イルカの星



 暦の上では春が間近に迫ってはいるが、肌に感じる気温は未だ刺すように冷たい。どこかで暖を取ろうかとも考えたが、別段耐えきれない程のものではないと判断して承太郎はそのままそこに立っていた。どうせ待ち合わせの相手は直にやってくる筈だ。
 その読みの通り、それからいくらも経たないうちに背後からお待たせ、という声が掛けられる。落ち着いた理知的な声音はそれ一つだけで発した本人の性格を窺わせた。
 何処へともなく彷徨わせていた視線を声の方向へ送ると、特徴的な長めの前髪の向こうで穏やかに笑う花京院の姿がある。その片腕には何故か白無地の紙袋がひとつ抱えられていた。



* * *



「済まないね、少し遅れた」
「いや、お前は時間通りだ。俺が早く着いただけだ。じじいの野郎、勝手に人の時計いじりやがって」
「ジョースターさんが? どうかしたのかい」

 歩きながら重低音で語られる内容に、花京院は耳を傾ける。ジョセフ・ジョースターは明るい口調でどんな話も面白おかしく聴かせる巧みな話術を持っていたが、孫の承太郎はそれと対照的だ。静かに浸透する水のような語り口は言葉数こそ少ないものの、聴衆の心を否応無しに惹きつける不思議な魅力があった。引力、と表現する方がより近いかも知れない。

「この間テレビでやっていた、五分前行動がどうのとかいう教育番組にえらく興味を持ってな。家中の時計を五分進めやがったんだ。勿論皮肉のつもりでな」

 日本人は何でもかんでもせっかちすぎるんじゃ、と小馬鹿にしている様子が目に浮かぶ。大切な一人娘を嫁に取られて以来数十年、あの老人は大の日本嫌いを主張し続けているらしい。その割にウォークマンは好きだと言うし、日本食も好んで食べていると聞いたことがあるが。

「それで君の時計も進められて、待ち合わせよりも早く着いてしまったと」
「そういうことだ」

 初めのうちは気付かなかったが、集合場所と定めた駅前広場の時計を見たところ、自分のそれよりもきっかり五分遅れていた。怪訝に思って近くの家電店の店先にあったテレビの時刻を確認してみても、やはり五分遅れている。そうなればどちらが間違っているのかは明白だ。

「前々から思っていたけれど、ジョースターさんは本当に面白い人だね。英国人の印象が変わったよ」
「それは本場の英国紳士とやらに失礼ってモンだろう。あのじじいはイレギュラーもいいとこだ。第一人生の大半はアメリカで暮らしていたらしいしな」
「ふうん。……ところで承太郎、君結構甘いもの好きだよね」
「いきなり何だ。唐突だな」
「とりあえず先に確認させてくれ。ひょっとして違っていたかな」
「別に嫌いじゃあないが」

 承太郎の言う「嫌ではない」や「悪くはない」が「好き」と同義であることは既に花京院も知っている。旅の最中にココナッツジュースやらアイスクリームやらを口にする姿を見ていたので、単に今の質問は彼の嗜好よりも予想通りの反応が来るかどうかを確かめたかったに過ぎなかった。

「それじゃあ次の質問だ。白餡と黒餡ならどっちが好みだい?」
「……たい焼きか」

 傍らに抱えていた紙袋からがさごそと取り出されたのは、柔らかな湯気を立てるたい焼きだった。きんと冷えた鼻腔の奥に、ふわりと甘い香りが広がる。

「僕の予想では、君は85%の確率で黒餡を選ぶね」
「どっから出した数値だ、そりゃ」
「勘」
「やれやれだぜ。鋭い嗅覚をお持ちのようだ」

 黒をくれ、と微かに口角を上げて手を差し出した承太郎に、花京院はやっぱりね、と微笑みながら黒餡の入ったたい焼きを渡し、自分はもう一方の白餡にぱくりとかぶりついた。もちもちとした弾力ある生地の食感と餡の甘味が一噛み毎に口内で踊り、かじかむ寒さを吹き飛ばしていくようだ。
 しばらく互いに無言のままもくもくと口を動かしていたが、不意に傍らにある学ランを纏った広い肩が小刻みに揺れていることに気付き、花京院は目を瞬かせた。微かにではあるが笑い声も聞こえてくる。

