春のとなりに


 竹芝の阿高が女の子を連れ帰ったという知らせに、ある者は目を丸くし、ある者はぽかんと口を開け、またある者は冗談だろうと笑い飛ばした。何しろ阿高といえば同じ二連の片割れである藤太と比べて、浮いた話の一つもないことで有名だ。どころか、彼は大半の女に対しまるで素っ気ない態度を取る。阿高がまともに接する女といえば、姉代わりの美郷の他には色目を使ってくることのない年嵩の小母ばかりで、たとえどんなに気立てが良い者も器量良しも、若い娘は皆けんもほろろな扱いだった。
 その阿高が藤太や広梨、茂里と共に旅に出たかと思ったら、なんと都から女の子を連れて戻ってきた。しかもひどく大切そうに、さも愛しいと言わんばかりの様子で寄り添っているともなれば、竹芝の女衆の衝撃の程は推して知るべしと云うものだ。彼女達の嘆きは村の垣根を越えて日下部まで届き、流した涙は川を作ったというのは藤太の兄、阿高の叔父にあたる豊高の言である。



「それでもやっぱり阿高のことだもの。鈴もなかなかどうして苦労が絶えないのじゃない?」
「未だに信じられないものね、あの阿高が所帯を持つだなんて」
「ねえ」

 きゃらきゃらと笑いながら洗濯に勤しんでいるのは、苑上が最近親しくなった竹芝の娘たちだ。苑上は彼女達よりもいくぶんぎこちない手付きで帯や着物を洗いながら、ふっと瞼に夫の姿を思い浮かべて微笑んだ。

「いいえ。確かに出逢ったばかりの頃は、なんて冷たい人なのかしらと思ったこともあったけれど……今なら阿高のことがよく分かるわ。あの人はとても優しい人よ。わたくしがどんなにばかな失敗をしでかしても笑って許してくれるもの」
「それは鈴が相手だからよ」
「そうそう。わたしたちが同じことをしたら、きっとすごいしかめっ面をするに決まっているわ」
「それどころか、最初から気にも留めてないでしょうよ」

 有り得るわ、と盛り上がる娘たちを前に、苑上は曖昧に笑うことしか出来なかった。阿高の伴侶という立場としてはそんなことはないと反論しておきたいところではあるが、何も彼女たちが悪気あって囃しているのではないことは疾うに知っている。苑上に軽口を叩いて聞かせることで、かつての恋心を昇華させているのだ。
 竹芝の娘にとって、二連がどれだけ眩い存在だったかは充分すぎるほどに承知している。それなのに自分という人間を受け入れてくれたことに対し、苑上はただただ感謝していた。

(勿論、すんなりと仲良くなれた訳ではなかったけれど)

 都から武蔵の地へとはるばるやってきたばかりの頃は、その身元の不鮮明さも手伝って、苑上への風当たりは強かった。何しろ言葉遣いのひとつ、仕草のひとつをとってもそこいらの娘とは醸し出す雰囲気が違うのだ。おまけにその箱入りぶりときたら炊事や洗濯はおろか、自身の身仕度さえもままならない始末。一体どうしてこんな子をと、疑問の念が向けられない筈がなかった。
 それでもこうして打ち解けられたのは、竹芝の人々元来の穏やかな気質と、藤太や広梨などの事情を知る者達の執り成し、そして何よりも阿高の誠実な態度があったからだ。苑上が少しでも早くこの地に馴染めるようにと、慣れないながらに方々に言葉を尽くしていた姿は今も記憶に新しい。

『おれが頭を下げて済むことなら、躊躇う必要なんてどこにもないだろう。他の誰でもない、お前のためだからな』

 そう言って微笑んだ阿高の顔を思い起こす度、苑上の胸はあたたかな気持ちで満たされるのだった。 



* * *



 洗濯を終えて家へ戻ると、ふわりと食べ物が焼ける良い匂いが苑上の鼻をくすぐった。驚いて室内を見回すと、見慣れた後ろ姿が炊事場に立っている。苑上は慌てて抱えていた洗濯籠を置くと、その背中に声を掛けた。

「阿高。帰っていたの」
「ああ、鈴。おかえり」
「ただいま帰りました……ではなくて、今日は藤太たちと山へ行くのではなかったの?」
「それが、通り道の吊橋がこの間の大雨で落ちていたんだ。迂回するとずいぶん遠くなってしまうし、橋を掛け直そうにもそれなりの準備が要る。だから今日は狩りは見送り。また日を改めて行くことになったよ」
「まあ……」

 竹芝の若衆は月に幾度か、近隣の山へ狩猟に向かうことがある。そういうときは女達は弁当を持たせて送り出し、その後はめいめいに家事をこなしたり、知り合いの家で茶を飲んだりして過ごすのだ。
 苑上の場合は、千種と共に昼食を取りながらお互いゆっくりと語り合うというのが常だった。二連の妻、という共通の立場を別にしても、元来が気丈で芯の強い性格をした苑上と千種は何かと気が合い、二人揃えば会話が途切れることは殆どなかった。

