そして今日も君と出逢う




「……あれ?」

 いつの間にこんな所に来たのだろうか。

(えーっと……)

 ぱちぱちと幾度か目を瞬いた後に広がった世界は確かに見覚えのある景色だったけれど、どうしてかひどく違和感がある。まるで夢でも見ているかのような、けれどそれにしては妙にリアルな。微かに髪を揺らす風も空気の匂いも本物としか思えない、なのに。

「うーん……ま、いっか」

 こんなところでいつまでも突っ立っていてもどうしようもない。とりあえずはここを離れよう。
 所持品を確認してみると濃灰色の財布と黒いケースに納まったデッキとがそれぞれポケットの中に入っており、他には特にめぼしい物は持っていない。これらのことから察するに、恐らくいつもの公園に向かうところだったのだろう。あそこは仲の良い友達との溜まり場のようになっていて、休みの日や放課後には誰かしらヴァンガードファイトなどをして屯っているのだ。

 それに。

(ひょっとしたら、あいつもいるかもしれないしな)

 たたた、とつま先で地面を蹴るようにして駆けていく。
 もし今日も会えたなら何をしよう。デッキについての解説をしようか、実際にファイトしているところを見せてやろうか。それともショップに誘ってみようか?

「居るといいなあ、あいつ」

 傍らに立つ並木の上から、さわさわと梢の音が鳴った。





「なんだよ、誰もいないのかー?」

 今日に限って全員都合が悪くなってしまったのか、公園内のどこにも見知った顔は存在しなかった。せっかく気合いを入れて来たのに肩透かしを食らった気分だ。

(ま、いないなら仕方ないか)

 この気温では皆公園よりプールにでも向かっているのかもしれない。気を取り直し、いつも座っているベンチで昼寝でもしようかと思ったが、生憎とそこには先客がいた。
 何者かが両手を頭の下に敷き、長めの脚を少し高めに組んでぴくりとも動かずにベンチに寝そべっている。半袖の白いワイシャツと制服らしき長ズボン。記憶していたものとは若干色合いが異なるが、あれは後江高校のものだ。日除け代わりなのだろう、雑誌を被せているために顔の判別はできない。

(あーあ、今日はついてないな)

 あのベンチは自分のものではないのだから無理を言って立ち退かせる訳にもいかないし、そもそもそんな無礼なことを見ず知らずの人間相手にやろうとも思わない。
 ズボンのポケットにねじ込んでいた財布を取り出して所持金を確認すると、よし、とひとつ頷いて公園を後にした。向かう先は行きつけのカードショップだ。新しくパックを買うのもいいし、店にいる客とファイトをしてもいい。いずれにせよ全くの手持ち無沙汰になることはないだろう。
 
「あっちー……」

 風があるため木陰はそれなりに快適だが、一歩陽向に出てしまえば忽ちそこは真夏の暑さだ。さんさんと注ぐ日差しがもたらす渇きに耐えかね、店に向かう前に一旦近くの自動販売機で喉を潤すことにした。
 硬貨を数枚投入し、赤いパッケージの炭酸飲料のボタンを押す。店内は飲食禁止であるため、そのままそこでプルタブを開けて一気に中身を飲み干した。ピリピリと弾ける泡の刺激が甘ったるい液体と共に食道を一気に駆け抜けていく。

 振り仰いだ空は抜けるように青かった。






「いらっしゃ……い、」

 少し鈍い開閉音を立てる自動扉をくぐると、店員らしき女性がお決まりの挨拶を掛けてきた。随分と歯切れの悪い言い方だ。不思議に思ってちらりと視線を送ると、驚いたように目を見開いてこちらを見ている。何かおかしなところでもあっただろうかと自分の格好を見直すが、別段変な箇所など何もない。やがて此方の様子に気付いたのか、店員ははっとして少し慌てたように手元の本へと視線を落とした。

(……? 変なの)

 そもそもあんな店員、今までに居ただろうか。
 女性の年齢判別など全く自信はないが、多分高校生くらいだろう。そこらのモデルやアイドルなんかよりずっと整った顔立ちや薄く紫がかった白銀の髪を長く垂らした様子は子供心にも綺麗だなと思うが、それだけだ。
 友人達ならばここでやれ美人だの何だのと騒いでいたかもしれないが、生憎と自分はそのテの事には全く興味が湧かなかった。お前モテるのに勿体なさすぎ、と誰かが言っていた気もするが、関心を持てないものは持てないのだから仕方がない。

(それに、あいつの青い髪の方がもっと綺麗だ)

 初めて会ったときは乱れてボサボサだったあの髪。撫でつけてやったら水のように指の間をすり抜けていった、あの感覚を今でも鮮明に覚えている。昔何かのテレビ番組で放映していた、遠い国の海の底のような青い髪。自分がこれまで見た中でいっとう綺麗な青だった。


