空から落ちたクリスタル7



 初めはただ、熱心に眺める様子が面白いなと思った。小さな子供みたいにきらきらと目を輝かせる、その姿に目を引かれた。
 次に印象に残ったのは、それまでとは打って変わった憂いの表情。全てを諦めたような物悲しげな顔に、胸が締め付けられる心地がした。

 俺が作る食事を美味しそうに頬張るところも、好奇心いっぱいに石を見つめるところも、すやすやと眠るその寝顔も。気付いたら俺の中は彼の表情で埋め尽くされていったんだ。

 ほんの少し一緒の時を過ごしただけ。それだけで、ずっと共に居られるような気がしていた。伝承の通りに彼を救えば、そのまま自分の傍にいてくれるものだと、いつの間にかそう思い込んでいた。
 なんて残酷な勘違い。



 結局あれから自分がどうしたのかははっきりとは覚えていない。ただ気付いたらちゃんと布団に入って、気付いたらちゃんと朝には目覚めていた。そのままふたり分の食事を作り、一緒に食べて、それから店を開けていた。リュウジに対する態度も何も変わらなかった。
 その日は家に置いてある本を一通りひっくり返して手掛かりを探したけれどこれといったものは見つからず、次の日はリュウジと二人でまた詩の書かれた紙を前にああでもない、こうでもないと話し続け、結局二人で寝こけてしまった。寒いからと暖炉に多めに薪をくべておいたのは不幸中の幸いだ。これで風邪をひいてしまったら目も当てられない。
 そして週に一度の定休日である今日、俺は足を延ばして街で唯一の図書館へとやって来ている。民俗学の本、伝承、歴史書、詩集に児童向けの本まで、ありとあらゆる文献を机に積み上げ、手当たりしだいに読み漁っていた。

 リュウジは一緒に行くと言ってくれたけれど、今日は留守番をしてくれるように頼み込んだ。菫青石のシロップを作るための蒸留器を見ていて欲しいと。あの石はとても気分屋だから、美しい碧のシロップを作るには常に温度や湿度に気をつけなければいけない。ちょっとでも調節を間違うと、たちまち枯草色に変わってしまうのだ。出来上がったシロップに少しの薄荷水を混ぜて飲むとどんなひどい咳にも効く咳止め薬になるので、これからの季節には購入者が格段に増える。だから今のうちに作り置いておきたかった。

 けれど勿論、リュウジを置いてきた一番の理由はそんなことじゃない。

 俺が耐えられそうになかったのだ。刻一刻とタイムリミットが迫っているのに、当のリュウジは自分のことは気にするな、ヒロトはヒロトのすべきことをしてくれとその一点張りだ。
 恐らくリュウジは、もし自分が助かったなら、心の底から喜ぶのだろう。そしてもし――――助からなかった場合でも、心の底から言うのだろう、「ありがとう」と。

 俺との別れを、笑顔で迎えるつもりなのだろう。

「…………っ」

 俺は馬鹿だ。今は一刻も早くリュウジを助ける方法を見つけなければいけないのに、こんなことばかり考えてちっとも作業がはかどらない。下らない感情に左右されて、リュウジの存在そのものが危機に陥っているというのに。
 たとえ助かっても、一緒に居られないのなら意味が無いだなんて――――そんな恐ろしいことを考えそうになる自分を、リュウジに見られることが耐えられない。


「駄目だ……この本も違う」

 ばたりと閉じて本を寄せると、そのまま机に伏せるように頭を抱えた。あの日からずっとこんな調子だ。

 何気なく残りの本の山を眺めたら、いかにも子供向けな装丁が目に留まった。藍地に金の刺繍糸で「ながれぼしのでんせつ」と記されている。星という単語が入った本をあるだけ選んだので、こんな本まで棚から抜き取ってしまったみたいだ。ぺらぺらとページを捲ってみると、そこにはたくさんの挿絵と共に、流れ星に願いを叶えてもらう子供の話が描かれていた。……こんなことで願いが叶うのなら、どんなに。



「……続けよう」

 ハロウィンまでに助ける手段が見つからなければ、リュウジはその魂ごと消えてしまうのだ。あの笑った顔も泣いた顔も、二度とこの世に生まれなくなってしまうのだ。そんなのは絶対に、嫌だ。
 そう自分に言い聞かせて。今はただ、この活字の群れに溺れてしまいたかった。

