灰とダイヤモンド








 昔から、ボクは何事も一歩出遅れる人間だった。

 たとえば親戚のおじさんから思いがけずお小遣いを貰えたとき。つい嬉しさにぽーっとしてしまい、弟の元気のいい「ありがとう」という声を聞いて慌てて復唱する。

 たとえばクラスの出し物の配役を決めるとき。これをやりたいな、という役柄があった場合、もしやれることになったらどうしようかな、頑張って練習しなくちゃな、とか考えてる間に他の人が手を上げてしまい、結局望んだ役に就くことができない。

 世間一般的に分かり易く形容するならば、ボクはぶっちゃけ「グズ」で「ノロマ」で「要領の悪い」子供だった。

 だからこそ、少しでもそれを解消したくて、ボクはボクなりに精一杯「しっかり者」になろうと努力することに決めたのだ。




* * *




「兄さん、ボク高校卒業したら家を出るよ」

「…………、は?」


 たっぷり一分は静止していたように思う。

 休日のリビングで、クッションを抱えながらゴロゴロとテレビを眺めていた所へやって来た、いやに真剣な表情をした弟の口から零れた思いもよらない台詞に、ボクはただただ目を見開いた。


「家を出る、って。え、なんで? 上京するってこと? いきなり何言ってるの? 父さんや母さんになんて話すつもり?」

「もちろん上京。いきなりじゃなくてずっと前から考えてたよ。――ボクね、本格的に音楽の道に進みたいんだ」

「な……」


 青天の霹靂、とはこのことだ。

 弟は成績こそ中の下くらいだったけれど、その分何よりも音楽に情熱を注いでいた。小さい頃からピアノを習い、中学校では合唱部、高校では軽音部に所属し、楽譜の読み方や声の出し方、楽器の扱い方などの基礎を身に付け、やがて自ら曲を作って歌うようになった。

 それからは新曲を歌っては動画サイトに投稿することが弟のライフワークになった。最初こそほとんど見向きもされなかったが、いつしかじわじわと再生数を伸ばしていき、固定のファンも少しずつ増えた。

 あるとき、ファンの一人が投稿曲のひとつにイメージPVをつけた動画をアップしたことがきっかけで弟の人気に火がついた。どうやらPVの製作者はその界隈ではわりと名の知れた人物だったらしく、弟の生み出す世界観や歌声を見事に表現した映像は確かに素人のボクの目から見ても素晴らしかった。

 大抵の人がソフトウェアによる機械音声を用いている中で、作詞・作曲・歌唱の全てをひとりでこなしていたことも注目を浴び、今では弟の曲は新作を投稿するたびにランキング上位に載り、そのどれもが百万以上の再生数を誇っている。

 ロック調からバラードまで様々な曲を作る中、時折「魂ミキサー」という副アカウントではっちゃけた曲を上げるのもまた人気を呼んだ。顔や年齢などを公開しないという条件で、雑誌の取材を受けたこともある。

 弟の実力も、その熱意も、否定するつもりはボクには毛頭ない。

 けれど――。


「お前、自分が何を言ってるのか本当に分かってる? 確かにネット上では人気があるけど、それがプロとして通用するかどうかはまた別の問題だ。今までは無料だから聴いてくれていた人もたくさんいるだろうし、まだ成人もしてないお前が飛び込んでいくには音楽の世界は厳しすぎるだろう。

 第一、上京するための元手はどうするのさ。いくら情熱があったって、お金がなければ暮らしてなんていけないんだよ」

「お金ならあるよ。この為に今までずっとバイトしてきたんだ。それに、ちょっとだけだけど自主制作したCDの売上もある。あのね、ボクのCD、即売会とかではいつも完売してるんだよ。通販分も全部売れてる。

 そりゃそんなに長くは保たないけれど、少しはやっていけそうなくらいの額は貯めてあるんだ。そのお金が尽きるまでの間はとにかく頑張ってみるよ。もしそれでも無理だったら、そのときはすっぱり諦めて普通に働く。父さんや母さんにもそう伝えた」

「…………っ」

「ボク、どうしてもこの夢を叶えたいんだ。大変なのは分かってるけど、やる前から諦めるようなことはしたくない。……兄さんはボクと違ってしっかり者だから、もし反対されて、もし……嫌われちゃったらどうしようって、そう思ったら怖くてなかなか言い出せなかった。……ごめんね」


 泣きそうに顔を歪めて笑う弟の目には、けれど涙のひとつぶも浮かんではいない。

 小さい頃の弟はひどく泣き虫で、ちょっとしたことでもぴーぴー泣いては助けてにいちゃん、ってすぐにボクを頼ってきていた。ボクも負けず劣らずの泣き虫だったのだけれど、それでもそんな弟の手前、なんとか虚勢を張って乗り切ってきた。乗り切ろうと、してきた。


