Are you?/Yes,I am.




「ルキは変えないんだね」


 ぽつり、と。

 雨傘から雫が零れ落ちるように呟かれたその言葉に、三代目魔王ルキメデスこと通称ルキは大きな目をしぱしぱと瞬かせた。


「アルバさんって国語の成績万年『1』だった? それとも文法とかそういうの今まで習ってこなかったの?」

「いきなり辛辣!」

「私、一応これでも文脈や行間を読み取るのは人より得意なほうだって自負してるけど、最低限必要な情報すら揃っていない台詞から意図を察するなんて芸当はできないよ。エスパー能力なんて持ってないもの」

「あー……うん、確かに今のはボクが悪かった。ごめん、忘れて」


 はぁ、と吐いた息で漣立ったマグの水面を眺め、アルバは苦笑しながら頬を掻いた。この勇者がこんな風に沈みがちな様子を見せる原因はいつでもたった一つ、いや一人だ。


「べつに私は何か特別な理由があってロスさんって呼んでる訳じゃないよ? 最初に出会ったときにそう呼んでたからそのまま続けてるだけ」

「察してるじゃん!」

「やっぱりロスさんのことだったんだ」

「あ」


 見開かれた目はビー玉みたいにくりくりしていて、まるで子供のそれだ。

 ちょっとカマをかけただけで簡単に引っかかってしまう。本当に、こんなに分かり易くて今までよく無事だったものだ。

 かつて一緒に旅をしていた頃、かのバリサン戦士があれほど執拗にこの人をからかい倒していたのは、ひょっとしたら少しでも他人に対して猜疑心を持たせるための訓練だったのではないかとすら思えてくる。だとしたらその企みは見事に失敗だ。

 ルキは喉までせり上がっていたため息ごと、ファン●グレープをくぴりと飲んだ。



「そもそも、なんで今更呼び方なんて気にしてるの。前は普通に呼んでたじゃない」

「……そりゃ、そのときはそんなことを気にしてる余裕なんてなかったし。でもこうして一人の時間が増えるとさ」


 アルバがその身に宿した膨大な魔力が原因で、魔界の牢獄に入れられてから随分経つ。こうしてルキが政務の合間を縫って遊びに来たり、月一の家庭教師の来訪だったり、他にも何やかんやの理由で客足は途絶えはしないものの、以前よりは圧倒的に一人で過ごす時間が増えた。

 大半は家庭教師から下される膨大な量の宿題に頭を悩ませているのだが、それでもふと手が空いたときなどに、不意にそんなことを考えてしまうのだと、生来分かり易い性格の勇者はへにゃりと眉尻を下げて力なく笑った。


「今の発言をロスさんが聞いたら『勇者さんのくせに考え事する余裕があるなんて生意気ですね! それならお望み通り更に課題を増やしてあげます!』とか言いそうだね」

「容易に想像できるのが嫌だ……!」


 アルバ専属の家庭教師は、とにかくアルバが悩んだり苦しんだり絶望したりしている様子を見るのが好きだ。そりゃあもう三度の飯より大好きだった。一歩引いた立場からするとそれは単なる歪んだ愛情でしかないのだが、当事者であるアルバにとってはたまったものではないだろう。


「ていうか、それこそ勉強見てもらってるときはなんて呼んでるの? まさか名前呼ばずにおい、とかお前、とかで済ませてるわけじゃないでしょ」

「そんな態度取ったらアバラどころの話じゃないよ! ……なんて言うか、その、バラバラなんだ」

「アバラが?」

「アバラじゃなくてね!? ……その時によってロスって呼んだり、シオンって呼んだり、たまに戦士って呼んだり……バラバラ」

「意図的?」

「無意識。咄嗟に口について出てきた呼び方で呼んでる感じ」

「それで、統一したほうがいいのかどうか悩んでいると」

「そういうこと」


 成程合点がいった。ルキは一人頷くと茶請けのクッキーを一枚つまんだ。さくさくとした軽快な歯ごたえと、砂糖とバターの甘い風味が丁度良い。

 意外なことにこれを焼いたのは目の前に座るアルバである。毎日魔法の勉強だけでは息が詰まるからと、時折来客用のお菓子を作っているのだ。ふたりで旅をしていたあの一年の間に剣だけでなく料理の腕も格段に上達していたため、味も見栄えも文句なしだ。むしろ相当のものだと言って良い。

 けれど、アルバが料理上手であることを知っている者はごく僅かだ。

 そうならざるを得なかった過程をずっと傍で見ていたルキ以外では、今のところ偶々サボりに来たときに調理現場を目撃したトイフェルだけである。他はみんな、アルバのもとを訪れたときに振る舞われる美味しいお菓子の数々は、誰かがどこかで買ってきた土産物だと思っているのだ。

