花揺れ



 さわさわと葉擦れの音がする。
 教え処での授業が終わり、お香は帰路に就いていた。この辺りの叢には時折蛇が出るとの噂がある。特に帰りを急ぐ訳でもないので、寄り道がてらに足を踏み入れてみることにした。
 自分の身の丈程の高さの薄が風に揺れ、先の音を奏でている。その細長い葉茎の合間を縫うように、三つ葉や杉菜などの背の低い雑草が茂っていた。

「あら、蛇苺」

 緑の中に点々と混じる赤い実を見つけ、お香は屈んで指を伸ばした。食用としては適さないらしいが、その丸い外観は毬のようで可愛らしい。ぷつりと摘んで簪のように髪に飾ると、くすくすと小さく笑いを漏らした。
 と、その時。

「――誰か、そこに居るんですか」
「えっ?」

 不意に聞こえてきた声にきょろきょろと辺りを見回すと、傍らの茂みを掻き分けて黒い人影が姿を現した。

「……お香さん?」
「まあ……」

 声の主は同じ教え処に通う少年・鬼灯だった。半月のような黒い瞳がじっとこちらを見下ろしている。
 彼とはそれほど話したことは無かったが、教師達が舌を巻く程に優秀な成績を修めていることは知っていた。それでいて時折、突拍子もない悪戯を仕掛ける子だということも。

「何をしてるんです、こんな所で」

 訝しむ眼差しを受け、お香は着物の裾に寄った皺を手で軽く払いながらゆっくりと立ち上がった。

「うーんとねェ、道草してたの。ここ、アタシの帰り道だから。鬼灯くんは何をしてたの? 宿題?」

 鬼灯の手には藁半紙を切って綴じたような小さな筆記帖と筆が握られている。どちらもこんな屋外の場には不釣り合いな品だ。

「野草を観察していました」
「やそう?」
「はい。いずれは漢方などの薬学も学ぶつもりなので、その予習までに」
「ふぅん、そうなの。凄いのねェ」

 感嘆の声を上げるお香に対し、鬼灯ははあ、と呟いただけだった。別段意地悪をしているのではなく、この無愛想さが彼の素なのだということは普段の様子から承知している。――仮に意地悪をされていたのだとしても、元来おっとりとした性格のお香は意にも介さなかっただろうが。

「観察って、何をするの?」
「葉の付き方や花弁の形、根の形などを図解と一緒に記録します。あとは必要に応じて持ち帰って煎じたり、乾燥させてみたりなども」
「ふぅん、なんだか面白そう。ねえ、見ててもいい?」
「構いませんけど……多分詰まらないと思いますよ」
「いいの、いいの」

 にこにこと笑うお香を一瞥して小さく息を吐くと、鬼灯はそのまま何事もなかったかのように再びがさがさと藪に分け入り、手頃な場所にぺたりと座り込んで観察の続きを始めた。お香はその隣に腰を下ろし、邪魔にならないような距離から彼の手元を覗き込む。当人の性格を表しているような几帳面な字が、さらさらと紙面上で躍っていた。

「そう言えば、他の子達はどうしたの? ほら、いつも一緒に居る……」
「烏頭さんなら書き取りの宿題を忘れた罰で居残りです。蓬さんはそれに付き合わされてます」
「あら、鬼灯くんは付き合ってあげないの」
「あげません」

 きっぱりと言い切った鬼灯の手はお香と会話している間も全く止まることはなく、次から次へと新しい頁が綴られていく。その早さはそのまま彼の集中力の高さと観察眼の確かさを示していた。

(やっぱり凄いのねぇ、鬼灯くんて。でも……)

 鬼灯はその賢明さをこれ見よがしにひけらかしたり、鼻にかけて周囲を見下すようなことは決してない。急に押し掛けてきた自分のことも邪険にせず、話し掛ければこうしてきちんと応えてくれる。教え処に通う他の男童に比べて随分と大人びた雰囲気を持つ鬼灯の横顔を、お香はいつしかしげしげと眺めていた。

 と、そこで妙な点に気付く。

(あら……?)

 一心に観察を続ける鬼灯の顔。その一部、頬から目尻にかけての部分が僅かに赤くなっている。よくよく見れば襟足近くの髪もやや乱れ、筆を走らせる右手の甲には薄らと擦り傷が出来ていた。

「ねえ鬼灯くん、どうしたの?」
「はい?」
「だってその手、怪我してるわ。ほら、ほっぺも」
「……っ!」

 お香がそっと触れた途端、鬼灯はびくりと身を竦ませて後退った。その勢いでばたばたと筆記帖が地面へと転げ落ちる。まるで警戒心を剥き出しにした猫のような反応に、呆気にとられたお香はぱちくりと瞠目した。

「あ……ごめんね、急に触っちゃって。痛かった?」
「……いえ、別に」
「どこかで転んじゃったの?」
「違います」
「そうよね、鬼灯くんは転んだりなんてしないわよねェ……じゃあ、どうして?」
「……大したことじゃありません。ちょっと喧嘩をふっかけられたのでやり返しただけです」
「まあ……!」

