あまえんぼうかいくん



 背後から伸ばされたふたつの腕が腰回りで交差し、そのままきゅう、と抱き締められる。
 項に沈められた鼻先がもぞもぞと動き、やがて最適な場所を見つけたのかぴたりと止まった。その代わり、今度はやわい温度を持った唇が小さく音を立てながら触れてくる。何度も、何度も。


「……櫂くん、くすぐったいよ」
「……ん」

 いや、ん、じゃなくて。
 そう言ってはみるものの、またしても「ん」と一文字で返されるだけで抗議は全く意味をなさなかった。

「櫂くん、あつい……」
「ん、」
「勉強、しないの?」
「ん」
「……僕の話、聞いてる?」
「んー……」

 あ、だめだこれ。返事がどんどんおざなりになってる。
 はあ、と溜め息をひとつつくと、キッと顔を引き締めて下ろした視線の先――胸が邪魔でよく見えないけど――にある手を取り、その甲をぎゅう、と抓り上げた。相変わらず指が綺麗でかつ長い。

「っ……」
「だめだよ、櫂くん」

 拘束が緩んだ隙を突き、すかさず身体を離して後ろを振り返ると、案の定そこには突然の反撃に不服そうに細められたふたつの翠の眼があった。

「……アイチ」
「そんな顔しても駄目。約束したじゃない」
「…………」
「か、櫂くんとこういうことするのは嫌じゃないけど。お泊まりのときは、やらなくちゃいけないことはきちんと先に済ませようって決めたんだから、ね?」
「…………わかった」

 渋々諦めてはくれたようだけれど、その表情はクリア寸前でゲームを取り上げられた子供そのもの。不機嫌オーラを隠しもせず、むっすりと顔を顰めている。
 ああ、彼をよく知る人達がこの様子を見たらどんな反応をすることだろう。カムイくんなんて驚きの余りひっくり返っちゃうんじゃなかろうか。三和くんは硬直した後でぎこちなーく苦笑い、ミサキさんは気味の悪いものでも見たように目を逸らすに違いない。
 頬を膨らませていないところがせめてもの救いだろうか。

「……アイチ」
「な、なに?」
「ちょっとだけ」
「ふえっ!? ん、んむっ」

 言うが早いががしっと両肩を掴まれて、抗う暇もなくくちづけられる。
 舌を入れられるとそのまま流されてしまうことは予想がつくので(それぐらい櫂くんはキスが上手い。いつもとろとろのメロメロにされてしまうのだ)咄嗟に歯を食いしばって侵入を防いだけれど、その代わり上下の唇をはむはむと食まれたり舐められたり歯列を舌先でなぞられたりとかなり好き放題されてしまった。お陰で呼吸が苦しい。
 ちょっとどころかたっぷりと堪能されてしまい、はぁはぁと呼吸を整えている僕をおいてきぼりに、櫂くんはさっさと筆記用具やテキストを準備し、勉強中や読書中にだけ使用するという眼鏡を装着してしまった。

「いつまで呆けている、アイチ。始めるぞ」
「えぇー……」


 その無駄な切り替えの早さはどうなんだろう。さっきまで思いっきり拗ねてたくせに。



* * *



 櫂くんとお付き合いをするようになって少し経ったけれど、その間に判明した驚くべき事実に僕はいっつも振り回されっぱなしだ。
 彼はなんと、とんでもない甘えん坊だったのだ。とにかく隙があれば髪を撫でたり抱き締めたりキスをしたりエトセトラエトセトラ、まるでこどものように僕にひっついて片時も傍を離れようとしない。普段の鉄面皮が嘘のように表情も豊かになって――それでも一般水準からしたら乏しいほうだけれど――、心なしか口調も幼くなっている気がする。
 けれどそんな櫂くんが見られるのはあくまで二人きりのとき。それも彼の家に来ているときなど、他人が完全に存在しないような場合でだけ。だからこんな櫂くんを知ってるのは、今現在は恐らく僕一人だろう。幼なじみである三和くんや、付き合いの長いレンさん、テツさんなんかも知らないんじゃないかなあ。……レンさんはあれでわりと鋭い人だから、気付いてて言わないだけなのかもしれないけど。それでも実際に目にしたことはたぶん無いんじゃないかな。そうでなきゃ絶対ネタにしてるから。
 他の人の前ではツンツン、二人きりになるとデレデレ。うん、正しいよ櫂くん。実に正統派な、真の意味でのツンデレだ。