 そう、あのロスでさえも。

 アルバ自身にはそのことについて、積極的に口外する意志はない。となれば後は真実を知る者が黙りさえすれば、秘密というものはいとも容易く出来上がる。

 執事長に関してはルキが直々に口止めしてあるし、そもそもあの面倒くさがりな男が自分からそれを話すことなどまず有り得ないだろう。

 何故そんな隠蔽工作などをするのかと言えば、答えは単純。それがルキにとっての密かな自慢だからだ。

 皆が知らない勇者の秘密を自分は知っている。どれほどささやかだろうと、この程度の優越感は抱いても許されるだろう。だってルキだって誰よりも、気持ちの上ではロスにだって負けないくらいにアルバのことが大好きなのだ。


 一年間、ふたり同じ目標に向かって歩き続けた絆は伊達じゃない。


 その証であるこのクッキーの美味しさに免じて、今回だけは助け舟を出してやろう。もう一枚だけつまんでから、ルキは深々と息を吐いた。



「ねえアルバさん。私の名前言ってみて」

「? ルキ、だろ」

「ブー。はずれ」

「えっ? ……じゃあ、三代目魔王ルキメデス」

「それもはずれ」

「え、あれ、それ以外にあったっけ? ルキ、ルキメデス……あれれ?」

「ごー、よーん、さーん……」

「ちょ、ちょっと待って! あれ、でも他の名前でルキを呼んだことなんて……あれえぇ?」

「にーぃ、いーち……ゼロ。はい、アルバさんの負けー」

「うう、いつから勝負ごとに……。で、結局なんなの」

「リュミール」

「は?」

「私の本名。リュミールって言うの。パパとママがつけてくれた」

「はあああっ!? 何それ知らないよ初耳!」

「だと思うよ。今初めて教えたもん」

「えええ何それ……ボク最初から勝ち目ないじゃん……というか何で今まで教えてくれなかったのさ」

「必要がなかったからだよ」

「ボクには名前を教える必要がないと!?」


 がーん、とショックを受けた時の効果音がアルバの背景で轟いて見える。この人はこの手の感情にはどうにも鈍い。と言うより、突っ込みのスキルが高すぎるが故に物事をついネガティブ方向に捉えがちなのだ。もっと単純に考えれば、きっと色々なことに気付くだろうに。

 ルキはやれやれと肩をすくめ、頬にかかる桃色の髪の一房をくるりと指に巻きつけた。

「私はアルバさんにルキメデスって名乗って、アルバさんは私をルキって呼ぶようになった。ただそれだけのことでしょう? 多分、ロスさんも同じ考えなんだと思うな。何だって構わないんだよ、きっと」

「え……つまり呼ばれ方なんてどうでもいいってこと?」

「うーん、それだとニュアンスが違ってくるかな。とりあえずヒントはあげたんだから、あとは本人に直接確認してみてよ」

「へっ? あ、ちょっと、ルキ!」


 アルバが引き止めるより早く、ルキは唐突にゲートを出現させると、ひょいとその中へ消えてしまった。思い出したように小さな手だけがもう一度黒い穴から現れ、ひらひらと左右に揺れたかと思えばすぐさま引っ込んでしまう。


「それじゃ、クッキーごちそうさま。次はチョコマフィンが食べたいなっ」


 一人その場に残されたアルバは、結局なにも解決していないじゃないか、と小さく呟きながら、頭の片隅でマフィンのレシピを展開させていた。




* * *




「あ……えと、いらっしゃい」

「どうも」


 二人分のお茶の支度を終えた、そのタイミングで丁度良く来客は訪れた。

 黒い髪に黒いジャージ、黒いズボンに黒い靴。お馴染みの黒づくめに身を包んだ家庭教師は、その整った鼻をくん、と鳴らし、辺りに漂う空気の匂いを嗅いでいた。


「甘い。……チョコレートですか?」

「はは、当たり。チョコ入りのマフィンなんだけどね、またルキから沢山貰っちゃって。よければ採点の合間にでも食べてよ」

「そりゃどうも」


 勉強机も兼ねたテーブルの上には白のコットンクロスが敷かれ、平皿に拳大のチョコレートマフィンがからりと並んでいる。本当は貰い物などではなく自分で焼いたものなのだが、それをわざわざ口外するつもりはアルバにはなかった。なんとなく気恥ずかしい、と言うのに加えて、男のくせに女々しい奴だ、と思われたくないという気持ちもあったからだ。


