Sample.1




 護り人の目を盗んで移動呪文を唱え、降り立った地をゆっくりと踏みしめる。
 山深い緑に囲まれた地にその村はあった。正確には、かつて村であった場所にひっそりと建てられた小さな家だ。崩れた瓦礫や黒く焦げた家の柱、石畳に刻まれた爪痕など、惨劇の名残は月日と共に清められ、今ここにあるのは穏やかな風や小川のせせらぎ、新芽も眩い木々ばかりだった。
 自分が暮らす隠れ里に勝るとも劣らぬ清浄な空気をゆっくりと深くまで吸い込んで、森の娘は改めて一歩を踏み出した。
 この優しい土地で静かに暮らすあの人に、自分はこれから、ひどく勝手な願いを請わなければならない。
 断られるのは覚悟の上だ。今度こそ本当に憎まれてしまうかも知れない。それでも、娘には彼の人しか頼る縁を持たず、また彼の人以外にそれが成し遂げられるとも思えなかった。
 節の少ないまっすぐな木を組んで築いた簡素な家。明かり取り用の小さな窓が嵌められた戸を、意を決した娘はそっと叩いた。

「お久しぶりです、ユーリルさん。――私です、ロザリーです」

 暫く間が空いてから、ゆっくりと開かれた扉の向こうで、翠の髪の若者が怪訝な様子でこちらを見ていた。



「とりあえず、そっちに座って。今、お湯沸かしてくるから」
 そう言って台所へ向かった背中を見送り、ロザリーは促された通りに居間にある小さな丸椅子に腰掛けた。
 幅三尺はありそうな樹を切り出して作られた大きなテーブルは、表面に艶出しのための蝋が幾重にも塗られ、木目が波のように美しくうねっている。真白い陶器の花瓶には野花が素朴に活けられて、室内をささやかに彩っていた。
 この家にある何もかもは、住人がその手で作り出したものだった。その温かみはかつて、名を持たず慎ましやかに生きていた森での暮らしを思い起こさせ、我知らずロザリーは口元を柔らかく綻ばせていた。
「それで、何かあったんですか」
 その問いかける声にはっとして、緩みかけた気を引き締めた。向かい側に座ったユーリルは、その紫電の瞳で真っ直ぐに此方を見ている。
 他ならぬ自分が事前に知らせもせず、急な来訪をしたことの意味が分からぬ彼ではない。ロザリーは再度覚悟を決め、胸に手を当てて呼吸を落ち着けながら、一言一言を確かめるように紡いでいった。
「お願いがあって、参りました。――どうか、ユーリルさんに、ピサロ様を助けて頂きたいのです」
 思った通り、ユーリルはロザリーの言葉に動きを止めて沈黙した。少しばかり想像と違っていたのは、その表情が不快気なそれでなく、呆気に取られたような面持ちだったという点だ。
 それからやや間を置いたのち、ユーリルは徐に口を開いた。
「助ける、というのは?」
「言葉の通りです。今、ピサロ様はとても大変な状況にあって、このままではどうなってしまうかも分かりません。けれど、ユーリルさんのお力添えがあればきっと、事態は好転するはずなのです」
 途端にユーリルが渋面になる。それも予測できたことだった。
「……今、貴女がここに来て話をしていることを、あいつは知っているんですか」
「いいえ、全ては私の独断です。ピサロ様が知ったなら、きっとひどくお怒りになるでしょう……。それでも、何もせずにはいられませんでした」
 かつての自分の所業を思えば、こうして何食わぬ顔で対面していることすら許されるものではない。ユーリルの優しさと確かな心の強さがなければ、今こうして生き永らえていることすら叶わなかった身だ。
 それでも、たとえ泥を被ろうと罵声を浴びようと、今のロザリーは動かずにはいられなかった。
「どれほど勝手で、厚かましい頼みであるかは既に重々承知しています。それでも、私がピサロ様のために出来ることはこれだけなのです……。
 私に可能な範囲であれば、……いいえ、仮に不可能に近いことであっても、どれだけ時間がかかろうとも、御礼は必ず致します。どうか、どうかピサロ様をお助け下さい……!」
 そのまま、深々と頭を下げる。目の奥がじわりと熱くなったが、せめて恥知らずにも泣き崩れるようなことだけは、とロザリーはぐっと歯を噛み締めて耐えた。こんな風に突然訪ねて一方的に嘆願して、更にこの上涙まで流しては、きっと目の前の勇者は否応無しに是と答えざるを得ないだろう。そんな彼の優しさに、これ以上つけ込むような真似だけはしたくない。
 ここまで来ておいて何を今更、と心の中の魔が笑う。けれどもこれが、自分が保てる最低限の矜持だった。
 長く重い沈黙の後、やがて呆れたような溜息がロザリーの耳に届いた。……やはり厚顔に過ぎたろうか。
 だが、次にユーリルから告げられた言葉は、全く予想外のものだった。
「……まず、いくつか誤解を解く必要があると思うので、とりあえず顔を上げてください」
 え、と戸惑いながらもその声に従うと、視線の先には困ったような、それでいて些か怒ってもいるような、そんな何とも言い難い表情を浮かべたユーリルの端麗な顔があった。
「ロザリーさんは何でか、僕にあいつ……ピサロに関わる頼み事をすることを、とんでもなく罪深い行いみたいに思っているようですけれど。別に僕自身は何とも思っちゃいませんよ。むしろ何故そこまで畏まられるのかが分からない」
「は……あの、でも」
「もうひとつ。貴女は自分の立場……自分がピサロにとってどういう存在なのかということを、今一度じっくり考えてみるべきだと思う。でないと――」
 その瞬間、突然、轟音と共に入口の扉が開かれた。いや、むしろ蹴破られた、と表すのが正しいかも知れない。
 ぎょっとして振り向いたロザリーとは対照的に、ユーリルは涼しい顔をしている。まるでこうなることを見通していたような沈着ぶりだ。
 鉄製の蝶番が外れた玄関扉はばたんと床に叩きつけられ、小窓に嵌めこまれた硝子が砕けて辺りに散る。その振動で棚に整列していた食器類ががちゃがちゃと鳴り、壁に掛けてあった額縁入りの絵の留め具が外れて落ちた。
 つい先刻まで扉が存在していた場所には、いつの間にか長身の人影が厳しい顔つきで立っている。
 瀑布のような銀の髪と、すっと伸びやかな一対の長耳。苛烈な感情をその深紅の両眸に閃らせながら、魔族の王デスピサロ――もといピサロは前方を鋭く睨みつけていた。
「器物破損。後で弁償な」
 並大抵の者ならばそれだけで命を縮めかねない苛烈な視線も、ユーリルにはまるで雛を守る親鳥のそれだった。一周回っていっそ微笑ましい。
「ピサロ、さま……」
「……出るのであれば、せめてアドンにくらいどこへ向かうか言付けをしろ。肝を冷やすどころか、自刎しかねない勢いだったぞ」
「申し訳、ありません……」
 きゅっと唇を噛んで俯いたロザリーを見遣る、その眼差しは先刻と同一人物だとは思えない程に穏やかだったが、周囲の状況は見るも無残だ。これは片付けが面倒そうだ。ユーリルは深く息を吐いた。
「……取り敢えず、お前もこっち座ってよ。お茶でいいんだろ」
 丁度火にかけていた薬缶が、シュンシュンと蒸気を吐きながら呼び声を掛けてきた所だった。

 罰の悪そうな魔王の表情というのも、なかなかどうして貴重なシロモノだろう。


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