「さて、どーしよっかな……って、うぉ!?」
「……?」
「すげーっ、全然見たことないカードばっかり! いつの間にこんなの出てたんだ?」
「……それ、だいぶ前に発売になったパックのカードだけど」
「え? マジで?」
「嘘言ってどうするの」

 カウンターの前に並んでいたカードの数々に驚嘆の声を上げると、さっきの店員が訝るように話し掛けてきた。その口振りは確かに嘘を吐いているようには思えない。

「ええー、確かにオレ最近あんまりショップに寄ってなかったけど、さすがに新しいパックの発売とかはちゃんとチェックしてたんだけどなー」

 おっかしーなぁ、と首を捻っている間にも、店員はずっとこちらを見ている。その視線がどうにもひっかかった。
 ちらりと盗み見るようなものではなく、明らかにこちらを注視している。どうして初対面の人間に、ここまで不躾に見られなければならないのか。

「……あの?」
「っ、何? お会計?」
「や、そうじゃなくて。……俺のカッコ、なんか変? さっきからずっとおかしなモンを見るような目で見てるからさ」
「あ……悪い、そういうつもりじゃなかったんだけど。……知り合いに、よく似てたもんだから」
「知り合い?」

 成る程、まじまじと見てきた理由はそれか。
 それならそれで別に構わない。必要以上に詮索する気質でもないし、何よりも今は眼前のカード達をじっくり眺めて選別することが最優先事項なので、ふうん、と一言返して視線をショーケースへと戻そうとした、が。


「……ねえ、」
「ん?」
「あんた、ひょっとして――」
「よーっす、ねーちゃん! 今日は特別あっちぃなー……って、あれ?」

 丁度呼び掛けに顔を上げたタイミングで自動ドアが開閉し、やけに明るい声と共に金髪の男が現れた。上半身は白のワイシャツで、履いているのは公園で見かけたのと同じ後江高校の制服であるズボン。しかし先刻のやや藤色にくすんだ色合いと違い、男が着用しているのはからりと明るめの青いそれだ。
 その高校生が、さっきの店員と同じ――――いやそれ以上に目を見開き、ぽかんとした顔で此方を見ている。こいつも知り合いに似てるとか言い出すクチなのだろうか。
 それ程気の短い性質ではないが、流石にこうも立て続けでは辟易する。隠すことなく眉を顰め、何か用かと文句を言おうとして。

 ふと、眼前の人物が自分の友人と容姿が酷似していることに気が付いた。


「……か、い?」
「ん……? 俺のこと知ってんの?」
「……っ!」



 かたん、とレジの向こうで椅子が鳴る。


 あいつに兄ちゃんなんていたっけかなー、と級友の記憶を探る、薄鳶の髪と翠の目を持った少年を、三和タイシと戸倉ミサキは食い入るように凝視した。




* * *




「じゃあ、お前はマジで櫂なんだな? あの櫂トシキ?」
「だーかーら、何度もそう言ってんだろ」
「いや、悪ぃ。なんか俄には信じがたいっつーか」
「それはこっちも同じだっての」
「けど証拠は見せただろ?」
「そうだけどさ……」

 櫂はそれでも腑に落ちない、と言った風に口を尖らせた。

 彼らのことを信じるならば、ここは自分が認識しているよりも四年も後の世界だと言うのだ。
 確かに、突然高校生の姿で現れた友人の三和と、ミサキと名乗ったカードショップの店員が見せてくれた新聞やカレンダーに記された日付は彼らが話した通りのものであったし、三和自身もわざわざ生徒手帳を開いて本人証明をしてくれた。そこに載っている生年月日も彼のもので間違いない。……示されたそれが所謂四月馬鹿と呼ばれるものであることには、若干の皮肉を感じずにはいられなかったが。
 何はともあれ、嘘だと言うには手が込みすぎているし、そのようなことをする理由も見当たらない。よくよく観察したら心なしか辺りの風景にも多少の差があるように思えるし、ここが未来の世界だというのは多分本当なのだろう。
 しかし、だからと言って。

「なーんで俺以外のやつが、いきなり四年も年取ってる訳?」
「俺も知りたいわそんなこと。つか、むしろ正確にはお前だけが突然四年前に戻ったんだろ。もしくは四年前から現代にやってきたとか」
「俺にとっては俺の時間が基準だし。お前がいきなり老けたようにしか見えねーよ」
「あいっかわらず、ナチュラルに俺様気質なのな……」

 こりゃ本人に間違いねーわ、と三和が苦笑する。
 櫂はただ正直に自分の心情を述べただけだ。そんな風に言われたところで、別に改めるつもりもない。

「なー、ねーちゃんはどう思う? 何でまたコイツはこんなおかしなことになってんだか」
「え? あ、ああ」
「ん、どうしたんだよ? 呆けちゃって」
「……いや。この子、本当に櫂、なんだよね?」
「……俺、もうこのやり取り疲れたんだけど」