 鬼灯は筆記帖を拾い上げ、はたはたと振って土埃を払った。その顔は平生よりも冷たく無表情になっていて、何の感情も浮かんでいない。

「慣れてますから。こういうの」
「……慣れてるの?」
「ええ。どこから聞きつけるのか、私のことをみなしごだと言ってわざわざからかいに来る下らない輩が居るんですよ。勿論その都度しっかりと報復していますが」

 多分そのときに負った傷でしょう、と事も無げに言う鬼灯に、お香は何故だか落ち着かない気持ちになった。吹き抜ける風が草木を揺らし、ざわざわと漫ろに鳴り響く。

「みなしご、って……」
「ああ、私には身寄りが――家族がいないんです」
「家族がいないから、からかわれるの?」
「そういうことですね」
「……どうして、それだけでそんなことされなきゃいけないのかしら。鬼灯くんは何も悪いことしてないのに」
「さあ。その辺の思考回路は私にも計りかねます」

 鬼灯の調子は相変わらずだが、その声の内には隠し切れない苛立ちが滲んでいた。当然だろう、聡明な彼がこんな理不尽な扱いを受けて、腹が立たないはずがない。いくらやり返しているとは言っても、こうして彼は傷付いているのだから。――身体だけではなく、もしかしたら心も。
 お香は先程触れた頬の冷たさを思い出して、無意識に手を強く握り締めた。

 そうして暫しの沈黙の後――不意に妙案を閃いて、お香は握っていた手をぱん、と合わせた。



「そうだわ。じゃあ、アタシと家族になりましょうよ」
「………………は?」




 そう言った瞬間、鬼灯の瞳が満月のように真ん丸に見開かれ、筆記帖が再度手から滑り落ちた。感情の起伏に乏しい彼にしてはとても珍しい、傍目にもはっきりと分かるくらいに驚いた顔に、お香は堪えきれずにうふふ、と小さく笑みを零した。

「だって、その人達は鬼灯くんに家族がないことをからかいに来るんでしょ? なら、家族がいればもうそんなこと出来ないじゃない」
「そういう問題ではなくてですね。貴女、自分が何を言っているのか分かっているんですか」
「分かってるわよぉ。今なら丁度うちに空いてるお部屋があるから、鬼灯くんはそこで暮らしたらいいんじゃないかしら。それにうちのお母さんはとっても料理上手だから、なんでも好きなものを作ってもらえるわよ。それから……そうだわ、鬼灯くんは物知りだから、お勉強のこととか今みたいな野草のこととか、家族になったら毎日色んなお話を聞かせてね。ね?」
「ね、ではなく……ああもう、」

 鬼灯は溜め息をつきながらがしがしと頭を掻き毟った。そのひどく狼狽した様子に、お香はこてん、と首を傾げる。

「鬼灯くんは、アタシが家族じゃあ嫌かしら?」
「嫌とかそういうことじゃなくてですね。第一、私達は同じ教え処に通っているというだけで、碌に話したこともないじゃないですか」
「今、こうしてお話してるじゃない」
「今に至るまでは殆ど接点もなかったでしょう。お互いについて何も知らないのにいきなりそんな、」
「知ってるわ」

 途中で言葉を遮ると、お香はひたと鬼灯の眼を正面から見据え、それからにっこりと微笑んだ。

「鬼灯くんがとっても賢いこと、将来のためにこうして頑張って勉強してること。なのに結構イタズラ好きで、教え処の先生をよく困らせたりしてること。アタシのことを邪魔者扱いしないで、話し掛けたらちゃんとお返事してくれる優しい人だってこと。少なくとも、貴方のことをみなしごだってからかうような人達よりは、アタシのほうが鬼灯くんのことをよぉーく知ってるわ」

 ねェ? と笑うお香を食い入るように見つめると、鬼灯は口を開き掛けてはまた閉じる、という行動を二、三度繰り返した後で一際大きな息を吐いた。額に手を当ててかぶりを振り、その眉間には頭痛を堪えるかのような皺が数本寄っている。

「……やっぱり嫌かしら」
「いえ。嫌では……ありません。ただ、」
「ただ?」
「……今の私達ではまだ、家族になることは出来ません。もう少し大人になってからでないと」
「あら、そうなの。それなら今は約束だけして、大人になったらきちんと家族になりましょう。ね?」
「……そうですね。大人になったら」


 家族に、なりましょうか。


 風に溶けるような声で囁かれた言葉に、お香はぱあっと顔を輝かせた。そのまま鬼灯の手を取って、約束よ、と弾んだ声で言うと、鬼灯はいつもの無表情に戻ってこくりと頷いた。
 その小柄な体格に反して思いの外大きかった彼の手は、何故だかぽかぽかと温かかった。




