灰とダイヤモンド3





『おはようございます黒さん、今日もしぶとく生き残ってますか?』



 まだ東雲すら見えない時間帯。

 豆電球のちいさな明かりだけが灯った室内で、枕元でぶるぶる震えるのを勘を頼りにむんずと掴み、眠たい目を擦りながら開いた携帯の画面には、そんな失礼極まりないメールがでかでかと表示されていた。


『おはよ。なんで朝一で生存を疎まれなきゃいけないの』

『単なる挨拶ですよ。無駄に健康を確認したり天気について話したりするのと同義です』

『そんな物騒な挨拶文いらない』


 つっけんどんににそう返答すると、今度はぷえーぷえーと笑い声? のような謎の返信がきた。何だこれ。


『ていうかさ、今何時だと思ってんたよ』

『サル頭さん、とうとう時計も読めなくなったんですか? 四時半に決まってるでしょう』

『いや読めるから! こんな時間にメール爆撃してくんな!』

『寝穢い黒さんのために目覚ましの代わりをしてあげたオレの心遣いが分からないとか、生物としての存在意義を疑います』

『頼んでないしありがた迷惑だしそこまで貶される謂われはないわ!』


 声に出して突っ込まなかったことを褒めてほしい。

 ホントこいつは、人を苛立たせることに関しては天才的だと思う。いっそアーティストから方向転換して、そういう芸風のタレントで売り出していったほうがいいんじゃなかろうか。

 でもどういう訳か、テレビの中のこいつと言ったら無口でクールでミステリアスで、こうしてボクに見せているいじめっこの小学生のような姿とはまるで違う。その恐ろしいほど整った容姿と落ち着いた物腰、抜群の歌唱力と低くて艶のある美声というチート装備のフルセットで、十代から二十代の女性を中心に半ば宗教じみた人気を誇っているのだから、世の中絶対間違ってると切に思う。

 君たちが神のように崇めているその男は、すぐ人を殴るしサル呼ばわりするしTPOなんてまるで考えない天性のドSなんだよと、出来るものなら拡声器を持って宣伝して回りたいくらいだ。果たしてこれがこいつの素なのか、或いはこのふざけた態度こそが演技なのかは、正直まだ判別がついていないけど。


『そんなことより、いつまでもボクに構ってないでちゃんと出掛ける支度しなよ。これからお仕事なんでしょ?』


 これ以上何か言っても焼け石に水だと判断し、溜め息混じりにそう返すと、それまでは数秒と経たずに送られてきていた返信が何故だか少しだけ間が空いた。


『なんでそんなこと知ってるんですかオレのスケジュール把握してんですかストーカーですか訴えますよ』

『いや違ぇし! こんな時間に連絡寄越すなんて、お前の職業柄どう考えたって仕事があるから起きてるんだと思うだろ。芸能人てそういうとこ大変そうだよね。最近寒くなってきたし、あんまり無理して体調崩したりしないようにな』


 今度は数分経っても返信が来なくなった。ひょっとしてボクの物言いが気に障りでもしたんだろうか。

 確かに何だかんだ言いつつも、あいつはプロ意識もプライドも人並み以上に高そうだ。あんたに言われるまでもない、とか思われてそうだなあ。

 つい弟に接するときと同じような対応をしてしまったけど、次からは気をつけないといけないかも。……そもそも次なんて無かったりして。

 謝罪のメールを送るべきか、それとも何事もなかったかのように寝直そうかどうしようかと考えながら更に数分が経った後、不意にぽろりと返信が来た。

 それまでの待ち時間に反し、中身はたった一言だけ。


 『ありがとうございます』という酷く簡素な言葉だった。




* * *




「ねえ、ほんとアイツなに考えてるの……」

『あはは』

「あははじゃなくてね!?」


 思わずばん、と机を叩いてしまった。広げていた課題のプリントに皺がより、マグに入ったココアが波打って飛沫が散る。白いプリントに点々と付着した茶色の染みに顔を顰めていると、ごめんごめん、と謝る声が聞こえてきた。


『でも兄さん、よっぽど気に入られたんだねえ。アイツがそんな風にマメに連絡取ってる姿、ボク未だかつて見たことないよ』

「これのどこをどう受け取ったら気に入られたことになるの……」


 ほぼ毎日のように訪れるメール爆撃。早朝かと思えば深夜に来たり、かと思えば講義の真っ最中にヴーヴーと連続で振動したり、いい加減鬱陶しくなって電源を落としたら、次に起動したときに履歴が五十近くまであった時の恐怖ったらない。

 もしもボクが巷で流行りのSNSをやっていたら、既読無視だ何だと更に騒ぎ立てられていたことだろう。いや、そうに違いない。

『ええー、絶対気に入られてるってば。最近のロスってば、暇さえあればスマフォ眺めてニヤニヤしてるんだよ。撮影や収録の合間を縫ってさ。まるで初カノでもできたみたいに』

「は」


 つかのって。初カノって何だそれ。どう考えたって新しいオモチャを見つけてはしゃいでるみたい、の間違いだろ!