「で、そんな風に言うからには当然この間出した課題は全部正解してるんでしょうね」

「ハードル高すぎない!? 間違えたところを分析して克服するのも勉強のうちじゃないのうげふッ!」

「うるさい」


 容赦のない腹部への一撃。

 至っていつも通りのロスの態度に、アルバは痛む腹をさすりつつ、知らず知らずのうちに肩を強ばらせていたことに気づいて苦笑しながら息を吐いた。


「何ため息なんざついてるんですか勇者さんのくせに。空気汚染されたんで換気して下さい」

「たかだか一回のため息だけで!? ボクの息は排気ガスか何かか!」

「たかだかだなんて、そういう身勝手な意識が環境汚染に繋がるんですよ。それとも自分ひとりくらいなら何したって大丈夫だとでも思っているんですか? 勇者のくせにエコロジー精神の欠片も持ち合わせていないんですか。この世界の敵が!」

「えらい大規模な話にされた! ボクの呼吸とエコロジーは全く関係ないはずだよね!?」

「いつまでもギャーギャー言ってないでとっとと始めますよ。ほら、採点するからノート出して下さい」

「あっハイ……」


 全く以て腑に落ちないが、このまま食い下がったところで再び鉄拳が飛んでくることは分かりきっている。この場は大人しく引き下がることにし、アルバは先月出された課題のノートをおずおずと差し出すと、そのまま隣接するキッチンへ向かった。

 水を入れた薬缶を火にかけ、沸騰を待つ間にあらかじめ出してあった二人分のマグをとティーポットを温める。やがて湯が沸騰したら茶葉と共にポットに注ぎ、充分に蒸らした後で茶漉しを通してマグに入れる。あとは好みの分量だけ砂糖とミルクをプラスする。チョコマフィンが甘いのでアルバは砂糖なしのミルクのみだが、ロスの分には必ずキューブの砂糖をふたつ入れる。

 てろてろと溶けた砂糖をスプーンでかき混ぜ、砥粉色の渦ができたところで二つのマグを手にテーブルへと戻っていった。


「ロス、お茶入ったよ」

「ああ、そこ置いといて下さい」

「…………」


 さて、これからどうしよう。

 手持ち無沙汰になった勇者は暫しまごついた後、向かいの席に腰を下ろして頬杖をついた。



(直接確認しろ、だなんて言われても。それができないから困ってるってのに)


 先日のルキの言葉を思い出し、アルバは心の中で嘆息した。その確認相手はこちらに目もくれず、課題の採点に集中している。

 さらさらと流れるようにペンを動かすロスの顔立ちは、贔屓目を抜きにしてもやはり綺麗だった。鴉の濡羽色、と表現するのがぴったりな髪の毛は、以前の髪型のイメージから非常に硬質そうに思えるが、実際に触ってみると案外そうでもなかったりする。少なくとも過去に何度か触れたときは、それはアルバの掌に驚くくらいに優しく馴染んだ。

 赤い双眸も印象的だ。あの目で真っ直ぐに見つめられると、まるで心の中まで見透かされているような気持ちになる。日に熟れた林檎みたいな輝く赤だ。

 肌は男にしては珍しいくらいに白い。けれど不健康という訳ではなく、首元や四肢などにしっかりと鍛えられた稜線を持っているため華奢な印象も見受けられない。髪と目の両方がよく映える綺麗な肌だと常々思う。手首や肘の内側に、薄らと青く血管が浮いて見えるのがほんの少しだけ艶めかしい。

 ……考えてみれば、ロスに限らず自分の周りにいる人たちは総じて顔面偏差値が高い気がする。ルキは将来には母親に似て美人になるだろうし、クレアだって口を開くと幼さが目立つものの、黙っていれば充分に格好良い。


「……さん」


 ヒメは流石お姫様と言うべき可憐な容貌をしているし、アレスも一見するとグラマラスな美女だ。フォイフォイも喋りさえしなければ美形と言って差し支えない。


「……ましたよ、……さん」


 ひょっとしていまいちパッとしない容姿なのは自分だけなのではないだろうか。いやいや確かに十人並ではあるが、特別不細工という訳でもない。ないはずだ。……きっと。


「聞けよゴミクズ野郎」

「うげぇ!?」


 突然襲った強烈なパンチの衝撃に、アルバは椅子から転げ落ちて尻を強かに打ちつけた。いつの間にか隣に来ていたロスが拳を握ったまま蔑むように見下ろしている。


「採点終わりましたって何度も言ってんのに、オレを無視するとはいい度胸ですね。その勇気に免じて撲殺か刺殺か選ばせてあげます」

「どっちにしても死ぬ! ちょっと考え事してただけなのに!」

「……へえ? オレの声も聞こえないくらい夢中になるなんて、そりゃさぞかしご立派なことを考えていたんでしょうねえ。一体何を考えてたのか、よければオレにも教えてくれません?」


