勇者さまLv1




 はるか昔、世界が暗黒に覆われていた時代。
 伝説の勇者ブラスター・ブレードは禍の根源たる魔を打ち払い、聖なる光でこの世の全てを照らし出した。
 勇者の活躍によって人々は平穏な暮らしを取り戻し、世界には悠久の安寧が訪れた、かに思えた。

 それから数え切れない程の年月が流れた頃。
 突如として現れた悪の化身「竜王」がその鋭い爪と牙を以て世を乱し、灼熱の炎を以て逆らう者を焼き尽くし、そして恐ろしいまでの知略を以て数多の魔物を従えて、世界を統べる王として名乗りを上げた。
 このままでは遠からず、世は竜王のものになってしまう。
 人々は竜王配下の魔物達の猛攻になす術もなく、生き残った者はただただ伝説の勇者の再来を願った。




* * *




「と、まあ現状とか設定とかの説明はこんな感じなんですが」
「はあ」
「冗談抜きで、このままでは世界は竜王のものになってしまいます」
「はい」
「先だっては西の街がひとつ滅ぼされ、勇者の遺物が盗まれてしまいました」
「へえ」
「でもってわが城も魔物の襲撃に遭い、なんと王女がかどわかされてしまったのです」
「それ一大事じゃないですか! なんでそんな淡々としてるんですか」
「ええそうです一大事です。流行り病で亡くなった私の兄夫婦、つまり先王とその王妃の忘れ形見であり可愛い姪っ子であるミサキ姫にもしものことがあっては私、おめおめと生きることなど出来ません。正直今すぐにでも死にたいです。死にたいけど死んだらミサキを助け出すこともできないんですよおおお!!!」
「すみません僕が悪かったのでちょっと落ち着いて下さい陛下」
「コホン。ま、そういう訳でアイチくん――君には是非とも、竜王討伐の旅に出て頂きたいのです」

「……………………はい?」


 豪奢な紅毛の絨毯が敷き詰められた謁見の間で、アイチは非常に間の抜けた声を上げた。
 今、この男は何と言ったのか。
 頭の中でとは言え、仮にも国王を「この男」呼ばわりしてしまう程には混乱していた。
 だって自分は剣術の鍛錬もしていなければ魔法の修行も積んでいない、極々平凡な一市民だ。家族と共に小さな道具屋を経営していて、薬草摘みやその調合に精を出す日々を送る、戦いとはほぼ無縁な一般人。決して未来の騎士でも何でもない。
 それが、ある15歳を迎えたの朝の日に国王から呼び出されたかと思ったらこれである。

「無理です、無理! 僕にはそんなのできません!!」
「まあそう言わずに。こちらでも出来る限りの支援はしますから。君、一応勇者の子孫でしょう?」
「それは何百年も前の話です! 今じゃうちの家系は皆、平凡な暮らしを営むだけの町人なんです! 別の方を当たって下さいっ」

 確かにアイチの母方の一族は、伝説の勇者ブラスター・ブレードの血を引いている。が、それだけだ。
 元々がそういう性質だったのか、一族に代々生まれるのは女ばかり。皆取り立てて武芸や魔術の才に秀でている訳でもなく、更には揃いも揃っておっとりとした気質の者ばかりだったので、勇者の子孫は大して繁栄することもなく、今やアイチとアイチの母、そして妹にその血が流れるのみとなっていた。
 下手をしたらブラスター・ブレード以来初の男子かもしれないアイチの生誕の際はそれなりに騒ぎにもなったそうだが、蓋を開けてみれば女と見紛うような華奢な体躯と性格の持ち主だったため、その喧騒もあっという間に冷めてしまったという。

「僕が旅に出たところでスライム一匹に全滅させられるのがオチです! とてもじゃないけど竜王を倒すなんて不可能ですー!!」
「大丈夫、信じる者は救われます。きっと君の身体に流れる勇者の血がなんとかしてくれますって。勇者パワーとかで」
「適当にも程がありますよ!」