「……住むところは、どうするの」

「それはもう決めてる。……あのね、動画サイトがきっかけで知り合った人がね、しばらく居候させてくれるって。普通にアパート借りるよりもずっと安い家賃でいいって言ってくれてね。……その人、もう社会人なんだけど、ボクの歌を気に入ってずっと応援してくれてたんだって。だから、お言葉に甘えることにしたんだ」

「それ、本当に大丈夫なの? 騙されたりしてない?」

「大丈夫だよ。直接会って話したこともあるし、名刺だってもらってる。一応企業名調べたけど、ちゃんと実在する会社だし怪しいとこもなかったよ。……それにね、あいつとなら上手くやっていけると思うから。だから大丈夫、」


 ふにゃ、と眦を緩めて微笑む弟の姿に、ボクはいよいよ認めざるを得なかった。

 道端に大きな犬がいるときも、父さんのグラスを割ってしまったときも、テストで赤点を取ったときも。いつも真っ先にボクを頼り、ボクに相談してからでないと先に進めなかった弟は、もうどこにもいないのだと。



「……分かった。身体に気をつけて、頑張るんだよ。相手の方に迷惑をかけないように」



 また一歩、ボクは出遅れてしまったのだ。




* * *




「それが、どうしてこうなるんだか……」


 思い出の追想を終えたボクは、目の前のレモネードをひとくち啜ると、布張りの椅子の背もたれにだらりと身を預けた。

 ウィンドウ越しに映る交差点の大型ディスプレイで、黒とピンクの鮮やかな影が踊っている。


 高校を卒業し、弟が家を出てすぐあと、ボクもまた大学進学のために都内のアパートで一人暮らしを始めた。いきなり息子二人がいなくなってしまうのは両親に申し訳ないかとも思ったけど、久々に二人きりになれるね、だのどこか旅行に行きたいわ、だのとボクをそっちのけで華を咲かせていたから放っておいても平気だろう。そう言えばうちの親こういう人たちだった。

 ボクが毎日大学とバイト先と自宅のアパートとを行き来している間、弟はどういう運命のイタズラか、上京して一年も経たずにデビューを飾った。

 元々評価の高かった楽曲はプロによる編曲で更に洗練され、スタイリストの手で華々しく着飾った弟は全国のお茶の間の液晶の中で少しも臆することなく自分の歌を歌い上げ、気付けば街中の広告や雑誌を席巻していた。つい先日は動画投稿時代の曲を自身でリミックスし、オリコンチャートのTOP3に食い込むという快挙を成し遂げたばかりだ。

 いつも傍にいた弟が、気付けば世間の皆様に知れるところとなり、雲の上の人となってしまった。

 最初のうちは何度も電話やSNSで連絡を取り合っていたけれど、近頃は向こうが多忙すぎて全然だ。夢が叶ったのは兄として嬉しくもあるけれど、流石に寂しさは拭いきれない。

 そんな所に、「時間ができそうだから久し振りに会いたい」なんてメッセージが来たら、そりゃあ浮き立つのも仕方ないだろう。



「ね、ね、やっぱり」

「似てるよね」

「でも髪黒くない?」

「変装でしょきっと。オフなのかな?」

「話し掛けたらマズいかなあ。サインとか貰ってみたい」


 衝立の向こうの席に座ったお嬢さんたちの会話がぽそぽそと耳に入り込んでくる。くそ、いつもだったらこうなることを予測して帽子を被ってくるのに、今日は浮かれるあまり忘れてしまったのだ。

 代わりにパーカーのフードを被ろうかとも思ったけれど、室内でそんな姿でいたらかえって目立つだろう。こうなったら下手に隠れようとしないで、堂々としていた方がいい。

 幸いにもここは姦しい中高生で溢れるファーストフード店などではなく、出張中らしい壮年のサラリーマンや、妙齢のご婦人方がゆったりと寛ぐ場に使われるような少しお高い喫茶店だ。さっきのお嬢さんたちだって小さな声で言葉を交わすだけで、キャーキャーと騒ぎ立てたり盗撮をしてくるような気配はない。有名人には有名人のプライベートがあると理解してくれている、良識のある人たちのようだ。


(ま、ボクはその「有名人」とは人違いなんだけどね……)


 もうひとくちレモネードを啜り、店内の柱時計を一瞥する。約束した時刻は十五分ほど前に過ぎ去っていた。視界の端のディスプレイでは、踊る二色の影のうち黒が一旦画面外となってピンクがメインに映し出されている。


「まだかな……」


 携帯端末には何の連絡も入らないまま、うんともすんとも言っていない。とうとう空になったレモネードを脇に寄せ、両手で頬杖をつくとボクはぺったりとテーブルに倒れ伏した。上品な木材の薫りが、店内に流れるジャズピアノの音と共にゆるりと思考を包んでいく。


