺はまだ、リュウジに何も伝えていない。リュウジが好きだと言ってくれた石使いの力を、リュウジの為に使えていない。リュウジを幸せに出来ていない。
 けれどこのままでは、リュウジの存在がこの世から消滅してしまう!


 頬を伝う雫が鍵の上にぽたりと落ちる。それを受けて、モルダバイトがその美しい翠をきらりと光らせた。












「…………あ、」



 その光を見た瞬間。頭の中で全てのピースが嵌ったような感覚がした。





 ―生者と死者の境の月夜―

「そうだ……」

 ―迷える御霊は戯に耽り―

「そういうこと、だったんだ」

 ―其の身を銀の爪と帰す―

「こんなに近くにあったんだ」

 ―心を亡くした愚かな羊―

「まだ、間に合う」

 ―地平の光に焼き尽くされん―

「間に合わせてみせる!」



 鍵を掴んでポケットに押し込み、俺はそのまま夜の闇へと飛び出していった。
 これまでとは違う、迷いのない足取りで。





* * *





 走って走って、息が切れるのも構わずにひたすら走り続けて。俺は街外れの丘の上までやって来ていた。ここからは街全体が見渡せる。勿論俺の店の様子も。
 その丘の天辺に、あの新緑の人影を見つけたとき。俺は安堵のあまり、その場に崩折れそうになってしまった。

「よ、か……っ、間に合っ、た」
「……ヒロトっ!?」

 俺の声を耳にしたリュウジが驚いたように振り返る。ああ、ちゃんと見える。声が聴こえる。リュウジという存在を、認識出来る。

「どうして……っ、何で、ここが」
「これでも、街中、探し回ったんだよ。で、きっと、店が見えるところに、いるんだろうなって、思って」

 途切れ途切れにそう言うと、リュウジは顔をくしゃくしゃに歪めた。今にも泣き出してしまいそうに。

「なんで……? 俺、迷惑ばっかり掛けて、ヒロトの大切なもの、手放させるとこだったのに。ヒロトの日常を壊した俺に、何でそこまでしてくれるんだよ……っ」
「……そんなの、決まってるじゃないか」
「え……?」

 涙を浮かべた目をきょとんとさせて、リュウジが俺を見つめる。湧き上がる愛惜しさのままに、その仕草ごと二つの腕で抱き締めた。
 乱れた呼吸を落ち着けるように息を吸って、告げる。




「好きだから、だよ」



「……うそ」
「ほんと」
「なんで、いつから」
「さあ。多分初めて見たときから」

 そして一旦身体を離し、状況に追いついていない瞳を見つめながら頬を包む。

「俺の力を好きだと言ってくれたこと。俺が生み出すものを好きだと言ってくれたこと。くるくる変わる表情も、ちょっと食いしん坊なところも、泣き虫なところも。リュウジの全てが、大好きだよ」
「……ヒロト」

「だから、君を救いたい。たとえそれが別れに繋がってしまうのだとしても。君の魂を、守りたい」

 そう告げて、ポケットに入れていた鍵を取り出した。夜の暗闇の中で銀と翠の光が煌めく。

「鍵に埋め込んである、この石。これこそが、リュウジを救う“鍵”だったんだ。このモルダバイトがね」
「どういう、ことだ……?」

「考えてみたら、すごく簡単なことだったんだよ」


 リュウジの眦に溜まった涙を指で拭い、苦笑を浮かべる。そして真実を語り始めた。手品の種明かしのように。


「詩の後半、覚えてる?」
「え、っと……」

「「ゆめ忘るる事なかれ、芽吹いた花が芽吹くまで。ゆめ忘るる事なかれ、此の世為らざる欠片の雫。抱きて残るが真実の星」」

 たどたどしいリュウジに合わせるように、二人で詩を諳んじる。まだ訳が分からないといった風のリュウジに微笑んで、ひとつずつ伝えていく。

「俺達はずっと、此の世為らざるもののことを、リュウジの世界……死者の世界のものなんだと思ってた。けれど違った。本当はこの世でもあの世でもない……もっと遠いところからやって来たものだったんだ」
「もっと、遠いところ……?」
「あそこ」

 す、と鍵を持った手を伸ばし、指の先で空を示す。

「モルダバイトは空の向こう、宇宙の果てからやって来たもの。この世界に流れ落ちた星の欠片が、大地とひとつに融け合って出来た石なんだ」


 


 ひとつ、昔話をしよう。

 小さい頃、俺は石よりもどちらかと言うと星が好きで。いつも夜空ばかり眺めているような子供だった。夜中に寝床を抜け出しては星を見に行き、その度に姉さんに怒られて。
 そんなある時、大々的な流星群が訪れた夜があった。
 俺は居ても立ってもいられなくなり、いつものように家を出て。少しでも近くで見られるように近くの山へと登っていった。その山は遥か昔、星の欠片が落ちてきたという伝説があって、実際に山の中腹には大きな穴が空いていた。
 夜中に、しかも子供の時分で山に来たために俺はすっかり迷ってしまい、やがて偶然辿り着いたその大穴の傍で力尽きたようにへたり込んだ。頭上を流れる星はやっぱり綺麗だったけど、その時の俺にはそんなことを思う気力も無かった。
 けれど。俯く俺の足元に、その流星にも負けずに輝くものがあった。