 アイチの必死の懇願も、この一見野暮ったいようで実はかなりの食わせ者と噂の国王にとってはどこ吹く風。どうあっても首を縦に振らないアイチに、終いには眼鏡をきらりと怪しく光らせてこんなことを宣ったのだった。

「引き受けてくれないと言うのなら仕方がありません。女性には酷なこととは思いますが、君の代わりに母君か妹君を頼らせて頂くことにしましょう」
「はぁ!?」

 ぎょっとして目を剥くが、王の表情は真剣そのものだった。アイチをやりこめる為の嘘なのかどうか、その様子からはいまいち判断がつけられない。と言うか、この王ならやりかねない。

「現在、君以外に勇者の血を引いていらっしゃるのはそのお二方だけですし。出来ることなら(多分)男子である(っぽい)アイチ君にお願いしたかったんですが……なに、古今東西、勇名を馳せた女戦士や魔術師も沢山居ます。お二人のどちらか、或いは両名共にきっとやり遂げて下さることでしょう」
「括弧付きで何か余計なことを仰っていませんか」
「オホン。とにかく、今日はご足労さまでした。もう帰って頂いて結構ですので。ついでにお母さんと妹さんに今の話を伝えて下さいね。シン国王が至急お呼びですと」
「ちょっと待って下さい!お母さんやエミを旅に出すなんて、そんな……!」

 死地へと向かうかも知れない過酷な旅に、むざむざと母や妹を出してやれる訳がない。泡を食ったように反論すると、だあってー、と何ともむかつく調子で王が言った。

「アイチ君は、行きたくないんでしょう?」
「…………っ」

 にこにこと笑う様が憎らしい。
 その双眸に目潰し草を擦り込んでやりたいという衝動を必死に抑え込みながら、アイチはぐっと拳を握った。

 太古の生物が封じられた大理石の柱に大ぶりの宝石が嵌め込まれた玉座、周囲に並び立つ象牙のように無表情な近衛兵。そのどれもがアイチにとっては馴染みがなく、どれもアイチの味方になりはしなかった。




* * *




「出来る限りの支援って……銅の剣と50ゴールドで一体何をすればいいの……」

 王の使者から恭しく差し出されたそれを手に、アイチはがっくりと項垂れた。
 あの後、国王からの懇願と言う名の脅迫に仕方なしに頷いた途端、突然近衛兵たちがどこからともなく取り出したトランペットで高らかにファンファーレを奏で、ぱぱぱぱん、とクラッカーが部屋中に鳴り響いた。そしてそれと同時に城中の人間が押し掛けて「いってらっしゃいませ勇者様!」と万歳三唱をしてきたのだった。
 呆気に取られている間に「勇者様はすぐにでも御自宅に戻って支度を整えて下さいねー」と笑顔の王が指を鳴らし、その音を合図に現れた屈強な男達がアイチを輿に入れて担ぎ上げた。そのままハイスピードで帰路に就いている間にも王の手によって“伝説の勇者の子孫が竜王討伐の旅に出る”との噂が街中にばらまかれ、今や人々の間ではその話題で持ちきりだ。
 あまりの状況に何がなんだか分からないアイチが家の前で降ろされた途端、入れ違いに王からの支援品を持った使者が現れ、件の剣と資金を渡された次第である。正直、嵌められたとしか言い様がない。

「けど、僕が行かないとお母さんやエミが……」

 自分の所為で家族に火の粉が降りかかることだけは何としても避けたい。二人の名を引き合いに出されたことは綺麗に伏せて事の次第を説明すると、母はあらあらまあまあと目を丸くし、妹は案の定そんなの駄目よ! と強く反対した。