「アイチ。手が止まっている」
「へっ? あ、」
「その公式の使い方はさっき教えただろう。後は計算ミスさえ無ければ解ける。たとえ自信がなくても思考を止めるな」
「は、はい」

 現在、僕等はきちんと片されたリビングでガラステーブルを挟んで向かい合い、シャーペンを手に課題とファイトの真っ最中だ。
 僕は数学があまり得意ではないので、課題を出された場合は大抵櫂くんに教えて貰いながら片付けることが多い。言葉数が少ない分、必要最低限のことだけを簡潔に解説してくれるのでとても分かり易いのだ。
 そんな櫂くんは時折僕の方に視線を寄越しながら、自身の課題である英文の和訳をすらすらと進めている。たまにペンを置いて英和辞書に手を伸ばし、ペラペラとページを捲っては何かの単語にラインを引いたり。櫂くんは電子辞書より紙派なんだなあ。
 もとは御家族のものだったのか、辞書は随分と使い込まれているみたいだ。けれどそんなに傷んでいるようには見えないから、きっと大切に使っているんだろう。焦茶色の革表紙に金で印字されたタイトルが格好良い。
 普段は何も着けていない翠の目は、今は薄い縁なしの眼鏡に覆われていて、一見すると凄く生真面目で落ち着いた人に見える。……いや。これだと語弊があるなあ。まるで櫂くんが普段は不真面目で落ち着きのない人みたいじゃないか。櫂くんは至って冷静沈着な人だ。ヴァンガードファイトに熱中しすぎたり、僕と二人きりになってスイッチが入ったりしなければ。
 そう、二人のときはそりゃあもうキャラ崩壊ってレベルじゃない甘えん坊さんな櫂くんだけど、じゃあ普段の厳しさが綺麗さっぱりどこかに消えてしまったのかと言えばそんなことはない。一度スイッチを切り替えれば忽ちいつもの彼に戻ってしまう。
 だからこそ、そのギャップには正直今も戸惑いを覚えることは多いのだけど。


 最後の一問を解き終えて、ふう、と小さく息を吐いた。散らばった消しゴムの滓を一カ所に集めると、ティッシュにくるんでゴミ箱に捨てる。櫂くんはふうっと息を吹きかけてから眼鏡拭きでレンズを拭い、紺色のケースに仕舞っていた。

「はー、終わった……」
「前よりは解くスピードが上がっているようだが、まだまだだな。問題文の読解の時点で時間が掛かりすぎだ」
「で、でもとりあえず全部解けただけでも良しってことじゃ駄目かな……?」
「駄目だな」
「あう……」
「実際の試験では時間配分も重要な戦略だ。数学の文章題など必要項目さえ把握していれば全文読む必要は無いだろう。お前はもう少し要領のいいやり方を身に付けろ」
「……はい」

 返す言葉もない。
 確かに、もう少し早く解けるようにしないとこれじゃあ時間が足りないかも。同じタイミングで始めた筈なのに、櫂くんは僕よりも二十分は先に自分の課題を終えていたし。内容や量が全く違うから比較するのはおかしいかもしれないけど、そもそも櫂くんの課題量の方が僕よりも多かったし、合間合間に何度も解説してもらっていたんだし。ファイトだけじゃなく勉強も出来るだなんて、やっぱり櫂くんはすごい。

 そんなことを考えながら広げたテキストやノートを片付け、筆記用具をペンケースへとしまっていると、不意に右肩にぐっと重みが掛かった。いつの間にか背後に移動した櫂くんが顎を乗せてきたのだ。そのまま両手が僕のそれを覆うように被せられて、これははっきり言って……邪魔である。

「あの、櫂くん。これじゃ片付けられないんだけど」
「後でいい」
「でも、」
「することを済ませたら触っていい、と言ったのはお前だ」
「確かにそうだけどそんな言い方じゃあなかったよね?」
「しらない」

 櫂くんはそこで会話を打ち切ると、すりすりと僕の項に顔を擦り寄せてきた。ああ、これは完全にスイッチ入っちゃってる。
 
(仕方ないなあ……。ちょっとだけ甘えさせてあげよう)

 自分よりも二回りくらい大きな彼の掌の下に埋もれていた手を片方だけ抜き出して、肩に乗っかったままの薄鳶色の頭を撫でた。一見硬そうに見えて意外と柔らかみのある髪の感触がくすぐったい。なんだかおっきな犬とじゃれている気分だ。

