憧陽



 僕の一日は、ディオの腕の中から始まる。
 シミ一つないシーツの海の上で、ディオの逞しい腕を枕に眠っていた僕は髪を梳く大きな掌の感触で目を覚ます。するりと指を潜り込ませ、癖毛の具合を確かめるようにゆるゆると撫でる手つきはとても優しくてくすぐったい。むずがるように声を上げて瞼を開くと、ディオの真っ赤な瞳がまっすぐに僕を見つめている。そうして彼は微笑むのだ、「おはようジョジョ」と言いながら。
 ディオは綺麗だ。男の人にこんな言葉を使うのはおかしいかもしれないけれど、他に上手い表現が見つからないのだから仕方がない。長い睫毛も白い肌も、赤い目も唇も、きらきらと光る金の髪も。ディオを作る部品のひとつひとつがとても綺麗なのだ。
 以前そう告げたとき、ディオはほんの一瞬だけ驚いたように目を見開いて(これはとても珍しいことだ)、それはお前の方だと月のように笑った。彼の言う冗談は時々皮肉や揶揄を伴うので頂けない。頬を膨らましてそう抗議したらディオはふっと息を吐き、冗談でも何でもない、と僕の鼻梁にキスをした。お前のこの髪も目も鼻も唇も、頭の天辺から爪の先まで余すところなく美しい。お前のすべてを愛しているよと、何よりも美しいその顔で囁くのだ。その度に僕は嬉しいような恥ずかしいような、それでいてどこか切ないような何とも言えない気分になる。きっとディオの僕を見る目が暑いところに置きっぱなしにしたキャンディーみたいに、どろどろに蕩けているせいだ。


 僕の食事はテレンスが用意してくれる。テレンスはディオの部下の一人で、ディオの館の執事をしている人だ。食事以外にも色々と身の回りの世話をしてくれるので、僕はとても助かっている。いつの日だったか、せめてもの感謝の気持ちとして何か彼の手伝いをしようと申し出たのだけれど、いりませんという一言で斬って捨てられた。食い下がる余地を一切与えない完全な拒絶だった。どうしたものかと一人で考えた結果、ディオに相談をしてみることにした。ディオはとても頭が良いので、きっとよい知恵を貸してくれるだろうと思ったのだ。
 けれどディオは、僕の頬を包み込みながらこう言った。

『お前の世話を焼くことはあいつの仕事だ。いちいち気にする必要など無い』

 それならば仕事の対価としてでいいから、何か僕から感謝を伝えたい。そう言ってみたものの、「それは奴の主である私が決めることだ」と断じられてしまって返す言葉がなかった。僕はただ、いつもありがとうという気持ちを伝えたいだけなのに。
 黙り込んだ僕の頭を、ディオは諭すようにやさしく撫でた。

『生き物にはそれぞれ役割がある。テレンスの役目は私に仕えることであり、お前の世話を焼くこともまたあいつの役目だ。お前が不自由なく過ごすことこそ、あいつにとっての礼となるだろうよ』

 まだ完全に納得はいかなかったが、そういうものなのかも知れないなと思うことにした。ディオの言うことは確かに一理あったし、下手なことをしてテレンスが叱られるような事態に陥ってもいけない。
 それよりも、ディオの言葉でひとつ気になることがあった。

 生きとし生けるものすべてに役割があると言うのなら、僕の役割は何だろう?

 そう訊ねてみたら、ディオは今まで僕が知りうる中でいっとう綺麗な顔で微笑んだ。

「お前の役割はただひとつ。このDIOと永遠に共にあることだ、ジョナサン・ジョースター」



 ディオはとても読書家だ。
 テレンスの他にこの館にいる部下の人たち――ヴァニラ・アイスとケニーGと言うらしい。らしい、なんて曖昧な物言いになるのは本人から直接名乗られた訳ではないからだ。名前はディオから教えて貰った。アイスはどうしてか僕のことを嫌っているみたいでいつも怖い顔で睨んでくるし、ケニーGはおばけか何かを見るような目で僕のことを遠巻きにする。当然ながら二人とも、僕と口をきいてくれたことなど一度もなかった――と話していたり、時折訪れるその他の部下の報告を聞いている時以外は大抵書斎に籠もっている。どんな本を読んでいるのか少し見せて貰ったけれど、どれもむつかしい内容ばかりで僕にはさっぱり分からなかった。英語の他にもフランス語やイタリア語、ドイツ語、ラテン語、更には遥か東の国の言葉で書かれた本もあって、まるで見知らぬ宇宙を覗き見ている気分になった。ディオはこれを全部難なく読んでしまうのだ。