『けど国王様の命令だから……、もう決まっちゃったことなんだ』
『駄目! だってアイチは私がいないと碌に薬草を煎じることすら出来ないじゃない! 朝だって一人で起きられないし、ごはんだって作れないし、何より逆立ちしたってスライム一匹倒せっこないわ!』
『うん、その通りなんだけど何だろうこの虚しさ』

 泣きながら反論し、しまいには自分もついて行くと言い出した妹を宥めながら、母はいつもの穏やかな目をほんの少し曇らせながらゆっくりとアイチに問い掛けた。

『どうしても、行かなければならないの?』
『……うん』
『……分かったわ。王様の御命令だものね。お母さん達も出来る限りは協力します。けれど決して無理はしないで、危なくなったらすぐに引き返しなさい。何事も自分の身を最優先に考えて』
『……ありがとう、お母さん』

 手を取って優しく笑う母に何とか微笑み返し、アイチは暗鬱とした思いのままのろのろと旅の支度を始めた。治療用の薬草や毒消し草をなるべくかさばらないように鞄に詰めていく。ああ実家が道具屋で良かった、この辺の出費が節約できた。アイチは半ば現実逃避のようにそう思った。一応代金を支払おうとはしたのだが、そんなものはいらないと母に断られたので有り難く厚意に甘えることにしたのだ。申し訳なくはあったのだが、こればかりは自分の命に直結する問題なので仕方がない。

「う……っ」

 一通り詰め終わった鞄を試しに背負うと、ずしんと両肩に掛かる圧力に思わず足がふらついてしまった。予想はしていたがやはりかなりの重量だ。これに加えて武器や防具の重さもあるのだ。そんな状態で魔物に遭遇したところで、到底倒せるとは思えない。それどころか逃げ出すのもやっとなのではなかろうか。
 逃走を試みてはまわりこまれる様子が容易く想像でき、アイチはひどく泣きたい気分になった。八回逃げ出したら全ての攻撃が会心の一撃になったりはしないものだろうか。しかしそもそも八逃げに耐えるだけの体力もないから、仮にそうなったとしても意味はなさそうだ。

「とにかく、武器屋さんに行こう……」

 この町の武器屋は防具屋も兼業している。王が寄越した銅の剣だけでなく、身を守るための防具も持たないと到底旅など出来ないだろう。
 萎えるどころかぽっきりと折れそうなそうな心を叱咤しながら、アイチは重い足取りで武器屋へ向かった。



* * *



「そ、装備できない!?」
「ああ」

 街の人々のいってらっしゃいませコールの波に揉まれながらようやっと辿り着いた武器屋の前で、アイチが告げられたのは驚愕の事実だった。

「そ、そんな、この剣は国王様から賜ったもので」
「そうは言ってもねえ。……ウィンドウ見てみな」


 そうび ―――――――
| ニア どうのつるぎ  |
|  そうびできない  |
 ――――――――――


「ほ、本当だ……」

 かくん、と膝から力が抜け、アイチはへなへなとその場にへたり込んでしまった。剣が装備できなくて、この先どう戦っていけと言うのだろう。というか仮にも勇者としていいのかこれは。
 その場でふざけんなあああと剣を投げ捨てたい衝動に駆られたが、脳裏を掠める母と妹の姿にぐっと堪える。それに剣が悪い訳ではないし、王だってまさかアイチが装備出来ないとは思いもよらなかったのだろう。そうやって必死で理性をかき集め、昂る感情を鎮めていった。

「……あの、他に僕が使えそうなもの、何かありませんか」
「そうだなあ、銅の剣がだめだってんなら……こんなのはどうだい。聖なる水で清めたナイフさ」

 渡されたのはきらりと白銀に光る小振りのナイフだった。柄の部分に青く透ける宝玉が嵌め込まれていて、大きさ的にも重量的にもアイチの掌に丁度良い。


 そうび ―――――――
| ニア せいなるナイフ |
|   5 → 17  |
 ――――――――――


「あ、ありがとうございます! これならなんとかいけそうです」
「そうかい、そりゃあよかった。200ゴールドだよ」
「…………え?」

 にひゃくごおるど。
 喜んだのもつかの間、アイチは再び凍りついた。
 今現在、王から授かった金額が50ゴールド。最早無用の長物となった銅の剣を売り払って75ゴールド。他に手持ちの品を売り払ったとして、薬草が売価8ゴールド×2=16ゴールド、毒消し草6ゴールド。
 その合計額は、しめて147ゴールド。