 と、呑気に思っていたのだけど。

「…………アイチ」
「っひゃ?!」

 ぬるりと生温かい感触が首筋を伝った。それと同時にがっちりと胴に腕を回され、反射的に逃げようとした身体をきつく抑え込まれる。

「か、かいく、」
「なんだ」
「そ、それ、だめだよう……っ」
「なんで」

 なんで。なんでって、そんなの。

「こんな、明るいうちから……っ」

 時刻は午後に入ったとは言え、外ではまだまだ太陽が頑張っている。平日ならちょうどワイドショーを流している時間帯だ。
 それなのに櫂くんはそんなこと全くお構いなしで、手をするすると僕の服の中に侵入させていく。人差し指の腹でおへそのあたりをつうっと一撫でされ、思わずびくりと肩を揺らした。

「ひぁっ!」
「アイチ」
「んあっ、かいく、」
「……だめか?」
「…………っ」

 櫂くんは、ずるい。
 そんな、こんなときばっかり縋るような眼差しで、わざと淋しそうな声を出して。普段はデレを忘れたツンツンのくせして、どうしてそういう捨て犬みたいな目をするの。

 僕が逆らえないって知ってるくせに、ずるい。
 
 鋭いようで意外と大きな翠の目にじいっと見詰められては、出来ることといったら捕らえられた手を解いてきゅっと繋ぎ直すことくらいだった。

「い、いたくしないで……ね」
「当然だ」

 お預けを解除されたわんこは、早速とばかりに僕の身体を抱きかかえて寝室へと向かった。
 ああ、まだテーブルの上を片付け終わっていないのに。



* * *



 寝室のドアを潜った途端、薄鳶の毛並みをした大きなわんこは狼へと豹変する。

 舐められたり噛まれたり、あと口に出せないような色んなことをされた僕は未だに熱の残る身体をベッドに預けてゆるく息をついていた。櫂くんはそんな僕に抱き枕よろしくしがみついてきて胸元に顔を埋めている。時折戯れのように唇を落としたり頂を吸ったりして、僕が堪らずに声を上げるのを楽しんでいるみたいだ。

「や……ん、かいくん……だめ、」
「なにが?」
「も、むりだよ……。きぜつしちゃう……」

 散々求められた所為で僕の体力は殆ど底をついている。これ以上は本当に意識を保てなくなりそうだ。
 けれど、そんな訴えに櫂くんは分かっている、と全く悪びれる様子もなく首肯した。

「最後まではしない。ただこうしているだけだ」

 そう言って胸をやわやわと揉み込んだり先端を指先で擦ったり舌を這わせたり、或いは太腿の付け根すれすれ部分をいやらしく撫でてきたり。その度に僕はびくんびくんと身体を震わせる羽目になり、櫂くんはそれを見て愉しそうに笑うんだ。
 たとえその気が無くたって、そんな風に触られたら反応しちゃうに決まってるじゃないか。

「……櫂くんの、すけべ……」
「それが?」
「う……、いっつも、えっちなことばっかりして……っ」
「許可は取った」
「もうちょっと加減してくれたって……」
「痛くしない、という言い付けも守った」

 だからいいだろとばかりに鼻を鳴らし、今度は耳朶に歯を立てられる。そう言う問題じゃない。
 このまま流されるのがどうにも癪で、なんとか反撃を試みようと少し身を起こす。薄鳶色の簾の向こうの双翠が長い睫を伴いながらこちらをつい、と見上げてきた。

「か、櫂くんがそうやって胸ばっかりいじるから、僕大変なんだからね」
「ふうん……例えば?」
「おつきあいする前と比べて、どんどんおっきくなってるんだから……服はきついし、肩も凝るし」
「俺は大きい方がいい」
「ぶ、ブラって高いんだよ! こんなしょっちゅう買い換えてたら、僕のお小遣いなくなっちゃうよっ」

 理由が理由だから、申し訳なくてここ暫くは下着代は自腹を切るようにしている。お陰でカードも碌に買えやしない。
 真っ赤になりながらそう言ったら、櫂くんは少し考え込んだ後、あのファイト中によく見せる悪ーい顔でにやりと口角を上げた。

