エリゼの園で乾杯を


 ぱさ、と乾いた音と共に分厚い紙束が机の上に置かれる。たった今秘書の確認を受けたそれは、近々迫っている経営カンファレンスで使われる資料だ。

「お疲れ様。とりあえずはこれで粗方片付いたかな」
「やれやれ」

 すっかり日常の供となった眼鏡を外して目頭の辺りを軽く押す。深く息を吐く傍らで、ことりと小さな音が鳴った。

「疲労回復には甘いもの、ってね」

 目の前に用意されたのは円柱状の小振りなポットだ。つるりと滑らかな白磁の表面は濃緑色のオリーブの葉で縁取られ、中には有名洋菓子店の銘が入った焼菓子が詰まっている。次いで出されたマグに注がれているのはいつもの珈琲ではなく薄茶色をしたハーブティー。香りからして恐らくはカモミールだろう。こういう細やかな配慮を自然と出来る所が、彼を好ましく思う理由の一端だ。仕事に於いても、私生活に於いても。

「ありがとう。緑川も一緒に食べる?」
「勿論」

 片手に持った自分のマグを掲げてにっと笑ってみせる恋人に、ヒロトもつられて笑みを零した。


 吉良ヒロトとして自分が表舞台に出始めてから、かれこれどれ位になるだろうか。
 経済界の重鎮である吉良財閥は、その強大さ故にトップに立つ人間は否が応にも衆目を集めることになる。社内外を問わず、年若い青年が日本有数の大企業を率いることに疑問を抱いたり、あからさまな反感を持っていたりする者も少なくなかった。
 ましてやヒロトは吉良の実子ではなく孤児の生まれだ。金や権力目当てに星二郎に取り入ったのだと邪推する人間が後を絶たず、その傾向は世襲や年功序列の概念に囚われやすい年嵩の重役達により強く見受けられた。中にはヒロト自身の実力と並々ならぬ努力を認めてくれる者もいたが、それでも敵の数の方が圧倒的に多く、何よりそういった輩の中にはあの研崎と懇意にしていた人間もいるのだ。
 悩みに悩み抜き、信頼の置ける者だけを募って何度も審議を重ねた結果、姉の瞳子や今は遠方に居る父の力までをも借りて人生最大の博打を打つつもりで大規模な人事の異動、並びに体制の改訂を行ったのが丁度一年前のことになる。
 施行からしばらくは社内の様子も流石に荒れたが、幸運にもこの賭けは良方へ向かった。今ではそれなりに体制も整って、吉良財閥は漸く新たな一歩を踏み出そうとしているところだ。昔の誼で鬼道財閥と提携することも幾度かあり、現在も社内のとある部署では二社合同による大きなプロジェクトが動いている。

「で、有能秘書さん。この後のスケジュールは?」
「昨日も報告した通り、今夜に予定していた取引先の代表との会食は先方の都合により延期となっています。来月の新規プロジェクトに関するビジネスモデルのコンペティション資料も刷り上がってはおりますが、これは然程急を要するものではないかと」
「了解。つまり今日は久々にお前とゆっくりできるってことか」
「ま、そういうことになるかな」
「それにしても、相変わらず秘書モードと通常モードの切り替えが見事だね」
「まあ、その辺は昔取った杵柄ってことで」

 おどけるように肩を竦める緑川にふっと目元を緩めると、ヒロトは包みを破いた焼菓子をさくりと噛んだ。卵と小麦粉、それにバターの上品な甘さが口の中に広がり、身体と心にじわじわと染み入るようにして疲労感を癒していく。水分を失った口内を潤すためにハーブティーをひとくち含むと、爽やかな香りと程良い苦味がすうっと喉奥を吹き抜けた。

「で、早速だけど今夜の食事はどうしようか。前から行きたがってた料亭でも行く?」
「でもあそこは予約制だろ? 今からだと入れないよ。それよりは久々にお前の手料理が食べたいなあ」
「ぶっちゃけ立場的に顔パスでなんとかなる気がするけどね。ま、社長のご所望とあらば、腕を振るうと致しますか」
「やったっ」

 思わず歓声を上げてガッツポーズをすると、大袈裟だなあと呆れがちな吐息が柔らかに零れた。



***
 


 車を走らせて帰り着いた自宅のマンションで、緑川は早々に普段着に着替えてエプロンを付け、キッチンの前に立った。都内の一等地に建つこのマンションは緑川とヒロトの二人で住むにはたった一室でも有り余る程の広さで、しかも最上階のワンフロアをほぼ専有する形になっている。勿論一般的には考えられない程の価格だ。
自分達としてはもっと慎ましい住まいでも一向に構わないのだが、一応これも大企業の社長のメンツというやつだ。数年前、新居を決めあぐねていた二人に対し、金持ちは金持ちらしく高い買い物をしないと経済が回らないでしょ、とばっさり言ってのけたのは確か瞳子だっただろうか。
 ちなみに吉良邸については話し合いの末、その瞳子に管理を任せて現在は月に一、二度訪れるだけで暮らしてはいない。あそこはいつか星二郎が戻ってきたときの為、そのままの姿で残しておくことに決めたのだ。そもそもそれ以前に、地理的な理由から会社に通い難いという問題もあった。