「………………」

 蒼白になったアイチを見て、武器屋の店主がおや、と眉を首を傾げた。

「勇者様、ひょっとして金が足りないのかい?」
「……はい」
「なんだなんだ、それなら早く言ってくれよ! 他ならぬ勇者様の為なんだ、多少は融通きかせるさ」
「ほ、本当ですか!」

 がっはっはと大口を開けて笑う気のいい店主に、アイチも強張っていた顔をほっと緩めた。まさか武器無しで旅立つのかと一瞬目の前が暗くなったが、どうやら何とかなりそうだ。

「大まけにまけて150ゴールドだ! どうだい、これはちょっと他の店には出来ない価格だよ」

 前言撤回。
 アイチは三度凍りつき、暗く長ぁーい溜め息をついた。

「……あの、そのナイフの他に、僕が装備出来そうなものってありますか……」
「ん? ああ、あるにはあるが……ひょっとして、これでもまだ足りない?」
「…………」

 無言のままこっくりと頷くと、店主は途端にそれまでの明るい表情を引っ込め、すまなさそうに眉を下げた。

「悪いなあ勇者様、これ以上の値下げは流石に……こっちも商売だからよう」
「いえ、謝るのはこっちの方です! すみません、色々気遣って頂いたのに」

 恰幅の良い中年男性がしょんぼりと肩を落とす様子に、此方のが申し訳なくなってしまう。
 本当は泣き出したい気持ちでいっぱいだったが、店主の顔を立てるためにわざと明るく笑ってかぶりを振った。この人は何も悪くない。諸悪の根元は別にいる。

「取り敢えず、このお金で買える範囲の武器と防具を見立てて下さい。……僕が装備できそうなもので」



* * *



 店主に揃えて貰った装備を身に纏い、旅の道具を詰め込んだ鞄を背負って、アイチはいよいよ出発の時を迎えた。
 
「アイチ、絶対に無理しちゃ駄目だからね! 絶対、絶対だからねっ」
「うん、分かってる。気をつけるね。心配してくれてありがとう、エミ」
「疲れたらすぐに戻っていらっしゃい。私達に手伝えることがあれば何でも言うのよ」
「お母さん……ありがとう」

 未だ目尻を赤くしてしゃくりあげる妹の頭を優しく撫で、母の抱擁を受け止める。
 街の入り口にある門の前にあるのはアイチとその家族、そして少し離れた所で番をしている兵士だけ。世界の命運を請け負う勇者の旅立ちにしてはあまりにお粗末と思われるかも知れないが、本当は大々的なセレモニーが開かれる予定だったのをアイチが土下座せんばかりの勢いで断った為、見送りは家族のみとなったのだ。これ以上大事にされるのも嫌だし、母や妹が大衆の前に晒されるのも嫌だし、何よりそんなことをして竜王やその配下の魔物達の耳に自分の存在が入ってはたまったものではない。もう少し危機管理能力と言うものを上げるべきではないだろうか、この国。
 傑物と噂の国王だけど、実は単に人を陥れるのが上手いだけではないだろうか。むしろ欠物ではないか。
 王への不満を列挙するとキリがないので、アイチはひとつ大きく息をついて心を落ち着かせた。頭の中だけならまだしも、うっかり口にしてしまっては色々と面倒なことになる。

「それじゃお母さん、エミ。……行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」
「怪我したらすぐに戻ってくるのよ! わたしが治してあげるから!」
「うん、ありがとう。エミも気をつけてね。お母さんをお願い」
「アイチィ……」