「くそう、遅刻代にここの支払い奢らせてやる」

「それくらいなら安いもんですね」


 不意に淡い室内灯の光が遮られ、俯いたボクの頭上に影が落ちた。唐突な応えにぱちくりと瞬き、声の主をゆっくりと見上げる。


 途端、サングラス越しの鈍い赤と鴉の黒がボクの視界を占領した。



「どうもお待たせしました、そっくりさん」


 
 優雅に弧を描く口元は、テレビで見たそれそのもの。

 ディスプレイの中では一旦画面外に引いていた黒が、ピンクと入れ替わるように中央に現れ、その整った美貌を惜しみなく曝して楽曲を謳い上げている。



 ショッキングピンクに髪を染めた双子の弟・アルバと共にビジュアル系ユニットとしてデビューした、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの「アルバトロス」のもう一人の片割れ――ロスが、どういう訳かディスプレイに映る映像と同じ顔をして、ボクの目の前で微笑んでいた。






******




 昔から、兄は一歩引いたところに立つしっかり者で、よくボクの世話を焼いてくれた。

 たとえば家族で出かけたレストランで、熱々のグラタンを食べるとき。届いた途端に頬張ったせいで口内を火傷し、声も出せずに泣くボクに、兄はすぐに水を飲ませ、それからひとくちひとくちをふうふうと冷まして食べさせてくれた。

 たとえば一面に雪が積もった冬の朝。珍しい光景に大興奮したボクが部屋着のままで外に飛び出し、そこら中に足跡を付けているときに兄はわざわざ上着とマフラーを持ってきて、顔や耳を赤くしたボクに優しく羽織らせてくれた。

 世間一般的に分かり易く形容するならば、ボクはぶっちゃけ「ドジ」で「せっかち」で「そそっかしい」子供だった。

 だからこそ、いつもフォローしてくれる兄に報いるためにも、ボクはボクなりに精一杯自分の夢に向かって努力することを決めたのだ。




* * *




「あ、メール入ってる。はいはーい」


 メーラーのバルーンをクリックし、新着一覧をチェックする。投稿と同時に開設したブログに試験的にアドレスを載せてからというもの、頻繁に感想メールが届くようになった。実にありがたいことだ。

 昨日あげた新曲はこれまでとは雰囲気を変え、ちょっとダークな曲調にしてみた。イントロの時点では「似合わないwww」や「イメージ違いすぎwww」なんて嘲笑混じりのコメントもあったけれど、曲が終わる頃には大半が好意的な意見になっていた。新しい扉が開けた、なんて言ってくれる人もいて、作り手としては嬉しい限りだ。最近はようやく再生数も四ケタを超えるようになってきたので、この調子であわよくば五ケタ、六ケタと狙っていきたい。

 ただ、ある程度の再生数を得たいなら、曲だけでなく映像にも力を入れなければならない。

 もちろん理想としては曲だけで勝負していきたいところだが、なにぶん動画サイトには世界中から毎日何千、何万という人が自分の作品をアップしているのだ。まずは聴いてもらうためにも、PVで興味を引くことは重要な戦略になってくる。

 しかし悲しいかな、ボクには音楽はまだいいとして、美術的な才能は備わってはいないのだ。やはり今のまま、音源のみの黒サムネイルで頑張るしかないのだろうか。


「……、あ」


 ため息をつきながらメールのひとつひとつに目を通していく中で、差出人のところに見慣れた名前を見付けてスクロールの手を止める。


「またくれたんだ、この人」


 『六本木』という一風変わったハンドルネームを用いるその人は、ボクがまだ自作曲を歌った動画を投稿し始めて間もない頃から視聴してくれているらしい、かなり熱心な――自分で言うのもなんだけれど――ファンだ。らしい、なんて曖昧な言い方をするのは、メールでそう自己申告されたからである。

 どうやら『六本木』はなかなか音楽の造詣が深いらしく、単なる感想だけでなく曲のコード進行やテンポ、使用した楽器についても細かい感想をくれる。更には「もう少し高音のピッチに気をつけた方がいい」「そこは金管よりも弦楽器の方が全体的にまとまる」などアドバイスまで出してくれるのだ。

 人によっては小煩い奴に絡まれた、なんて感じるかも知れないが、ボクは『六本木』の意見をとても重宝している。だって実際に彼――もしくは彼女? の指摘通りに修正してみたら、前よりも各段に曲の響きが良くなったのだ。何よりボク自身、『六本木』のお陰で色々と学ぶことができた。叶うなら直接会ってお礼を言いたいくらいだ。


「ん?」


 ふと、今日受け取った『六本木』からのメールに添付ファイルが付いていることに気が付いた。こんなこと今までにはなかったことだ。とりあえずウイルススキャンをかけ、安全性を確認してから解凍してみる。

 そして。


「…………、えっ?」


 驚愕のあまり、ボクは目をこれ以上ないってくらいに見開いた。

 まさか、こんな、こんなこと。夢じゃないだろうか。




『TO:レッドフォックスさん


 勝手ながら今回の新曲をイメージしてPVを作成してみました

 よかったら感想と投稿の許可を貰えませんか


           FROM:六本木』




 解凍したフォルダの中に入っていた動画ファイルを、ボクは感動のあまりしばらく開くことも忘れてパソコンの前でフリーズしていた。






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