Sample.





 夜もすっかり更け、虫たちが草むらで密やかな合唱会を開く頃。
 海沿いの借家の玄関扉がガチャガチャと忙しなく鳴ったかと思うと、数拍ののちにいかにも立て付けの悪そうなレール音が波音の合間に響いた。
 一歩足を進める毎に床板がギイギイと軋む短い廊下の先には、これまた古い引き戸で仕切られた居間がある。磨り硝子の向こうでは蛍光灯――LEDなどという最先端テクノロジーはここには存在しない――の光が、真下の卓袱台にのっぺりと臥すピンク頭を映し出していた。
「……ただいま」
「あ、六本木! おかえりっ」
 戸を開けた途端、手元の文庫本から顔を上げたアルバがぱあっと目を輝かせた。その周囲にはいくつもの空の菓子袋や包み紙が散らかっている。忠犬よろしく出迎えられた六本木――シオンは、いつものTシャツの上から脇腹をぼりぼりと掻きながら、眼前に広がる惨状をぐるりと一瞥した。
「……随分な状況ですね、これは」
「んー、なんかね、このところすごく食欲強くってさ。気がついたら食べちゃってるんだよねえ。自分だとあんまり自覚なかったんだけど、色んな人に言われるんだ。食べ過ぎって」
「あんた過食症持ちでしたっけ?」
「違うよぉー。……んでも、近い状態ではあったのかもね。食べたい欲が止まんなくなったの、丁度六本木が忙しくなり始めてからだし」
 徐にシオンが足元のゴミを拾い上げる。ポリエチレン製のそれはどうやらクリーム系の焼き菓子の袋のようだった。大きくポップな字体で『生クリームたっぷり! 丸ごとエクレア』などと
でかでか書いてある。
「この、卓袱台の上の空箱は?」
「さっきデリバリー頼んだピザ。きのこたっぷりベーコンたっぷりですっごく美味しかった!」
「サイズは?」
「L!」
 きっぱりと言い切ったアルバの頬を、シオンは指の背でゆっくりとなぞった。エクレアのものと思しきクリームを掬い、ぺろりと舌先で白を舐めとる。
「ねえ、ところでさ。……帰ってきたってことは、お仕事色々片付いたってこと?」
「ああ、まあそういうことになりますね。必要な話し合いはだいたい終わりましたし、峠は超えたと思いますよ」
「やたっ」
 惜しげなくガッツポーズを決めるアルバを、シオンは呆れ半分申し訳無さ半分で見遣った。
 実弟のロスを起用した大手企業との新規契約は、先方の不備のせいで当初の予定よりも随分と押してしまった。一年契約のはずが何故か五年契約にされており、なおかつギャラは提示された額の五割程度。タイアップ企画として地方のゆるキャラとのバラエティ共演の話が出たところで、ようやく相手側がロスではなく最近人気急上昇中のピン芸人との企画書を間違えて持ってきていたことに気付いた。しかもそれを正規のデータに上書きしてしまい、バックアップも取っていなかったとかで最早目も当てられなかった。
 この話は無かったことに、と何度も手を引こうとしたが、何卒温情を、と縋り付かれて結局折れる羽目になった。大手企業と言えども蓋を開ければ有能なのは一握りだけであとは凡人かそれ以下だ。そんなところと仕事をするなど願い下げだ、と突っぱねてやりたいのが本音だったが、古くからある会社だけあってネームバリューはかなり大きい。結果、当初より何倍もこちらに有利な条件をいくつも呑ませることで企画そのものをイチから練り直し、連日連夜の残業や泊まり込みを引き換えに、なんとか本日正式に締結までこぎつけたのだった。
「じゃあさ、じゃあさ、今からプチ祝賀会しようよ! もしくは慰労会!」
「なんでもいーんでとりあえずビール持ってきてもらえますか」
「うんうん、なんならお酌もしちゃうよ!」
「結構です。アンタへったくそだし」
 うきうきと冷蔵庫へ向かうアルバを見送ると、シオンは小脇に抱えていた紙袋を畳の上に放り出し、どかりとその場に腰を下ろした。尻ポケットから赤丸パッケージのタバコを取り出し、一本口に咥えてライターで点火する。独特の苦味と辛味で肺を満たした後、ふー、と煙を吐き出すと、ようやくひと心地つけたような心地がした。掛け放しだったサングラスを外して卓上に置き、灰皿に灰を落として再度咥え直す。
「はい、どうぞ……っと、それもしかして次のライブ衣装?」
 冷えたグラスとビール瓶を抱えて戻ってきたアルバは、シオンが持ち込んだ紙袋を目敏く見つけるとそう尋ねた。汚れ防止のために丁寧にビニールで包まれたそれは、丁度衣装一着分の大きさに膨れている。