 再び目を潤ませた妹と少し淋しそうに微笑む母に手を振って、アイチはゆっくりと門を潜った。


 外は幸いにして晴れており、今のところ魔物の影もない。

「これから、どうしようかな……」

 竜王を倒す旅とは言え、アイチは自分にそれが達成できるとは露ほどにも思っていなかった。それでも行くと決めたのは、やはり母や妹のことが心配だからだ。
 自分の身代わりに苦労を強いることは勿論嫌だし、このまま竜王による世界征服が成されて二人に危害が及ぶのも嫌だ。それならば何も行動しないよりは、少しでも出来ることをしよう。竜王討伐は他の腕の立つ戦士が遂げてくれると信じて、僕は怪我をしている人を助けたり、比較的弱めの魔物退治――最弱のスライムにも勝てる気はしないけれど――を頑張ろう。せめてそのくらいは勇者の血を引く者としての責務だ。
 そう自分に言い聞かせながら、決して軽くない足取りで一歩一歩を進んでいった。


「とりあえず、しばらくはお金を貯めることに専念して、装備が充実したら北西にある街を目指してみようかな……」


 前途多難な旅は、まだ始まったばかりである。





 ―――――――――
|ゆうしゃ アイチ |
|         |
|レベル  : 1  |
|しょじきん: 37G|
|ちから  : 5  |
|みのまもり: 7  |
|すばやさ : 12 |
|かしこさ : 20 |
|HP   : 11 |
|MP   : 3  |
|こうげき力: 17 |
|しゅび力 : 18 |
|         |
|そうび      |
|E ひのきのぼう |
|E たびびとのふく|
|E おなべのふた |
 ―――――――――










 所変わって。

 とある城の玉座にて、ひとりの男が部下からの報告を気怠そうに聞いていた。
 髪は癖のついた薄い鳶色、双眸は強い光を宿した翠。光の加減によっては紅玉随の如く煌めいた。陶器のように真白い肌、長身でやや細身の体躯だが痩せぎすという風ではなく、程良く筋肉が付いている。削り出されたばかりの鉱物を思い起こさせる、美しくも鋭い容貌。

 だが、何よりも印象的なのは――――その場の全てを食い尽くそうかという程の存在感。

 魔法の知識がある者ならば、それが男が持っている尋常ならざる魔力の波動によるものだと言うことがすぐに分かるだろう。その気になれば指先だけで何もかもを消し飛ばしてしまえそうな、身の毛もよだつ魔の力。

「――それで、人間達の街に送り込んだ間諜の言によりますと、あの伝説の勇者の血を引く者が、恐れ多くも陛下打倒の為に旅立ったとのことで」
「…………」
「非力な人間に何も出来よう筈もありませんが、万一と思いお伝えに参った次第です」
「…………で?」
「はっ?」
「それだけか、と訊いている」
「は、はい」
「分かった。下がれ」

 一瞥をくれることもなく、抑揚のない声音で告げられた命に報告主であった魔物は何か不手際があったろうかと内心慌てながらも即座に従った。このままここでぐずぐずしていては塵も残さず焼き払われる。彼の君は愚鈍さを何よりの罪としていた。
 伝令が謁見の間を去ったのち、男は小さく息を吐いた。軽く首を捻ってからずるりと玉座に身を沈め、長い脚を組み上げる。
 ふと、右肩に留まっていた琥珀竜の“暁”が何かを察知したようにきゅるる、と鳴いた。それに呼応するように、どこからともなく明るい男の声が響く。

「あーあ、可哀想に。あのリザードソルジャー、文字通り尻尾巻いて行っちまったぜ」
「…………」
「お前はもう少し労いとかいたわりの気持ちってのを学べっつーの。それと愛想もな」
「…………三和」
「はいはいなんでしょーね櫂。――いや」