 そんなことを回想しながら、緑川はワインセラーからシャブリを幾本か取り出した。それぞれグラン・クリュ、プルミエ・クリュ、それから通常のシャブリだ。
今現在、冷蔵庫の中にはオマール海老もなければエスカルゴも無く、時間的にクリームソースを使った料理を作るには少々遅い。取って置きのグラン・クリュは後日改めて味わうことにして、今日は普通のシャブリを使うとしよう。

「ヒロト、悪いけど玉葱切っておいてくれる?」
「いいよ。薄切り? それともみじん切り?」
「薄切り。南蛮漬けにするから」
「了解」

 簡単な作業はヒロトにも手伝ってもらう傍ら、緑川はチルド室に眠っていた掌サイズの豆アジを捌いて片栗粉をまぶし、鍋に張った低温の油に沈めた。パチパチと賑やかな音が鳴っている間に酢や醤油、味醂などの調味料をボウルで合わせてタレを作り、そこにからりと揚がった魚を投入してじっくり絡める。更に薄切りにされた玉葱を混ぜてラップをし、冷蔵庫の中に仕舞った。

「あとは十分くらい待てばいいから、その間にホタテの刺身と簡単なサラダでも作るか」
「それなら、俺はグラスの準備をするよ」
「ん、任せた」

 シャブリとはフランスの白ワインの一種で、果実のような甘やかな香りと辛口な味わいが特徴的だ。同じシャブリ内でも格付けが為され、最高級のグラン・クリュは魚介類を使用した濃厚なクリーム料理に良く合うと言われている。
しかしながらこのワイン、特に上から三番目程の階級であるノーマルシャブリは意外なことに日本食とも相性がいい。中でも酢をふんだんに使った料理とのコンビネーションは抜群で、緑川が今作ったような南蛮漬けの他にも、酢締めにした小鰭にホヤ、酢醤油を使った餃子などとも見事に合う。
 成人してから少しずつ嗜み始めたアルコールという存在に、始めこそヒロトも緑川も面食らいはしたものの、今では随分とその奥深さを楽しめるようになってきた。こうして酒に合う肴を考え調理することも二人のプライベートでの楽しみの一つになっている。

「シャブリを飲むなら、グラスはこれかな」

 そう言って白い食器棚の前に立つヒロトが手に取ったのは、胴が大きく膨らんで飲み口が小さい、所謂ブルゴーニュ型と呼ばれるワイングラスだった。ブルゴーニュ地方で生産されるワインは総じて酸味が強いため、こうした形状のグラスを使用することで一口毎に流れ込む量が少なくなり、程良い味わいが楽しめるのだ。勿論シャブリワインもこのブルゴーニュ地方で生み出されたものである。

「おまたせー」

 やや青みがかったレモンイエローの色をした液体を透明な器の中に注いだところで、丁度緑川が出来上がったらしい鯵の南蛮漬けを食卓へと運んできた。そのまま向かい合って席に着き、お互いグラスを持って軽く掲げる。

「それじゃあ、乾杯」
「乾杯」

 硝子同士をぶつけると、チン、と鈴が転がるような硬質的な音が響いた。まずはワインを一口、舌の上で転がすように味わってから、すぐさま箸を手に取って、その先端を鯵へと伸ばす。

「あー、やっぱ美味しいっ。合う! この海の香りとワインの味わい!」
「日本食とワインなんて組み合わせって意外といけるんだよね。一番初めに気付いた人は凄いと思う」
「ほんとほんと。俺だって少し前まではワインなんてチーズ片手にちびちび飲むものだと思ってたし」

 手と口の動きを緩めないまま、二人はしみじみと感慨に耽った。

「っていうかさ、ちょっと話ずれるけど。そもそもこうして俺とヒロトが十年以上一緒にいるってのも、意外と言えば意外だよな」
「そう? 俺は昔からお前と生涯を共にしようと思ってたけど」
「……や、ま、そりゃね。俺もそうなるといいなーくらいには考えてたけどさ。まさか秘書をすることになるとは、ってことで」
「まあ、財閥を引き継いだ頃なんかは今よりまだまだ敵が多かったからね。秘書なんてそれこそ一日中俺の傍にいることになるだろ? だから一番信頼出来る人に頼まなきゃなって考えてたら、お前の顔しか浮かんでこなかった」
「……それはどうも、ありがたいことで」

 食えない笑顔でさらりと殺し文句を吐いてくるところは、中学の頃からちっとも変わっていない。流石にいちいち喚き立てる程幼いままではないけれど、それでも照れるものは照れる。やり場のないむず痒い気持ちに包まれた緑川は、少しだけ視線を宙に泳がせた。
緩む頬を引き締めるように奥歯を噛めば、口の中に残っていた玉葱がしゃり、と音を立てる。咄嗟に誤魔化すようにして含んだワインの味は、酸味が強い筈なのになぜだか妙に甘く感じた。



「今の俺達の状況とか、昔の仲間の皆が知ったら何て言うのかな」
「それは勿論、相性ばっちりだって言うに決まってるよ。このワインと料理みたいにね」





end.



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