「なら俺が買ってやる」
「ふぇっ?」
「俺が、買ってやる」

 言い含めるように殊更ゆっくりと復唱された。聞き間違いでも幻聴でもない台詞に一瞬時を忘れ、それからすぐにかあっと身体が熱くなる。

「じょ、じょじょ冗談じゃないよ! どうして櫂くんが」
「だが、俺の所為なんだろう?」

 さっきそう言われたような気がしたが。
 紡がれる声はものすごく楽しそうで、それでいてどこか本気の色も見え隠れしているから手に負えない。

「俺が原因だというなら、責任は取るべきだろう。お前は金銭的負担が減り、俺はこれまで通りに楽しめる。更には自分好みのを買い与えることが出来て一石二鳥どころか三鳥だ」
「いやおかしいよ?! そういうことじゃないから! 絶対ないから!」

 それは何て言う罰ゲームなの。もしそんなことになったら恥ずかしいやら居たたまれないやらで僕はきっと死んでしまう。

「どうしてそんなに嫌がるんだ。いずれは遅かれ早かれそうなるのに」
「そ、そうなるって……」
「結婚したら家計は共有するべきだろう」
「けっ」

 ここここん、と調子のおかしい狐みたいな声を上げる僕に、櫂くんははじめは訝しそうにしていたけれど、やがてどんどん険しい顔になり、眉間の皺が深くなってしまった。もうなんていうか凶相だ。小さい子が見たら絶対泣く。ある程度慣れている筈の僕も思わずひっ、と息を飲んでしまった。

「……まさか、その気は無いとでも言うのか」
「え、な、何が」
「結婚」
「いや、あの。無いとかじゃないんだけど……」

 そりゃあ僕だってずっと櫂くんのことが好きだったんだし、こうして甘えられるのも何だかんだで実はすごく嬉しいし、できることならこれからだって一緒にいたい、けど。

「流石に学生のうちは、まだそんな話題は早いんじゃないかなあ……」
「早いも遅いもないだろう。要は気の持ちようだ。俺はこのままお前と一生を添い遂げたいと思っている。……お前もそうだろう」

 真剣な面持ちでそう言われ、どくんと心臓が高鳴った。やっぱり櫂くんは格好良い。これで胸を揉んだままでなければもっと格好良いのに、誠に遺憾です。


「……ぼ、くは」

 ちら、と一瞬だけ視線を逸らしてからもう一度向き直る。二つの翠は少しも揺らぐことのないままじいっとこちらを見つめていた。
 そのあまりの直向きさに、少しだけ僕の中の悪戯心が芽吹いてしまう。


「……もし、僕が櫂くん以外の人と結婚することになったら、どうするの?」

 そんなつもりは更々無いのに、我ながら意地の悪い質問だとは思う。けれどここまで好きにさせてあげたからには、少しくらい意趣返しをしたってバチは当たらないのではないだろうか。
 櫂くんはそんな僕の言葉にぱちくりと目を瞬かせて、それからすぐに盛大に顔を顰めた。そりゃあもう、物凄く。

「いやだ」
「もしもの話だよ。もしそうなったら、」
「させない」
「え?」
「そんなことはさせない。お前の相手は俺だけだ」
「……櫂くん」
「絶対に、させない。そうなる前に相手の男を一切の痕跡も残さずにこの世から消し去ってやる」
「物騒だよ!」

 目が本気だから笑い飛ばせない。というか櫂くんなら実行できてしまいそうなところが怖い。
 全くもう、と溜め息をつくと、打って変わって今度は切なさ全開の眼差しで僕の頬にそうっと触れてきた。

「…………アイチは、嫌か?」
「――――っ」

 うう。
 確信犯だって分かっているのに、どうしてもこの目には逆らえない。元々逆らうつもりもないのだけれど、些細な抵抗の気力すらも奪われてしまう。
 結局のところ、僕はいつも櫂くんにはしてやられっぱなしなのだ。

「……僕も、櫂くんとおんなじ気持ちだよ」
「同じって、どう同じなんだ」
「――っだから、その……けっこんしたい……よ」

 言うが早いか、櫂くんは痛いくらいの力でぎゅうっと僕に抱きついてきて、それだけで何もかもを許してしまう。
 人一倍甘えん坊でワガママで傍若無人でずる賢くて、誰より可愛い、僕の恋人。







「アイチ」
「ん?」
「言質も取ったことだし、もう一度するぞ」
「は!? ちょっと、どうしてそうなるの!!?」
「一回分くらいの体力はもう回復しただろう。するったらする」
「だめったらだめ! 今日は本当に無理っ」
「…………駄目か?」
「――――っ」



 ……ほらね。やっぱり人一倍だ。


end.


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