 陰翳の中から滲み出るように姿を現した金髪の男――三和は、此方を睨むように見下ろす翠に対してその口元を不敵に歪めた。

「竜王様って、呼んだ方がよろしいですか?」

 そう。
 この不機嫌そうに顔を顰めている、櫂と呼ばれた男こそが、今まさに世界を手中に収めんとしている人類の敵『竜王』だった。
 その櫂は三和の台詞に益々眉間の皺を深くし、きゅるきゅる鳴いてじゃれつく暁の喉を指先であやすように撫でる。身に纏った濃茜色のマントが燭台の灯をひらりと反射した。

「止めろ。気色悪いことこの上ない」
「あーそーですか。ま、俺もお前に敬意払うとか気持ち悪くてやってらんねえけどな」
「仮にも軍を率いる将の言葉とは思えないな」
「お互い様だ」

 三和との付き合いは櫂が王の座に就くより以前からのことだ。部下の前では流石に弁えるものの、二人だけか或いは気心の知れた者しか傍にいない時はこうして軽口を叩き合うのが常だった。

「つーかさ、流石に少しは注意しておいた方がいいんじゃねえの? 勇者ブラスター・ブレードっつったら、俺等の間でも未だに語り継がれてる位だし。勿論にっくき敵としてだけど」
「興味ない」
「お前なあ……」
「そもそも世界征服とかいうこと自体、俺は気が乗らないんだ。どうしてわざわざそんな面倒なことをする。人間が栄えようが滅びようが別に関係ないだろう」
「そこはだってホラ、魔族の悲願ってやつだろ? 我が物顔してる人間を蹴散らして、魔族中心の世界を作るっていうのは」
「心底どうでもいい。だいたい大多数の奴らはただ人間を倒せばどうにかなるとでも思っているんだろう。政とはそんなに簡単なものではない。力による支配など長続きするものか」
「いや、うん、すごく正論なんだけどな。ぶっちゃけお前がやりたくないってだけだろう」
「さっきからそう言っている」

 櫂はそれきり言葉を切り、肩の上の子竜を視線で促して離れさせた。きゅるう、と鳴いてはたはたと飛び去り、部屋の片隅の籠に収まった暁の姿を認めると、そのまま脚を組み直して背もたれに寄りかかり目を閉じる。どうやら昼寝をするつもりらしい――玉座で。

「おいおいおいおい流石にそれはねーんじゃねーの」
「煩い。……邪魔をするな」

 瞬間、辺りの空気が爆ぜる勢いで熱を纏い、宙に浮かぶ塵が火の粉となってぱちぱちと舞い踊り始めた。櫂の足元から伸びる影がぶるりと震え、人型から巨大な翼を持った生物の姿を形作る。竜の本性を覗かせるその眼は、翠から禍々しい紅に変わっていた。
 その場に居るだけで消し飛びそうな重圧の中、三和はそれでも怯まずに口を開く。

「いーや、続けさして貰うぞ。今回はちゃんと確認しておきたいことがあるんでね」

 お前一度寝たらなかなか起きねえんだもん。
 そう苦笑する三和を、櫂はちらりと見遣ってから小さく嘆息した。途端にしゅるりと影が縮み、噴火寸前の火口のようだった空気も元の平穏を取り戻す。

「……何だ」
「お姫様はどーすんだ、って話」
「は?」
「は、じゃなくて。お前この間攫ってきただろ、人間の国の姫様をよ。銀髪に青っぽい目で、かなりの美人さん」
「ああ、そう言えば。居たなそんなの」
「そんなのって、まさかお前――忘れてた? 今の今まで」
「忘れてた」
「あのなあ……」
「元々攫うつもりなど欠片もなかったんだ。お前や他の奴らが少しは竜王らしくしろと煩いから、悪役らしく要人の誘拐をしてやっただけで」
「それはそれは、どーもわざわざありがとうゴザイマス陛下」