 いっそ、時が止められたなら。




* * *




「おかえりー! シロップ出来てるよ。ほら、ちゃんと碧色になってる」
「ただいま。うん、大丈夫そうだね。ありがとうリュウジ」
「へへ、どういたしまして!」

 フラスコを光にかざして色と透明度を確認する。スポイトで一滴だけ掌に垂らし、一舐めして味をみた。仄かな甘味と、森のように爽やかな香り。あとは氷柱で冷やした薄荷水を加えて、低温で二、三日置くだけだ。

「じゃあ、俺はこれを冷温室に置いてくるから。食事はその後でね」
「ああ! 早く来てくれよ、待ってるから!」

 うきうきと弾んだ声を背に、俺は倉庫の奥にある冷温室へ向かった。海柱石と紅柱石によって室温を自在に調節できるこの部屋は、一定温度で保存したい物がある時にはとても便利だ。高山植物などを育てるときにも重宝する。
 シロップをフラスコからビーカーへ移し、3対1の比率で割った薄荷水をそっと混ぜ入れる。液体の碧が僅かに薄くなったところで、埃が入らないように蓋をして棚に並べた。

 薬が出来上がって、これを取りに来る頃にはもう、俺の隣にリュウジの姿はないのだろう。そんなことを考えながら倉庫を通り抜けようとしたとき、ふととある棚の一角に目が留まった。


 フランネルの布で包まれたそれは、黄金色に輝く琥珀だった。








「ヒロトってば遅いぞ! 早く来てくれなきゃ折角のごはんが冷めちゃうじゃないか」
「……ごめんね。これ、リュウジが作ってくれたの?」
「いっつも食べるばっかりじゃ悪いし、まあ、たまにはね。これでも結構頑張ったんだからな」

 テーブルの上にはスクランブルエッグと軽く炙られたベーコン、そしてたくさんの野菜が入ったポトフが並んでいた。大きく切られた人参やジャガイモ、カブやキャベツなどがくたくたに煮込まれ、彩りを加えるようにパセリが振りかけられている。デザートにはこれも大き目に切られた林檎が皮付きのままで器に盛られている。

「ほら、座って座って! このままじゃ本当に冷めちゃうぞ」
「うん。……ねえ、リュウジ」
「何だよ、どうし……」

 

 リュウジの言葉が言い終わらないうちに、俺は右手に持っていたフランネルの包みを取り出し、彼の前に翳した。

「なに……これ」
「虫入り琥珀」
「こはく、」
「気の遠くなるような大昔の虫が、樹液に取り込まれて固まったもの。厳密には鉱物とは少し違うけど、長い間地中で眠っていたものだから鉱物と同じような力を秘めてる」
「そ……うなんだ。すごいな、これ。そんなに昔に出来た石なんだ」
「………………」
「それよりも早くごはん食べようよ! 俺もう待ちくたびれてペコペコなんだからさ。それともまさか、その琥珀が例の手掛かりだったりするのか?」
「………………」
「……ヒロト?」

 黙り込んだままの俺に、リュウジが訝しげに眉を顰める。

「……そうだね、手掛かりと言えばそうなのかも知れない。少なくとも現状を打破するという意味では、俺にとっては唯一の糸口だ」
「ヒロト、何言って……」
「これが正しい選択だとは思わない。けどこれ以外に方法が見つからない。だったら賭けてみるしか無い」
「ねえ、ヒロト!」

 問いに答えようとしない俺に、リュウジが焦れたように語気を強めた。その表情には僅かに不安の色が混じっている。

「……この石を使えば、リュウジを救うことが出来るかもしれない」
「…………え?」



「琥珀に秘められた力を使って、リュウジの身体に流れる時を止めるんだ。そうすればリュウジの周りの時間だけはハロウィン前のまま、朝を迎えても消えることはない。行動を止めてしまうんじゃなく、ただ今という時をずっと過ごすように。琥珀の中で眠る虫のように」