 そう語気も荒くまくし立てたところで、電波の向こうの弟にはこれっぽっちも伝わらない。相変わらずけらけらとよく通る高い声で笑い飛ばされるばかりだった。

 ああもう面倒臭い。この話題は止めにしよう。


「それよりもお前、この間は大丈夫だったの?」

『え、この間って?』

「ほら、ボクとの待ち合わせに来られなかった日。あのときロスから聞いたんだけど、お前先約してた人と結構派手な喧嘩したんだろ? 怪我とかしなかった?」

『あー……あれね。ヘーキだよ、元はといえばボクが悪かったんだし。それに喧嘩だなんて、そんな大袈裟なことじゃないよ。あいつすぐ手ぇ出すから、ちょっとしたどつき合いとかはコミュニケーションみたいなものだし、ちゃんと仲直りもしたから』

「そうなの? ならいいんだけど」


 すぐに手を出すだなんて、なんだかロスみたいな友人さんだ。そんなバイオレンスな人間が二人も身近にいるってのに、さも何でもないかのように話せるだなんて、相変わらず我が弟ながら許容範囲が広い。広すぎて逆に心配になる。

 それにどうも口振りからして、その友人さんは弟にとってはすごく大事な人のようだ。普通だったらそんなぽかすか殴ってくるような人、そうそうお近付きになりたいとは思わないだろうに。益々不安だ。

 ……まあ、ボク自身も人のことは言えないのかも知れないけれど。

 傍若無人を体現したどこぞの芸能人の顔が、ちらりと脳裏を掠めていった。


『確かに、しばらく腰とか喉はしんどかったけどさ……』

「ん、何か言った?」


 下らないことを考えていたせいで、弟が何事が呟いたのを聞き逃してしまった。すぐに聞き返してみたけれど、何でもないよ、と流される。


『それよりね、兄さん。今日はちょっと聞いてほしいことがあって。それでわざわざ電話したんだ』

「? どうしたのさ、改まって」

『えっと……実はね、さっきの話に出てた、こないだ先約してたっていう相手についてのことなんだけど』

「うん、」

『あの……』


 くるくるとペンを回していた手を止め、電話口に耳を傾けるが、それきり一向に返事がない。いつも溌剌とした弟にしてはひどく珍しいことだ。一体どうしたって言うんだろうか。

 まさか……まさかとは思うけれど、その相手に、法外な慰謝料を要求されたとか……?


「い、いくらって言われたの!?」

『は?』


 違ったみたいだ。

 そりゃそうだ。ついさっき仲直りしたと聞いたばかりなのに、どうもボクは弟のこととなると無駄に気を揉みがちでいけない。

 もう弟も立派な大人だし、社会人経験で言ったら学生のボクよりも向こうの方が上なのだ。いつまでもお兄ちゃん面をして、いらないお節介を焼いている訳にもいかないだろう。

 ……少しだけ、弟が上京するのだと告白してきたあの日のことを思い出して、ボクの胸は知らず知らずのうちにきゅうっと締め付けられていた。


「ごめん、何でもない。それで? 話したいことって何?」

『えっと……あの。実はね……』



 それからゆっくりと、躊躇いがちに告げられた弟の言葉。

 唯一無二の兄弟である彼からのその言葉は、ボクの思考をぶち壊すには充分すぎるほどの威力を持った、あまりにも衝撃的な告白だった。





* * *





 それまで通話サービスやチャットでしか接点の無かった相手との初顔合わせともなれば、誰だって緊張するものだ。ましてそれが学校の友達でもバイト仲間でもなく、ビジネスパートナーとして今後も末永くお付き合いしていかなければならない人物ならば余計に。

 自分の作品に自信がない訳ではないけれど、所詮ボクは現時点では少しばかりネットで名が知れてるだけの単なるアマチュア。向こうは紛うことなきプロフェッショナルだ。見込み違いだったと失望されないためにも、今日は毅然としていなければ。只でさえこれまでのボクは、しっかり者の兄におんぶにだっこで生きてきたのだから。