「承太郎?」

 どうかしたのか、と訊ねる前に、深い翠のかかった瞳がこちらを向いた。イギリスと日本、それからイタリアの血も少し入っているという彼の目は同性ながら見惚れてしまう程に美しい色をしていて、ああこれはご婦人方が騒ぎ立てたり息を飲んだりする理由もよく分かるなあ、と花京院は今更ながらもしみじみと思う。思い返せばあの旅路の最中にも承太郎は実に多くの女性に言い寄られていて、その度にポルナレフが羨ましいだの不公平だのと嘆いていたものだった。

「野郎が二人してたい焼きを食ってるってのも中々シュールなもんだと思ってな」
「はは、確かに」

 承太郎はこの容姿に加えて周囲よりも頭ひとつ分以上抜きん出た長身であるし、自身も日本人にしてはそれなりの高身長だ。そんな目立つ二人連れがもそもそと甘味を頬張っている姿というのは、成程確かに何とも言えない面白さがある。

「君は何かと人目を引くから、店側にとってはいい宣伝になるんじゃあないか。きっとそこいらの女性はこの後こぞってたい焼き屋に直行するよ」
「俺は広告塔か」
「モデルもシチュエーションも文句無しのいいCMだ」

 故意に揶揄うような口調でおどけてみせたが、実際のところそれはすぐに事実になるだろうという確信があった。先程から道行く女性がちらちらとこちらを盗み見ていくのを気が付かない二人ではない。サブリミナルとは少し違うかも知れないが、何らかの宣伝効果はあるだろう。

「まあ冗談はこの辺にしておくとして、この店のたい焼きは美味しいだろう? 近所でも評判らしくてね、君にも是非食べて貰おうと思ってわざわざ並んで買ってきたのさ」
「そりゃあどうも。それで待ち合わせに遅れていたら世話ないがな」
「さっきは時間通りだと聞いた気がしたけれど?」
「俺の時計基準だと五分遅刻だ」
「それはずるいよ」

 下らない掛け合いをしている内に目的の場所へと到着した。駅から少し離れたショッピングモールの中にはこの間新しく映画館がオープンし、親子連れや学生の喧騒が連日絶えることなく響いている。それは今日も例外ではなく、カウンターの前には沢山の人が列を成していた。

「チケットと飲み物調達とどっちがいい?」
「どっちも御免だと言いたいとこだな」
「悪いが僕の身体は一つしかないんでね。君にも協力して貰わないと」
「分かってる。……何が飲みたい」
「メロンソーダ」

 了解、と呟くと承太郎はすたすたと飲食物の販売レジへと向かって行ってしまった。彼が迷わずあちらを選択したのは、恐らくチケットカウンターと違い店員が男だったからだろう。自分達が建物内に入った瞬間に何処からともなく上がった黄色いざわめきに、承太郎が酷く鬱陶しそうに眉を顰めたのを花京院は見逃さなかった。

(そんなに騒がれるのが嫌なら、わざわざ外出をしなければいいのに。……とは言え)

 割引券を持っているから、よかったら映画でも観に行かないかと持ちかけたのはこちらの方だ。断られるだろうと駄目元の上での誘いだったが、意外なことに承太郎は至極あっさりと頷いた。

『本当に行ってくれるのかい? 君が?』
『……やっぱり止めるか』
『ああすまない、まさかOKが貰えるとは思わなかったものだから。てっきり君は誰かと連れ立って外出するのは嫌いな方かと』
『相手によるだろう、そんなもん』

 あの時の少し拗ねたような――余程近しい者しか気が付かないような、本当に微かなものだったが――表情は中々にレアリティが高かった。可能ならば保存してジョセフに見せたいところだったが、生憎とそんな手段は持ち合わせていなかったし、あったとしてもその場合は恐らくスタープラチナのラッシュの餌食になっていたことだろう。

「お次の方どうぞー」
「あ、学生二枚お願いします」

 思考に耽っているうちに自分の順番がやってきていた。代金を支払ってチケットを受け取り、列を抜けると端の方で承太郎が二人分の飲み物を持ちながら壁に寄りかかっている。どうやら彼はコーラを注文したらしい。