「ええ、丁度今日届いたんです。まだ仮段階ですけどね」
「ふうん。……見ていい?」
「どーぞ」
 GOサインが出た途端、アルバはおあずけを解除された犬のように袋に飛びついた。酌のハナシはどこ行った、と無言のうちに睨まれても全く気づかない。いやまあ最初から断るつもりだったし別にいーんだけど、と誰とはなしにボヤキながら、シオンは手酌でビールをグラスになみなみと注いだ。黄金色の液体がパチパチと弾け、白い泡冠が雲のようにふわふわと膨らむ。
「うはー……」
 一方、袋から取り出した衣装をまじまじと眺めたアルバは、なんと言っていいか分からずにただ感嘆の息だけを漏らした。
 手にした衣装は黒天鵞絨の丈の短いベストとオレンジ色のショートパンツ、それから黒のニーハイソックスだった。よくよく見ればパンツは全体的にふんわりと膨らんで裾部分が絞られており、その色も相俟って見るからにカボチャを連想させる。腰部分には小さく蝙蝠の羽までついていた。
「ハロウィンイメージ? にしてもこれは……ベッタベタな感じで来たねえ」
「ベタってのは即ち王道ってことですからね。変に奇を衒うより良いんじゃないですか」
「だとしても、これってトップスはこのベストだけってことでしょ? うーわ、このトシで裸ベストかぁ。なんか衣装さん、ボクが成人男性ってコト最近忘れてない?」
 ヘソ出し乳首チラ見え裸ベストに絶対領域黒ニーハイの二十代男性。文字で表すと結構な破壊力である。
「元々ユニセックスで売ってんだし、露出だって慣れてるでしょ。わざわざ言うほどのことでもない」
「うーん……。ま、不満なワケじゃないから別にいいけど。まーたネットでイタいとか色々書かれちゃうんだろうなあ……」
「あんな便所のラクガキみたいな意見、いちいち気にしてたら芸能人なんてやってけませんよ」
「そりゃそうだ」
 元々動画サイトへの投稿で活動していたアルバは、業界の中でもそのあたりの内情には詳しいほうだ。確かに、あんなものは気にしていてはキリがない。すぱっと頭を切り替えると、改めて掌中の衣装をまじまじ見つめた。
「ね、ちょっと試着してみていい?」
「汚さないんなら。つか、今更だけど手と口洗ってからにして下さい」
「あっと、いっけない」
 つい先刻までお菓子をぱくついていたため、アルバの口周りや指先は脂で汚れていた。わたわたと流し台に向かうとハンドソープで手を濯ぎ、近くにあったおしぼりを絞って口元を拭う。乾いたタオルで水気を取ると、改めて衣装を手に取った。黒天鵞絨の生地はつやつやと艶かしく、借家のぼんやりとした照明の中でも濡れ羽のように輝いている。
(ここンところ家でも仕事でもダボ系の服ばっかり着てたから、こんな露出の高いのは久々だなあ)
 白地に黒マジックででかでかとミッドタウンと書いたお揃いのTシャツを手早く脱ぐと、アルバはまず先にトップスのベストに腕を通した。
(ん、袖穴ちょい小さめ?)
 微かにつっかえるような感じがしたが、身体の向きのせいもあるかも知れない。まあこれくらいならいっか、とさして気にせず、そのままスワロフスキーのボタンで前を留めた。やはりピッチリすぎる心地がする。久々の新衣装なせいで、担当も寸法をひとまわり間違えてしまったのかも知れない。これはいささかよろしくなかった。
 パフォーマンスの少ないテレビ番組ならなんとか誤魔化せるが、ライブ衣装では着たまま飛んだり跳ねたりするのは日常茶飯事だ。こうもピッタリサイズでは服が裂ける恐れがある。ネタとしてはそれもアリかも知れないが、歌う分には気がそぞろになるだけでマイナス要因だ。
 第一、ピンでならともかくユニットとしての仕事でそんなお笑い芸人のような失態をやらかしてはロスが黙ってはいないだろう。彼は世間様で騒がれてるところの『ロス様』のイメージ保持について、人一倍気を使っているのだ。相方であろうとヨゴレ仕事のような役をやらせるのは好まないに違いない。
(そんな無理してカッコつけたって、もう黒の前では散々カッコ悪いとこ見せてんのになあ。いじらしいというかなんというか)
 涙ぐましいムダな努力にふっと笑いながら、アルバはボトムスのショートパンツに勢い良く片足を入れた。
 が。

「………………えっ?」



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