 本当に、魔族を束ねる王としてこのやる気のなさはどうなんだろうか。その力は確かに比類なきものではあるが、はっきり言ってそれだけだ。世の覇王たらんとする気概も何もあったものではない。

「それじゃあ、あのお姫様については特に何もするつもりはないと? 脅す訳でも殺す訳でも、ましてや娶る訳でもなく?」
「脅すとか一々面倒くさい。殺す価値があるとも思えない。何より俺はあんな気の強そうな奴よりも控えめで大人しい女が好みだ」
「……あー、そう」

 何だかどっと疲れてしまって、三和は大きく息を吐いた。無意識に緊張していたらしく、肩や首筋が少々張っている。軽く凝りを解しながら、ほっと安堵に胸を押さえた。これならばきっと今まで通り――――


「……そういうことだから、三和。今まで通り、姫の相手を務めていいぞ」
「――――ッ!!?」


 びくん、と身体が飛び跳ねた。
 不意を突かれたその言葉に、心臓がばくばくと高鳴っている。ぎごちなく視線を送った先では、悪の王に相応しい顔で笑う旧知の友の姿があった。

「随分と執心しているようだな。身の回りの世話から話し相手、果ては幽閉している洞窟内の牢をわざわざ改築してやるとは。お前はああいうのが好みだったか」
「ちょ、えっ、何でそれ知って……!」
「竜王の力を舐めるなよ。任意の相手の様子を探ることなど造作もない」

 徐に櫂が右手を翳すと、掌上の空間がゆらりと揺らめき、薄い鏡のようなものが生成される。その表面には紫銀の髪に春空の瞳をした美しい女性の姿が映し出されていた。
 女性は少女と大人のちょうど中間のような年頃で、伏し目がちな顔で長椅子に腰掛け、手中の本を読みふけっている。身に纏う薄紫の上品なドレスと頭上に頂く白銀のティアラ、そして胸元に着けた王家の証から、彼女が人間の中でも特に高貴な身分――――即ち一国の王女であることが窺えた。

「この本もお前が贈ったのか? 他にも三度の食事は勿論、果物に菓子に服に花束……虜囚の扱いとは思えないな」
「い、いつから……っていうかどこまで!? どこまで見てたの!!?」
「そんなに頻繁に見ている訳ではないが。そうだな、確か昨日の夜中、お前が姫の――ミサキと言ったか。その手を取って『俺が絶対に悪いようにはしない。帰してあげるのは難しいけど、他に出来ることなら何でもする。なるべく顔も出すようにするから、ミサキちゃんはここで俺を信じて待っててくれないか』とか告げてそのまま」
「わー! わー!! わーッ!!!」

 ばばばば、と三和の手で掻き消すように払われて、姫の様子を映し出していた鏡が霧散する。ぜえぜえと顔を赤くして荒い息をつく友人の姿に、櫂は喉の奥でくつくつと笑った。

「安心しろ、咎めたりはしない。なんなら正式にくれてやってもいいぞ。王から賜ったということならば、人間の姫の元に魔族の将軍格たるお前が足繁く通っていても不思議ではないだろう。これまでのように衆目を気にする必要もなくなる」
「いや、あの、結構ですから、うん。そんじゃ暫くはあの子をどうこうしようってつもりはないってことでいいんでございますですね?」
「汗がひどいぞ三和。まあそうだな、帰すのは確かに難しいが危害を加えるつもりもない。間違っても俺が手を出すこともないから、気にせず逢瀬を続けていろ」
「いいえ滅相もないとんでもない! それでは急用を思い出したので失礼しますっ!」

 来たときとは正反対の慌ただしさで、三和は再び陰翳の中へと消えていった。少々揶揄い過ぎたかもしれないが、これで暫くは此処を訪れることもないだろう。後は人払いをしておけば暫くは誰もここには来ない筈だ。櫂は再び玉座に凭れてゆるりと双眸を閉じる。そのまま眠りの底に堕ちていくかに思われた、が。