「これはどこの国の言葉なの? 何だかとても角張った複雑な文字と、丸みを帯びた文字とが混ざり合っているよ」
「ああ、それは日本語だ。角張った文字は漢字、丸いものは平仮名と言う」
「ニッポン、」
「漢字はもとは中国から伝わったもので、そこから新たに平仮名を生み出したらしい。他にも片仮名という文字体系もあるぞ」
「へえ……」

 文字だけで三種類もあるだなんて、ニッポンゴはすごいなあ。きっとその時代、その国の文化が多種多様な文字を生み出す礎になったんだろう。そんな回想に耽り、遠い昔の歴史に思いを馳せることが僕は好きだった。ディオの持つ思想や科学、数学などの山のような蔵書の中で、唯一歴史に関する本だけは面白いと感じられた。
 ディオがソファーに腰掛けて、僕はその膝の上に座って、燭台の灯りで読書をするのが専らの日課だ。喉が渇いた時はテレンスが飲み物を持ってきてくれる。僕には紅茶で、ディオにはグラスに入った赤い液体。恐らくワインの一種だと思うけれど、普通のものよりもかなり赤味が強い。気になって一口飲ませて欲しいと頼んだことがあったけれど、お前にはまだ早い、と止められた。

「ほんのちょっぴり舐めるだけでも駄目かい? ちょっぴりだよ」
「駄目だ。今はまだ、な」
「今は……ってことは、いつかは飲んでもいいってこと?」
「ああ。じきに飲めるようになるさ。……嫌という程な」

 燭台の灯りに照らされたディオの目は、グラスの中で波打つワインと同じくらいに真っ赤だった。
 そういえば僕は、このワイン以外にディオが何かを口にしている所を見たことがない。





「相変わらずお前は遺跡やら発掘やらに興味があるのか」

 どこがいいのだ、あんなもの。
 馬鹿にするというよりは心底理解が出来ないといった風に呟くディオに、僕は手に掬った泡をふうっと吹きかけた。目に入るのを避けようと、綺麗な顔が咄嗟に歪む。悪戯を咎めるように頬を抓られ、僕はひゃめて、と情けない声を出しながら笑った。
 ディオの手はとても大きいけれど、その動きは驚く程丁寧で繊細だ。特に今みたいに僕の髪を洗ってくれる時などは、うっかりうたた寝をしてしまうくらいに優しくって気持ちいい。

「昔のことを勉強するのって、とっても面白いんだよ。ええと、何ていうんだっけ……コーク、コーギー……」
「考古学」
「そう! 考古学。ディオも折角いい本があるのだからもっと読めばいいのに」
「あれはお前が興味を示すから蒐集しただけだ。私はカビの生えた書物や苔むした墓についてああだこうだと議論する趣味はない」

 やれやれと首を振るディオの髪の先から雫が零れ、広いバスタブの中にぽちゃんと音を立てて飲み込まれる。
 ざぱりとお湯が掛けられて、泡が洗い流されていくのをぎゅっと目を閉じて耐えると、僕はくるりと身体を反転させてディオと向かい合った。濡れた金髪が色の濃度を増し、白い額に貼り付いている様はやっぱり綺麗だ。

「遺跡や骨董品そのものが気になる訳ではないよ。そこに暮らしていた人、それを使っていた人がどんなことを考えて、どんな日々を送っていたのかが気になるんだ。ディオはそんな風に思ったことはない? ずっと昔に死んだ人が、何を考えていたのかなあって」

 僕の言葉に、ディオは少しだけ口元を歪めて左の首筋に手を当てた。何度もそこを撫でるように動かして、いびつなままの笑みを作る。

「……そうだな。確かに、私にも覚えがある」

 ディオが執拗に触れるそこには痣がある。僕とおんなじ星形の痣だ。
 一体この痣は何を示すのか、以前ディオに訊いてみたら、彼はこれを「絆だ」と言った。僕とディオを繋ぐ絆なのだと。それ以上のことは分からない。その話を口にする度、ディオが僕をぎゅうぎゅうに抱き締めてくるので訊くに訊けなくなってしまうのだ。まるで何かから僕を包み込んで隠してしまうみたいに。

「ねえディオ。いつか何百年と時が流れて、君も僕も死んでしまったら、このバスタブも宝物みたいに博物館に飾られることになったりしてね。それで当時はどんな人がこれを使っていたのかなんて、髭を生やしたエラい学者が毎日のように考えるんだ」

 そうやって茶化すようにおどけてみせたら、ディオは難しい顔をふっと緩めて僕の肩を引き寄せた。バスタブのお湯が波立って、辺りにふわりと入浴剤の香りが飛ぶ。ディオの肌は、お風呂の中であっても尚ひんやりと冷たい。

