憧月

 じわじわと近づいてくる朝の気配。滑らかなシーツの敷かれた寝台の上で横になる僕の鼻やおでこや唇に、絹のような感触が降りてくる。

「ねえ、ディオ」
「何だ」

 起きるときと寝るときと、あとは他にも色々なとき。ディオはこうして僕によくキスをする。吐息がするすると皮膚の上を滑っていく感覚は、なんだかとてもくすぐったい。

「ディオの身体はどうしてそんなに冷たいの?」

 その手もその頬も、その息遣いですら。彼に抱き締められていると、温かいはずなのにどこか冷たさを感じるのだ。まるで深い深い海に沈んでしまっているかのような、底の知れない冷たさを。
 それを感じる度に僕は、胸の奥をきゅうっと掴まれたみたいな気持ちになる。

「冷たいのは嫌か」
「ううん、嫌じゃあないよ。ただ心配なんだ、寒くはないのかなって。ひょっとしたら風邪を引いてしまっているんじゃあないの?」
「私の調子は至って良好だ。お前が気を揉む必要はどこにもない」
「そうかい? なら、いいんだけど」

 僕はその言葉にほっと息を吐いて、目の前の広い胸にぎゅうっと抱き付いた。背中に回されるふたつの腕の感触に安堵しながらぺたんと顔を寄せて目を閉じると、微かに心臓の鼓動が聞こえてくる。この音こそが今、ディオが元気でいることの証なんだ。

「不思議だなあ。こうしてディオの心臓の音を聞いていると、まるで自分の音を聞いているみたいに思えてくるんだ」
「それは私とお前が何よりも近しい者だからだ。お前はこのDIOと命を――魂を分かち合った存在。誰にも侵すことのできない、唯一無二の存在なのだからな」
「たましい……」

 ディオは時折、こういうむつかしいことを言うことがある。こんなときのディオはいつもよりも少し嬉しそうで、自分自身の言葉にうっとりしているみたいにその真っ赤な目を細めて静かに息を吐く。この吐息だけは普段と違い、彼の中に唯一明確な熱を感じられるので僕は好きだ。こういうときに触れ合うと、本当にディオとひとつになっているかのような錯覚さえしてしまう。唇の先から溶け出して、形も重さもなくして混じり合うのだ。紅茶に落とした砂糖みたいに、海に堕ちた雫みたいに。

「ジョジョ」

 その呼び声に応えるように、広い胸に寄せていた手を首へ回し、さらりと揺れる金糸に触れながら頬に擦り寄るようにしてくちづける。柔らかく頭を撫でてくれる大きな掌が心地良かった。
 ゆっくりと瞼が下がっていく。僕とディオの時間は日没と共に始まり、夜明けと共に終わるのだ。

「おやすみ、ディオ……」
「ああ。……おやすみ」







 ディオはこのところ忙しそうだ。
 以前はほぼ一日中を僕と一緒にいてくれたけれど、最近はどこかへ出掛けていたり、訪れるお客様の相手をしていたりでなかなか顔を合わせる機会がない。唯一僕が眠る頃になると傍に来てはくれるけれど、目覚めたら既にその姿はなくなってしまっている。お陰で僕は起床から就寝までの間はずっと独りぼっちだ。
 時折テレンスが食事やお菓子、飲み物などを持ってきてくれたりはするけれど、決して話し相手になってくれることはない。書庫へ足を延ばせばヴァニラがついてきてくれるけれど、やっぱり彼もテレンスと同じで僕と会話をしてくれるようなことはなかった。むしろ徹底的に僕の存在を無視している。彼らはディオに命じられているから僕の世話や護衛をしているに過ぎないのだ。
 寂しくないと言えば嘘になる。本当は彼らともっと仲良くなりたいし、ディオにももっと僕に会いに来て欲しい。長い時間を独りきりで過ごすのは、とてもとても哀しいことだ。
 けれどそれを訴えたところで無駄なことは分かっている。我が儘を言ってディオを困らせたい訳ではないし、テレンスやヴァニラは――他にもケニーGとか、ディオを訪ねてここへやってくる大人たちの誰であっても――きっとこれからもずっと、僕の話などまともに聞いてはくれないだろう。何となくだけれど、分かるのだ。
 それに僕はなんだか、こういった状況に慣れている気がする。以前にもこんなことがあったように思えるのだ。誰からも相手にされず、友達もおらず、ひとり孤立した時を過ごしたことが。

「…………っ」

 ずきん、と頭が眩むように痛んだ。
 最近、極稀にこうして妙な既視感に教われることがある。そういう時は決まってこんな風に頭痛がするのだ。
 風邪でもひいてしまったのかもしれない。テレンスに温かい飲み物を出して貰って、今日は早めに休もう。