 リュウジの顔が、傍目でもはっきり分かるくらいに強張った。信じられない、と声にならない声で呟いたのを唇の動きで悟った。

「ヒロト……自分が何を言ってるのか、分かってるのか」
「………………」
「それは、禁忌だ」

 ぎゅ、とリュウジの拳が握られるのを、俺の目は他人事のように眺めていた。ふるふると震えるその様子も。




「分かってるのか……時に干渉することは、石使いの三大タブーだ! そんなことしたら――――ヒロトの力が、消えちゃうんだぞ!!」




 リュウジの叫びが室内に響く。それでも俺は身動きもせずに、その場にただ立っていた。

 石使いの三大禁忌。
 私利私欲の為に力を使うこと、他者を傷付ける為に力を使うこと、そして……時間を操り、時空に歪みを生じさせること。
 この禁を犯した者は、立ちどころにその力を失ってしまう。

「なあ、ヒロトは石使いであることに、あんなに誇りを持ってたじゃないか。すごく真面目に、楽しそうに仕事をしてたじゃないか。その力で俺を、たくさんの人を幸せにしてくれてたじゃないか。それなのに、こんなことで力を失うだなんて、そんなの!」
「…………それでも!」

 ぎり、と歯噛みして吐くように叫んだ。胸が、喉が、指先がじくじくと膿んだように疼いて痛む。

「この力を引き換えにすれば――――リュウジを助けることが出来る」





 重い沈黙がその場に降りた。
 リュウジはまるで人形のように表情をなくし、ただ食い入るように俺を見ている。俺は視線を床に落とし、手の中の琥珀を握り締めた。
 まだ力を使っていないのに、まるでこの場の時が止まってしまったかのようだった。



 そしてその沈黙は、意外な言葉で破られる。

「…………いだ」
「…………リュウジ?」

 その声は空気に溶けてしまいそうなくらい小さく、微かに震えていた。


「俺のせいだ。俺がここへ来たせいで、こんなことになったんだ。俺はただヒロトと一緒にいたくて、ヒロトの傍にいるのが楽しくて。ヒロトの為にも、自分の為にも、助かりたいって思ってた。もし助からなかったとしても、最期の時までヒロトの隣にいたかった。けど、それじゃ駄目だったんだ」
「リュウ、ジ」
「俺がヒロトに甘えたから。ヒロトの優しさにつけ込んで、ぬるま湯みたいな幸せに浸かりきってしまったから。ヒロトにこんなことを言わせてしまった。誰よりも石が好きなヒロトに、石を捨てさせるようなことをさせてしまった」
「リュウジ、ちが」

「俺が、ヒロトの日常を壊しちゃったんだ」



 ぽたぽたと、水が滴るように。リュウジの両目からは涙がとめどなく零れ落ちていた。あの夜のように泣きじゃくるのではなく、ただただ静かに、泣き声ひとつ上げずに。そのあまりに悲痛な姿に、俺は心臓が止まるような心地がした。





「もう俺は――――ヒロトとは一緒にいられない」
「リュウジっ!!?」




 
 そう言うとリュウジは突然弾かれたように駆け出し、玄関へと向かっていった。俺は一瞬虚を突かれて反応が遅れ、けれどすぐに我に返ってその後姿を追いかけて走り出した。

「待って、リュウジっ!!」

 必死に手を伸ばすけれど、あと少しのところで届かない。新緑色のポニーテールが指の向こうをすり抜ける。
 ばたん! と勢い良くドアを開け、店の外へと飛び出したリュウジを追ってランタンの光を通り過ぎたとき――――







 


 俺の視界に広がったのは、人影ひとつない夜の街角の風景だった。

「…………リュウジ?」




 いない。

 ほんの一瞬の差だった筈だ。近くに隠れられるところも何も無い、それなのに。
 まるで幻を見ていたかのように、リュウジの姿が消えてしまった。


『普通の人にはさ、今の俺は見えないんだよ。認識出来ないって言った方が正しいかな。俺が話しかけても聞こえないし、触っても気付かない』


 がくがくと膝が笑う。目の前が真っ暗になって、呼吸の仕方さえ分からない。

「なん、で……」


 


 ハロウィンが近付いてきているからか。それとも、禁忌に触れようとした己への罰が下ったのか。


 俺にはもう、リュウジという存在を認識出来なくなってしまっていた。




To Be Continued.




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