 あ、やばいこれ墓穴掘った。完全に藪蛇だ。

 にっこりと、それはそれは綺麗に笑う顔を見ながら、アルバは自らの迂闊さを呪った。自分が居る前でアルバが他に意識を飛ばすことを、ロスはひどく嫌うのだ。

 まさか本人に向かって、貴方の顔に見惚れていました、などと言える筈がない。なんとか誤魔化さなくてはという焦りばかりが先行し、アルバは更に余計なことを口走った。


「あの、えーと、そう! 結局ボクはお前のことなんて呼べばいいのかなって!」

「……は?」

「ほら、お前はロスだけどほんとはロスじゃなくてシオンだったし! でもってシオンはクレアシオンで伝説の勇者で、ボクの家庭教師が戦士で、戦士がロスでシオンは勇者でボクも勇者で、あれ?」


 誤魔化すつもりがうっかり本来訊くべきかどうか悩んでいた事柄そのものをぶちまけてしまった。しかもどんどん支離滅裂になっている。最早自分が何を言ったのかも分からなくなったアルバは、だらだらと滝のように汗を流しながらそのまま固まってしまった。



「…………」

「…………」



 沈黙が痛い。

 怒っているのか呆れているのか、先程のような底冷えのする笑顔ではなくなったものの、ロスの表情は不機嫌そうに歪んでいる。お決まりの物理攻撃も飛んでこない。いっそ殴られた方がリアクションとれるだけまだマシかも知れない、と本人にバレたら速攻でドM認定されそうなことを床にへたりこんだままのアルバ思い浮かべたところでようやく応えが降ってきた。


「……あんた、いつからそんなこと考えてたんです」

「え? えーっと……いつからと言われると、多分ここに投獄されたあたりから……かな」

「もう半年以上も前からですか。んな長々と無駄なこと考えてたなんてほんと無駄ですね。無駄無駄無駄無駄」

「その台詞はちょっとマズいからやめよう! てゆか無駄とか言うなよ、仮にもお前に関することなんだから、だからボクは!」

「だからなんです。そのオレが無駄だって言ってるんですよ。第一そんなの貴方一人で頭捻ってても答えが出るはずないでしょう。とっとと本人に訊けばいいのに何してんですか悩んで悶々とするのが趣味なんですか思春期かエロガキ」

「そんな趣味ないしそんな罵倒受ける謂われもないんだけど!? そもそも本人に聞けてたらこん、」




 こんな苦労なんてしてない、という言葉は、白くて長いロスの指によって不意に堰止められた。


「…………っ」


 片膝をつき、座り込んだアルバに視線を合わせたロスの表情は思わず目を見張るほどに真剣だった。

 触れる指先は仄かに温かく、見詰める先ではふたつの赤がゆらりと篝火のように光っている。


「本当に、そんな悩む必要なんてなかったんです。だってオレは、そんなの何でも良かったんだから」

「――――っ」

「ああ、別にどうでもいいとかそういう投げやりな意味ではなくて。……貴方が呼んでくれるなら、何だって良かった」


 顔を顰めたアルバを宥めるように、指を触れたままロスは小さく笑みを零した。


「オレにとって重要なのは、何て呼ばれるか、ではなく誰が呼ぶのか、って点だから。ロスでも、シオンでも、戦士でも、……クレアシオンでも、良かったんです」


 ひとつひとつ紡がれる呼称。それらは全て彼を表す言葉だ。アルバの目の前にいる『彼』を。


「どんなものでも、貴方が呼んだらそれがオレの名前です。貴方がロスと呼ぶならオレはロスだし、シオンと呼ぶならシオンになる。戦士と呼ぶなら戦士になるし、勇者だと言うならそれでもいい。

 ――貴方が呼んでくれるなら、オレは何にだってなれるんだ……アルバ」



 だから、何だっていいんです。


 唇を抑えていた指が離れ、代わりに両の手が頬を包み込んだ。触れる掌は指先以上に熱く、釣られてアルバの体温も上がっていく。



『何だって構わないんだよ、きっと』



 ちかちかと瞼の裏に星が散り、唇に新たな熱を感じながら、当代の勇者は今更ながらにルキが去り際に残した言葉の意味を理解した。




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