「…………」


 少しだけ――――そう、少しだけ気になった。
 伝説の勇者の子孫。自分を倒すために旅立ったというそいつは一体どんな奴なのか。
 勇者ブラスター・ブレードと言えば、先刻三和が話していた通り魔族の中でもその名は広く知れ渡っている。無論人間の語る英雄譚などではなく、憎悪と怨嗟の対象としてだ。

 ――ブラスター・ブレードとその血族に永劫の呪いあれ!――

 魔族でもとりわけ人間嫌いな奴等の中には、勇者の一族は自分達の呪いによって優秀な後継者に恵まれなかったのだと信じている者もいる。
 その呪いを打ち破り、勇者の末裔として名乗りを上げた人物に、少しだけ興味が湧いた。

「……見てみるか」

 ふ、と片手を宙に翳し、櫂は両の瞳を閉じて強く念じた。すると突然、何もなかった空間ににばちばちと魔力の火花が散り、小さな黒いひび割れが生じ始める。念を込める程に割れ目は広がり、やがそこからゆっくりと何かが突き出てきた。

「勇者の一族……その血に纏わるもの」

 ある程度まで出て来たところでがしりと掴み、力を入れて一気に引き抜く。
 櫂の手の内に姿を現したそれは、白銀に輝く一振りの剣だった。

「普段は異空間に封印してある、勇者ブラスター・ブレードが使っていた剣……この剣に残る波動を辿れば、その先にいる今代の勇者を視ることが出来る」

 かつて世界を照らしたという伝説の剣は、既に竜王の手に落ちていたのだった。
 その柄に触れた途端、まるで拒絶するように刀身が眩く輝き始め、浄化の結界が邪魔をしてきたが、並の魔物ならばともかく櫂にとっては薄皮一枚の障壁にもなりはしない。
 白銀の剣は忽ち竜王の発する漆黒の魔力に覆い尽くされ、やがて先刻と同じように空中に薄い鏡が形成され始めた。

「他愛もないな」

 にやりと口元を吊り上げ、朧気に映し出されてきた勇者の姿をじっと眺めた。靄を通したように朧気だった映像がだんだんと晴れ渡り、より詳細な様子が見えてくる。

「…………ん?」

 ふと、櫂は片眉を上げた。
 鏡に映し出された人物の姿は、伝承の中のブラスター・ブレードと同じく肩にかかる程の長さの蒼髪。体型はかなり小柄のようで、子供と言っても差し支えない。多少の旅支度はしているようだが鎧や盾、兜などの装備も着けてはおらず、とてもではないが竜王討伐に向かう出で立ちとは思えなかった。

「対象を間違えたか……? いや、そんな筈はない」

 見れば見る程、その姿はちょっと遠出をしようとしているだけのただの子供だ。鮮明になっていく映像に対し、比例して疑念が強まっていく。
 やがてその人物の表情を捉えたとき――――


 櫂の呼吸が、止まった。


 髪と揃いの色をした吊り目がちの大きな双眸、ふんわりと丸みを帯びた頬、小さな口元はどこか頼りなさそうに結ばれている。
 武器代わりと思われる木の棒を縋るように抱え、おどおどと不安に震える小動物のような様子は少女と見間違える程で。

 なんだ、これは。
 そんな馬鹿な、と幾度も目を瞬かせるがやはり眼前の映像に狂いはない。
 信じられない心地のまま、櫂は呆然と時を忘れ、伝説の勇者の末裔の姿を食い入る様に見詰めていた。
 そして。



「か――――」



 可愛い、という。
 冷酷で無慈悲で傲岸不遜な、今にも世界を手中に収めんとしている竜王のものとは思えない、側近の魔物が聞いたらあまりのことに卒倒しかねないような台詞はしかし、発した本人と少し離れた位置で眠る琥珀竜の雛しかいないこの部屋で、誰の耳に届くこともなく空気に吸われて消えていった。




end.


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