「生憎だが、そんな日は永遠に来ないだろうな」
「どうして?」
「俺とお前が死ぬことなど有り得んからだ」

 ジョジョ、と。
 泡がぱちんと弾けるように、ディオの唇が僕に触れる。






「おやすみ、ディオ」
「ああ、おやすみ」

 食事をして、本を読んで、お風呂に入って。後はディオとお喋りをしたり、テレンスが用意してくれたゲームをしたり。そうやって一日を過ごしてから、僕はディオと一緒に眠りに就く。正確に言えば、僕が眠るまでディオが傍に居てくれる。きっと僕が寝てしまってからも、ディオには色々とすることがあるのだろう。それらのことを終えてから、僕が目を覚ます前に寝台に戻ってくる。逞しい腕を枕にして、僕を抱きかかえるようにして。僕の頭をずうっと撫で続けているのだ。
 僕の一日はディオの腕の中から始まり、ディオの腕の中で終わる。
 
「ディオ」
「なんだ? 眠れないのか」
「ううん。ただ、気になることがあって」

 閉じていた目をすうっと開いて、僕を見詰めるディオの瞳の奥をひたと見据えた。闇の中でも爛々と輝く、何よりも強い紅色の双眸。

「ねえ、ディオ。太陽ってどんなものなのかな」

 そう言った瞬間、髪を梳く動きがぴたりと止まった。

「……何故そんなことを訊く?」
「ニッポンについて少し調べてみたんだ。日の本の国、という意味なんだって。日の本……、太陽……。エジプトの古代文明やマヤ・アステカの本にも出てきた。太陽は人々の信仰の対象だったって」
「……ああ、そうだな」

 僕は太陽を知らない。
 存在としては聞いたことがある。地平線から昇り、水平線へと降りていくもの。世界に光を授けてくれる生命の源。けれど僕とディオにとっては、太陽はこの身を焼き尽くす最大の凶器だ。
 僕とディオは重度の日光アレルギーなのだと教えられた。太陽の光を浴びてしまうとたちまち呼吸が出来なくなり、肌を焼かれて死んでしまうのだと。だから館の中を歩くときも、間違っても日の当たる部屋には入らないようにときつく言い聞かされていた。大抵は夜に起きて朝に眠りに就くのだから、日光なんて殆ど目にすることもなかったのだけれど。

「太陽の光は生命の光。生き物はみんな、太陽がなくては生きていけないんだって」
「普通はな。だが我々は違う。私とお前はそんなものが無くとも生きていける」

 だからお前を太陽の下になぞ行かせはしない、と。
 ディオはぎゅうっと僕を抱き締める。僕の動きを全て封じてしまうように。

「うん、分かってる。僕が言いたいのはね、僕にとっての太陽はディオなんだろうなあってことだよ」
「……何?」

 ディオは信じられないものを見たような顔をした。ここまで驚いた表情は初めてだ。赤い瞳の部分がまん丸になっている。いつもは不敵に笑っている口もちょっとだけ開けたまま茫然として、とっても間の抜けた様子だ。僕がこんな顔をしたら絶対にからかわれているだろう。あんまりおかしいものだから、思わずぷっと吹き出してしまった。

「だってね、ディオ。太陽がなければ普通の人は生きてはいけないんだろう。すべての動植物は太陽の恩恵を受けている。……僕の場合、それはディオだ。僕はディオからたくさんのものを貰って生きている。きっと君がいなくなったら、僕は死んでしまうもの」

 ディオは僕だけの太陽だ。

 そう言い終わるか終わらないかのうちに、ディオは再び僕を抱き締めた。先刻のような強い抱擁ではなく、こわれものを集めて掻き抱くように弱々しく。星の痣に口づけるように、僕の肩に顔を埋めて。

「ディオ……?」
「もう眠れ、ジョナサン」


 ディオがそう言った途端、僕は突然鉛のような眠気に襲われた。あっと言う間に瞼が下がり、意識が深淵へと沈んでいく。

「でぃ、お……」


 夜明けの近い薄闇の中、金色の輝きが残照のように踊っていた。







「それはお前だよ、ジョジョ」

 くうくうと寝息を立てるジョナサンの前髪をそっと払い、滑らかな額に唇を落とす。

「……近くにあっては苛烈な光でこの身を焦がし、遠くにあっては届かぬ星となって心を焦がす」

 その目映さを、その熱を。どれほどまでに憎み、嫌い、そして求めたことだろう。どれほどの間、泥の中から見上げ続けたことだろう。


「お前こそが、俺の」


 ディオ・ブランドーという男にとって、ジョナサン・ジョースターは正しく太陽だったのだ。



end.



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