 それこそが、今この鍵に埋め込んでいる石――モルダバイトだったのだ。
 
 指を触れた瞬間にその石は辺り一面を眩い翠の光で照らし出し、それが目印となって俺は父さんや姉さん、自警団の人達に見つけてもらうことが出来た。その後姉さんにはこっぴどく叱られ、戒めとして例の詩を聞かされる羽目になったんだ。
 そしてこの日は、俺が石使いの素質に目覚めたはじまりの日にもなった。



 ―ゆめ忘るる事なかれ―

 ほんとに、なんでこんな大事なことを忘れていたんだろう。

 ―芽吹いた花が芽吹くまで―

 俺が力に目覚めた切っ掛け。そして一人前の石使いとして独り立ちする証に、鍵に埋め込んだ石。



 此の世為らざる欠片の雫。
 俺はずっと、答えをこの手に掴んでいたんだ。



「きっと俺にだけリュウジの姿が見えたのも、この石の力だったんだと思う。ちょっと……俺の心が弱かったせいで、見えなくなったりもしたんだけど」
「じゃあ……」
「うん。……この石を使えば、リュウジは助かる。消えなくて、済むんだ」

 助かる。
 その言葉を受けて、リュウジの目にはまた涙が溜まっていった。本当に泣き虫だなあ、と思わず笑うと、ヒロトが泣かせるのが悪いと言ってむくれてしまった。……ああもう、本当に。

 視界の隅に映る空の端は、もう既に黒から紺へと変化し始めていた。ハロウィンの夜が、明けようとしているのだ。
 俺はもう一度リュウジを抱き締め、その存在を強く心に刻みつける。今度はリュウジもその手を俺の背へと回してくれた。


「ねえ、ヒロト」
「ん?」
「このまま、ギリギリまでこうしててよ。俺、絶対にヒロトのこと忘れないから。あっちの世界に還っても、生まれ変わってからも。ずっとヒロトのことを覚えていたいから。だから最後まで、こうしてて」
「……うん」


 腕に一層力を込める。俺もこのまま、ずっとこうしていたかった。






 やがて空の色はどんどん変化していき、地平線は益々夜明けの気配を強めてきた。それと同時にリュウジの身体が少しずつ、少しずつ透け始める。別れの時が、やって来たのだ。

「リュウジ……もう」
「ああ、分かってる」

 す、と身体を離し、リュウジは涙の痕を色濃く残したまま微笑んだ。

「よろしく、お願いします」
「……承りました」


 聖製の依頼を引き受けるときのお客さんとの遣り取りを真似て、リュウジはへへへ、と微笑んだ。俺もはにかむように笑って、それから掌に乗せた鍵に意識を集中する。

 緑柱石、翡翠、孔雀石、クリソプレーズ。そのどれとも違う、澄んだ翠色の光が辺りに満ちていく。激しく照らし出すのではなく、柔らかく、包み込むような。

「ねえヒロト。やっぱり俺、ヒロトに会えてよかった」
「俺も、リュウジに会えてよかった」

 空はもう夜の残滓を僅かに残すばかりで、大地との境は一際明るくなってきている。リュウジの姿も随分と薄くなり、もうその向こうの景色を透かして見えてしまう程だ。


「ありがとう、ヒロト。……好きだよ、大好き。ずっとずっと、大好きだから」
「……うん。俺も、ずっと好きだよ。リュウジ」
 


 瞳を閉じて唇を重ね合った頃、パキン、と硬質な音が耳に届いた。






























「………………あれ?」
「え…………」

 瞬きをして顔を離し、唇に指を当てる。
 いま、リュウジの唇が――温かかった?

 それだけじゃない。透けていた筈の身体がちゃんと質量を持って存在していて、肌が、手を伸ばして触れた頬がちゃんと、温もりを持っていて――――。

「な、んで……?」

 不測の事態に、喜ぶ喜ばない以前にまず頭がついていかない。何が起きているのか理解できずにただただ戸惑っていると、突然、リュウジが空を指差した。



「ヒロトっ、あれっ!!」



 日が昇る方向とは反対側の、まだ夜が残る部分。
 そこを流れる、一筋の光。

「あれは……」
「流れ星……?」
「どうしてここに……、っ!?」





 その時俺ははたと思い当たり、ばっ、と手を開いて中の鍵を確認する。鍵に埋め込まれたモルダバイトが、


「割れてる……」
「そんな……どういう」


 二人で呆気に取られたまま、ただ掌の中の石と、流星が消えた方角の空、そしてお互いの顔を何度も見つめる。
 やがてそれを、地平線から生まれた光が差し込んだ。

「あ…………」
「夜明け、だ」

 目に沁みるような朝日が俺達を照らす。勿論リュウジは消えることもなく、俺の目の前にちゃんと存在していた。
 その光に包まれながら、俺はふと先日、図書館でぱらぱらと眺めた一冊の本を思い出した。



「ああ……そっか」
「へっ?」



 あの本に書いてあったこと。あれもまた、真実だったんだ。



「流れ星だよ。伝説、知らない?」
「伝説って……願いが叶う、っていう?」
「そう」


 まだ不思議そうにしているリュウジをもう一度抱き締めて、俺はその存在を全身で感じた。

「俺達の願い事を、流れ星が叶えてくれたんだよ。ずっと一緒にいたいって願いをさ」
「そう……なの、かな?」
「きっとそうだよ。だって、」

 言いながら、再び唇に触れる。温かくて柔らかい、リュウジの温度。





「ちゃんとここに残ってる。俺の真実が」


 ――抱きて残る、真実の星。
 リュウジという存在が。







→Epilogue.