 ホットミルクをちびちびと飲みながらベッドに入る。
 どこからか、深紫の茨が伸びてきて僕の身体を包み込んでいく夢を見た。





 誰かが僕の頬を撫でている。
 大きくて、優しい手だ。辛いことをいっぱい経験して、それでも前に進むことを止めない手。たくさんの人を守ってきた手。

「――……」

 ふ、と目を開ける。深いみどりいろの瞳をした、僕に似た誰かがこちらを見ているような気がした。

「ジョジョ」

 声がする。
 一度ちいさく瞬きをしたら、みどりいろの人はまるで霧が晴れるようにさっといなくなってしまった。代わりにそこにいたのは、血のようにあかい二つの眼。

「――ディオ」
「体調が優れないそうだな」
「うん……」

 僕を撫でるディオの手はいつもと変わらずに冷たい。その温度が気持ち良かった。

「ねえ、ディオ……」
「何だ」
「……僕、君に我が儘を言いたい。聞いてくれるだけでいい、叶えてくれなくたっていい……ただ、言葉にして君に伝えたいんだ」

 具合が悪いときは心が弱くなると聞いたことがあるけれど、今の僕はまさにそれだ。普段だったら絶対に言えないようなことが、ほろほろと口から零れ落ちていく。
 こんなことは、紳士としては恥ずべきことだと分かっているけれど。

「言ってみろ」

 僕に触れるディオの手つきがあまりにも優しいものだから、ついついそれに甘えてしまった。

「……もっと君と話したい。一緒に遊んで、食事をして、もっと僕の傍にいて欲しい。話し掛ければ応えてくれるところに。手を伸ばせば握り返してくれるところに」
「…………」
「ひとりは、寂しいよ……ディオ」

 僕の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ディオの両腕が僕の身体を抱き締めた。
 やっぱり、冷たい。

「ジョジョ、……ジョナサン。ジョナサン・ジョースター」
「……はい」
「私はお前にすべてを与える者だ。お前が望むものは何でもやろう。薔薇が欲しいと望むなら、この部屋が埋もれるほどにくれてやる。宝石を望むというのなら、この世で一番美しい金剛を」
「…………」
「……お前が、俺を望むと言うのなら。俺はお前を片時も離さず傍に置いてやろう。やがて訪れる『天国』の中で」
「……てんごく?」
「ああ」
「そこでなら、僕の我が儘を叶えてくれるのかい?」
「無論だ。そこには私とお前を分かつものなど何もない。私達はそこで永遠に、絢爛の時を生きるのだから」

 腕の中に収まっていても、ディオの瞳が爛々と輝いているのが分かる。抱き竦める力は少し苦しくて、このまま彼の身体に取り込まれてしまいそうだ。

「だから、その天国が完成するまでは今暫く我慢をしろ。出来るな?」
「……その『天国』には、もうすぐ行けるようになるの?」
「ああ。あと少し――あと、少しだ。それまで堪えられるな? ジョジョ」
「……うん」
「いい子だ」

 頷いた僕の額にディオの唇が降りてくる。頬を擽る金の髪が残滓を引いて、きらきらと宙を舞っていた。







「ねえ、ディオ」
「何だ?」

 いつも読書をするときのように、ディオの膝の上に座って彼の胸板にもたれかかる。寝台の縁に腰掛けて、ふたりでとりとめのない話をしていた。横になっているよりも不思議と、そうしている方が楽だった。あの頭痛もいつの間にか消えてしまったみたいだ。

「もうひとつだけ、わがまま。――天国が完成したら、僕は外の世界に出てみたい」

 一瞬、空気がぱたりと無音になった。ディオの身体が強張ったのが気配で分かる。彼は僕が彼の下を離れるような発言をすることを、何よりも嫌うのだ。
 けれど、これはそうじゃあない。彼を置いてどこかへ行きたい訳ではないのだ。

「僕はディオと一緒に、もっと色々な所へ行きたいんだ。陽の光は僕達には強すぎるけれど、今日みたいな月明かりの下ならきっと、世界も綺麗に見えるんじゃあないかな」

 陽当たりを避けて用意された部屋ではあるけれど、厚いカーテンの向こうの窓辺に滲む気配や空気から外の様子を感じることはできる。板を打ち付けて日光を塞ぐのは、ディオ自身が拒んだのだといつか寝床の中で聞いた。みっともなく太陽から逃げ回る真似をするつもりはないと。

「自分でもね、欲張りだって分かっているよ。でも本当のことだから。僕は君と、たくさんのものを見て回りたい」

 暫く沈黙が続いた。
 僕はディオに背を預けたまま空に浮かぶ月を見ている。夜半の間だけ開け放たれるカーテンが風に揺られてふわりと襞を作った。
 ディオは僕にとっての太陽ではあるけれど、その立ち振る舞いは月のようだとも思う。陽の光を跳ね除けて、夜の世界で誰よりも美しく輝いている。まわりに浮かぶ星々を食らい尽くしてしまいそうな程に。


「――それが、お前の望みか」
「ディオ、」
「お前が望むのなら、私が叶える。俺はお前にとっての太陽であり、神であり、世界だ。いずれ訪れる天国で、このDIOがお前に世のすべてを見せてやると約束しよう」
「うん。……ありがとう、ディオ」








 触れる唇が温かい。
 この日、果たされることの無い約束をした。


end.



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