「それでは、お弁当はどうしたの?」
「ああ、それならそこに」

 阿高は傍らに置いていた包みをくい、と顎で示した。その藍染の布地は朝に苑上が持たせた弁当の包みで間違いない。

「本当はこのまま牧へ行って食おうかとも思ったんだが……どうせなら鈴と一緒に食べたくて、持って帰ってきてしまった」

 折角作って貰ったのに悪いとは思ったんだけどな、と苦笑する様に、苑上はぱちくりと目を瞬いた後、思わず口元を綻ばせた。ほんのささやかなことではあるが、一緒にいたいと思ってくれた気持ちがとても嬉しい。
 が、ふと気が付いた事実に、苑上は途端にわたわたと慌てた。阿高と昼食を取ろうにも、そもそも自分の分がまだ何もないのだ。

「ごめんなさい、わたくし今日は千種さんのところでご馳走になる約束をしていたものだから、自分の昼餉の支度が出来ていないの。すぐに何か作るから、阿高は先に食べていて。千種さんにも伝えてこないと」
「一緒がいいって言ってるのに、それじゃあ意味がないだろう。支度なら丁度出来たところだし、藤太も一旦家に戻ると言っていたから、千種にはあいつから話すだろうさ」

 両頬を押さえておろおろと狼狽える苑上の姿に、阿高は思わずくすりと笑いを零した。その手が示す先には、握り飯と菜花の浸しが載った盆がある。きょとんと目を開く苑上をそのままに、阿高は囲炉裏の傍まで移動すると、腰を下ろして盆を置いた。

「ほら、早く来い。冷めるぞ」

 囲炉裏に掛けられた鍋は静かに湯気を立てており、その周りには串に通した魚がある。どうやら先程の匂いの元はこれだったようだ。
 手招きする良人の姿にはたと我に返った苑上は、慌ててその隣に駆け寄った。

「……なんだか、これではわたくしの立場がないわ。何でも阿高にやらせてしまって、ちっとも役に立っていない」
「別に、たかだか飯の支度をした程度でそんなに気にすることはないだろう。それに、鈴が頑張っているのはおれが一番良く知っているよ」

 阿高は不意に苑上の手を掬うと、その掌を頬に当てた。じんわりと伝わる自分以外の者の温もりが、苑上の頬をさっと染める。

「冷たい」
「……だって、さっきまで洗濯をしていたのだもの」
「ほらな。こんな氷みたいに手を冷やしてまで、鈴はここでの生活を頑張ってくれている。……都にいれば、こんなことはしなくてもよかったことだった」

 竹芝に来たばかりの頃は、苑上の手はそれこそ白魚のように沁み一つないものだった。鈴鹿丸として行動していた時には小さな傷こそいくつか拵えていたものの、それも都に戻った後には完治してしまったようだった。
 けれど、今の苑上の手にはあちこちに傷がある。桜色の爪は割れ、白い指先にはささくれができ、野草を摘みに行って葉にかぶれてしまったこともあった。
 何不自由なく暮らしていけるはずだった場所から彼女を連れ去り、それまで縁の無かった苦労を掛けさせているのは他でもない阿高自身だ。後悔をしたことなどないが、それでも苑上の手が日に日に荒れていく度に、阿高の胸を苦いものが過ぎっていった。

「でも、わたくしはこれをつらいなどと思ったことは一度もないわ。むしろ嬉しいくらいなのよ。阿高も藤太も千種さんも、広梨や美郷さんにだって、みんなそれぞれに働いた証が手に残っているのに、わたくしの手にだけはなあんにもなかった。だから洗濯をしてできるあかぎれも、包丁を使ってできる切り傷も、かまどに向かったときの火傷も、みんなわたくしにとっては勲章みたいなものなのよ」
「鈴、」
「それとも、阿高は傷だらけになったわたくしの手は嫌い?」
「……いいや。前の綺麗な手も好きだったけど……今のお前の手は、もっと好きだ」

 頬に当てていた手を口許に運び、阿高はまだひやりと冷たい掌に唇を寄せる。
 少しだけかさついたその感覚に、苑上はとくんと胸を鳴らした。

「……わたくし時折、阿高は温石か火鉢を隠し持っているのではないかと考えることがあるわ」
「なんだ、それは」
「だって、どんなにわたくしの手が冷え切っていても、貴方はあっという間に熱くしてしまうのだもの」
「……ああ、確かに」

 阿高はぷっと吹き出すと、いつの間にかすっかり温まった苑上の掌をもう一度自分の頬に寄せ、やわらかに目を細めて微笑んだ。







「……けど、お前の手がこんなに傷だらけになってるのは、単に不器用な所為なのもあると思うぞ」




 その後、折角のいい雰囲気を余計な一言で台無しにした阿高は、すっかりへそを曲げてしまった妻の機嫌をとりなす為に半日近くも時間を費やしたのだった。



end.


戻る