「ビールじゃなくてよかったのかい?」
「学割が効かなくなる」
「そこなんだ」

 相変わらず独特の感性で動いている。そんな彼の生き方が心地良く感じられるのは、やはり自分も同じように変わり者だからなのだろうか。

「席は後ろの方にしたけど、構わないだろう?」
「ああ。前の列に座ると後ろの奴が見えねーだの何だのとやかましいからな」

 飲み物とチケットを手にシアターの中へ入っていく。二メートル近い承太郎の体躯には、入り口の扉はかなり窮屈そうだった。ぶつかるかと思った、と軽口を叩けば、んなベタな真似をするかとすかさず反論が返った。
 着席して外套を脱ぎ、メロンソーダを一口啜ってから入り口で手に取ったパンフレットに視線を落とす。自身のスタンドとよく似た緑色の炭酸水が口内で弾け、ぴりりとした刺激を与えてきた。喉を滑る甘さを感じながら、チェリーが入っていないのをひどく残念に思う。普通メロンソーダといえばチェリーが付くのが定番じゃあないのか。いや、それはクリームソーダだったか。どちらにしろ物足りないことには変わりない。

「何ぶすくれてやがる。詰まらなさそうなのか、この映画」
「ああ、いや。ちょっと考え事をしていてね」

 確かにパンフレットを見ながら不機嫌になっていたら誤解されても仕方がない。誤魔化すように笑みを浮かべ、もう一度改めて視線を落とした。

「全米ナンバーワンの超大作アクション、か。一応前評判は悪くはないみたいだけれど、どうだろうね」
「この手の映画は公開するたびにナンバーワンだの何だのと唱ってやがるからな。信頼性は低いぜ」
「違いない」

 もう一口メロンソーダを飲み下すと、やがて室内がふうっと暗くなり、画面に様々なCMが流れ始めた。間もなく上映が開始されるだろう。

「そういえば、映画を見終わった後の予定を決めていなかったな」
「テキトーに飯でも食いにいけばいいだろう」
「無銭飲食はお断りだよ?」
「残念だったな、道連れだ」

 どこまでが冗談でどこまでが本気なのか。何事も同じ調子で話す承太郎の言葉は判断がつけ辛く、それ故に面白い。

「君といると飽きないなあ」
「どういう意味だ」

 CMや諸注意の映像が終わり、いよいよ映画本編が始まろうとしている。
 生まれて初めて出来た「気の置けない友人」と、次は何をして過ごそうか。花京院はこみ上げる楽しさを堪えることなく顔に浮かべ、承太郎にひどく怪訝な顔をされた。



* * *



 戦いを終えて日本に戻った後、承太郎は「普通の学生生活」を送ることに専念していた。
 相変わらず気に食わない相手には教師だろうと従ったりなどしないし、行く先々で喧嘩をふっかけられたりしているので所謂不良のレッテルは未だに貼り付けられたままだが、以前よりも登校する回数が増えた。反比例して早退する回数は減り、ほんの少しだけ口数も増した。
 そして何より、友人が出来た。
 それまでが常に一匹狼だった承太郎が誰かと、それもかなり親しげにしている様子に初めは誰もが瞠目していたが、最近は漸く周囲も慣れてきたようだ。
 纏う雰囲気が幾分か柔らかくなったことで、今がチャンスかとこぞって告白をしてくる女たちや、以前伸したことのある連中が妙な逆恨みを抱いて花京院に絡むこともだいぶ減ってきた。後者については真相を知らないとは言えあの戦いをくぐり抜けた人間に喧嘩を売り、あまつさえ自分を脅す材料にしようなどとあまりにも無謀な企みを抱いたことにいっそ感心すら覚えたが、そういう輩は今では花京院が傍を通る度、悉く居住まいを正して挨拶をしてくるようになっている。一体何をしやがったんだと訊ねてみたが、意味深に微笑まれただけだった。そこまで興味のある話題でもなかったので、それ以降は特に質問はしていない。どうせろくでもない内容なのだろう。意外と根に持つタイプであることは疾うに知っている。

「何にせよ、以前より退屈しねーことは確かだな」
「何か言ったかい?」
「別に」

 眼前のスクリーンで繰り広げられている派手なアクションを右に左に流しながら、承太郎は帽子の鍔を少し下げた。
 うっとおしいとばかり思っていた「世間一般の高校生」らしい日々というものも、そう悪くはないものだ。そんなことを考えながら。






end.




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