 よし、と両頬をぺちんと叩いて気合いを入れ直し、ここで待つようにと指定されたお店に入る。てっきりファミレスか何かかと思っていたけれど、着いた先にあったのは小洒落たカフェだった。それも銀座とか赤坂とか、そういうとこにありそうな雰囲気のいい店。

 ちょっとばかし気が引けたけれど、こんなところでビビってるようじゃ芸能界入りなんて夢のまた夢だ。臆する気持ちにぎゅっと蓋をして、出迎えてくれた店員さんに待ち合わせの旨を説明すると、こちらへどうぞ、とにこやかに席へ案内してくれた。


「少し、早く来すぎちゃった……かな、」


 店の中でも一番奥、ゆったりとした個室に案内されたボクは、所在なくちびちびと水を飲んでいた。何となく、先に注文してしまうのも気が引ける。と言うか手持ちのお金で間に合うかが分からない。

 きょろきょろと辺りを見渡してみる。今時珍しい年代物の白熱灯で照らされた室内は、暖炉のように柔らかいオレンジの光に包まれていて、どこか心をほっと落ち着けてくれた。

 床は黒檀の板張り、壁はほんの少しカスタードを混ぜたようなまろやかなクリーム色。なんだかお菓子のような色の取り合わせに、思わず腹の虫がくう、と鳴る。咄嗟に両手でお腹を押さえ、まわりの様子を窺ったけれど、特別注目されている様子はない。……よかった、聞かれてはいなかったみたいだ。

 何にせよ、これ以上はよそ見をするのも止めておこう。仕方なしに手元に視線を戻し、ぴんとクロスが張られたテーブルの上でいじいじと指先を絡ませた。


「どんな人、なんだろなぁ」


 これから会うのは、あの日、ボクにプロデビューしないかと持ちかけてきた相手――息を呑むような見事なPVでボクの動画サイトでの人気を高みに持ち上げてくれ、その時からずっとボクのファンだと声援を送ってくれていた人。六本木、という謎のハンドルネームを使って、ずっとボクの歌声を支えてくれていた人。

 本名をシオンというその人は、この間聴いた声の感じではけっこう若そうな印象だった。二十代後半から三十代前半、いやそれよりももう少しくらい下だろうか。間違ってもアラフォーではなさそうだ。プロデューサー業というものが果たして何歳くらいから出来るものなのか、ボクにはとんと想像もつかないから憶測でしかないけれど。或いは声が若々しいというだけで、実際はそこそこの年齢だったりするのかも知れない。


「……やめよ。考えたって意味ないや」


 ボクは年齢と仕事をするんじゃない。ボクの曲を好きだと言ってくれた、磨けばもっと光ると言ってくれたシオンを信じて、彼の下でより高いところを目指すのだ。彼がいくつだろうと、ボクの音楽には関わりはない。

 それより、折角の空き時間なんだから新曲の構想でも練っていよう。常備している五線譜ノートとシャーペンを鞄から取り出し、早速浮かんだ音をいくつか書き留めていった。

 ボクの頭の中にはいつだってたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたい。一文字でも多く、いつか曲が書けなくなってしまうその時まで。

 プロデビューがうまくいけば、曲を発表する場は一気に広がる。またとないチャンスを逃がしてなるものか。

 よく兄に言われたことだったけれど、ボクはどうも音楽が絡むと人が変わったようになるらしい。強気で大胆で、普段の泣き虫な姿がまるで嘘みたいだと苦笑されるのもしばしばだった。それから、作曲中はあまりの集中力に周りが見えなくなっている、とも。

 だから気が付かなかった。背後から近づいていたその気配に。


「――そこはFよりAの音のがよくないですか?」

「うぉわっ!?」


 突然にゅうっと横から伸びてきた見知らぬ手と、頭上から降り注いだ声。驚いて思わず素っ頓狂な声を上げると、次いで噴き出すような音が聞こえた。

 はっとして振り返った先に居たのは、口元を抑え、肩を震わせて笑いを堪えている男の人。兄よりも少し固そうな黒髪に、目元を覆うサングラス。ちらりと見えた眉の形や鼻筋はすらりと整っていて、それだけで中々の美形であることが分かる。

 ただ、どういう理由でそれをチョイスしたのか、あまりにぶっ飛んだセンスの服装が折角のイケメンオーラを見事に打ち消していた。どころか不審者オーラを付与している。


「どうもお待たせしました、レッドフォックス改め『アルバ』さん。シオンです」


 前々から気になっていた、「なんでそのハンドルネームにしたの?」という疑問。

 それは今日この場で、白地のTシャツにでかでかとマジックで殴り書きされた『六本木ヒルズ』の文言を目にしたことで綺麗さっぱり解決した。





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