「……そろそろ帰りましょう。もう結構な時間になっている筈です」
「そうね、ちょっと長く居すぎちゃった」

 お香は応えて立ち上がると、風で乱れた髪を整えるように手で掻き上げた。

「――その髪、」
「え?」
「何か飾っているようですが」
「ああ、さっき見つけた蛇苺よ。赤くて可愛いでしょう?」

 ふふふ、と微笑むお香に、鬼灯は暫し何か考えるように口許に手を当てると、ややあってから徐にお香の髪に触れた。

「鬼灯くん……?」
「蛇苺の標本、まだ採取していなかったんです。良ければ頂いてもいいですか」
「ええ、いいわよぉ。あんまり摘んだら可哀想だものね」

 鬼灯の手がごそごそと動く気配がして、やがてするりと離れていく。その掌中には赤い蛇苺の実が包み込むように握られていた。


「……そちらの方が似合いますよ」
「え?」
「何でもありません。さあ、早く帰りましょう」
「うん、そうね」

 さかさかと歩き出した鬼灯を追って、お香もその後ろをついて行く。
 その柔らかな水色の髪の上、つい先刻まで蛇苺が収まっていた場所で、真っ赤なホオズキの実が揺れていた。



* * *



「……なんてこともありましたね」
「よく覚えておいでねェ、鬼灯様……」

 お香は小さく溜め息を吐くと、手元の猪口に冷酒を注いだ。

「あんな強烈な経験、そうそう出来ることではないですよ。まさかいきなりプロポーズをされるだなんて」
「もう、その話題はよして下さいな! 部下をいじめて楽しいですか?」

 あれから果たして何千年の時が流れたのか。
 教え処に通う子鬼の中で一番賢かった『鬼灯くん』は大出世を遂げて閻魔大王の第一補佐官となり、地獄の様々な事柄を取り仕切る立場にある。同様に身の丈も大きく成長し、かつてはお香よりも僅かに低い位置にあった黒髪の旋毛は、今や頭一つ分は高い。黒い半月のようだった双眸はそのまま鋭い刃のような眼差しになって、その整った容貌は地獄中の鬼女達の噂の的だ。
 対するお香も今では衆合地獄の主任補佐官として人を管轄する立場にある。ふわふわと野に咲く花のようだった少女はしっとりと艶やかな華になり、色狂いの亡者のみならず多くの男獄卒達の心を惹きつけていた。
 二人は同級生のような間柄から上司と部下という関係に変わった今も、時間が合ったときには昼食を共にしたり、こうして飲みに出ることがある。その度に昔のことを持ち出されてはあれこれとからかわれるものだから、お香は滑らかな頬をぷっくりと膨らませてむくれていた。

「いじめるだなんて心外な。私はただ、思い出話に華を咲かせているだけですよ」
「……あの時は、自分の言った言葉の意味をちゃんと理解していなかったんです。こう言ってしまっては語弊があるけど、その、ペットを拾うような気持ちだったので」
「成程。私をペット扱いできるのは、地獄中を捜しても貴女ぐらいなものでしょうね」
「鬼灯様!」

 怒りますよ、とねめつけるお香に対し、鬼灯は猪口を持たない方の手をひらひらと振って気を宥めた。肴の卵味噌を軽くつまみ、くい、と酒を煽って身体の奥へと流し込む。

「まあ、このくらいの意趣返しは許して下さいよ。何しろもう何千年も約束をすっぽかされ続けているのですから」
「…………え?」

 きょとん、と目を丸くしたお香の様子を、鬼灯は喉の奥だけでちいさく笑った。美しく成長し、どれほどの艶やかさを備えても、お香のあどけない可憐さはあの頃のまま、彼女の本質として今も変わらず保たれたままだ。

「いつになったら果たして貰えるんでしょうねぇ。ずっと待っているんですが」
「えっと、あの……」
「ああ、そろそろいい時間ですね。これ以上は明日の業務に支障を来しかねません。出ましょうか」
「あ、ちょっと……!?」

 徐に時計を確認するや否や、鬼灯はぱしりと伝票を手に取ると口を挟む隙を与えずに支払いを済ませてしまった。そうしてぽかんと呆気に取られたままのお香の手を引き、店の暖簾を潜って外へ出る。

「鬼灯様、そんな。悪いわ」
「女性に酒代を割り勘させるほど、私は甲斐性無しではありませんよ」
「だって……」
「それに」

 尚も食い下がるお香の手をくい、と引き寄せ、鬼灯は低く艶のある声で耳元に囁いた。


「いずれ家族になったなら、財布くらい共有してもおかしくはないでしょう」


「――――っ!」
「それでは、また明日。……なるべく早くに果たして下さいね。私の方は、いつでも準備は出来ていますので」

 ――閻魔様に、舌を抜かれてしまう前に。

 真っ赤になったお香をちらりと一瞥すると、鬼灯はそのまますたすたと閻魔殿へ向かって行ってしまった。
 お香は暫くその場に立ち尽くし、やがて漸く動くようになった手で火照る頬をそっと押さえた。酒精の所為ではない熱が、皮膚の下をぐるぐると巡っている。


「……アタシったら、とんでもない約束しちゃったのね……」


 夜風に踊る髪の上で、真紅のホオズキの実がふわりと揺れたような心地がした。



end.



戻る