 うんざり、とテーブルの端に肘をつき、深々と息を吐いた。
 幸いと言うべきかどうかは分からないが、丁度今は自分達以外の客が店内にいない。そのためファイトスペースの隅に三人で座り、状況を確認し合っていたのだ。ちなみに他の客が来たらすぐに分かるよう、入り口のレジは店長代理という役職名なのか固有名なのかよくわからない名を持つ猫が張り番をしてくれている。

「ごめん、アンタを疑ってるとかじゃないんだけど。私の知ってる櫂とは随分……その、性格が違うみたいだから」
「は?」
「ああー、うん。だよな」


 気まずげに言葉を濁すミサキに対し、三和は相変わらずの苦笑いで頷き返した。当の櫂だけは意味が分からずに疑問符を周りに浮かべている。

「えっと、何て言うか……櫂ってもっと口数少なくて、感情もあまり表に出さない奴って印象だったからさ」
「……なんだよそれ。今の俺ってそんなんなのか?」

 憮然として三和を見ると、困ったように頬を掻いている。そのリアクションだけでミサキの言葉が嘘と真実のどちらであるかは明白だ。

「えー、それってつまり言っちまえば無口で無愛想ってことだろー? 俺があ?」

 これでも人当たりはいい方だろうという自覚があるだけに結構ショックだ。何がどうしてそんなことになってしまったのかと嘆いたが、詳細を知っている筈の三和は少し眉尻を下げるだけで、それに答えることはなかった。

 外でじわじわと蝉が鳴いている。恐らくすぐ傍の街路樹に何匹か張り付いているのだろう。
 店内は空調が効いているために快適だが、ガラス越しに見えるアスファルトはうだる暑さでゆらゆらと陽炎のように揺らめいていた。先刻櫂がここへやって来た時よりも気温は上昇しているようだ。

「しかし本当、外見は殆どそのままなのに中身はまるで別人だね」
「まあ昔の櫂を知ってるのなんて、今じゃ俺とアイチくらいだしな。ねーちゃんが戸惑うのも無理ないか」

 ははは、という小さな笑いと共に何気なく吐かれた三和の台詞に、櫂はぴたりと動きを止めて固まった。


 ――――今、こいつは何と言った?


「アイ……チ?」
「ん? そうそう、アイチ。ああ、お前はもう逢った後なわけね、四年前に」
「そう言えば、中学組は今日は来てないね。この暑さじゃ無理もないか」
「あー、あいつらは夏期補講があるらしいから。終わり次第顔出すっつってたぞ」
「ふうん……で、そう言うアンタは何で制服なの。登校日?」
「ん、ちょっと校内に野暮用。そっちは? ねーちゃんは普通にバイト中として、店長どこ行ったの」
「商店会の集まりとかで外出中」

 目の前に居る筈の二人の会話が、どこか遠い場所で交わされているように右から左へと抜けていく。
 アイチ。あの深い海の青を身に纏った、傷だらけの小さな少年。いつも俯いてばかりだったあのアイチが。

「アイチが、ここに来るのか?」
「ああ、だから今そう言っただろ。補講は半ドンっつってたし、多分そろそろ来るんじゃないか」
「……アイチ、ヴァンガードやってんのか」
「ま、カードショップに通ってるくらいだしな。やってるどころかかなり強いぜ」
「本格的に始めてからはまだそんなに経ってないのに、どんどん実力を伸ばしてるよ。同じくらいに始めた私が置いてきぼり喰らいそうな位に」
「いやいや謙遜すんなって。ねーちゃんも相当なもんだろ。何しろ全国覇者だぜ?」
「悪いけど、おだてても何もないよ」
「純粋に賞賛と受け取ってもらえませんかね……」

 アイチが、ヴァンガードをやっている。ショップにも顔を出していて、こんな風に噂される程に人の輪の中にいて、そして。

「……全国?」
「そ。アイチはさ、このねーちゃんと、カムイっていう小学生のクソガキさんと、あと高校生になったお前と。四人でチーム組んで全国行って、なんと優勝しちまったんだ。すっげーだろ? お前に追い付きたい一心でファイトを続けてたアイチが、今や全国チャンピオンだ」
「…………」

 全国優勝。あの、いつもびくびくと震えていたこどもが。大きな目に涙をいっぱいに溜めて、それでも泣くことすらできずにいた少年が。

「……俺に、追い付く、」
「そ。櫂くん櫂くんって、雛鳥みたいにいっつもお前のことを追っかけてさー。見てるこっちが思わず応援したくなるくらい」

 櫂の記憶にあるアイチは、いつだって下を向いていた。必死で引き留めて話し掛けて、漸く顔を上げてくれた。怯えたように瞳を潤ませ、決して一歩引いた距離を縮めようとしなかった。

(アイチが、俺に)

「にゃーん」
「お、噂をすれば本人じゃないか?」

 レジの上にいた店長代理が心持ち嬉しそうな声音で鳴いた直後に、自動ドアの少し鈍い開閉音と共にグレーの制服と学生鞄を脇に抱えた少年が店内へと入ってくる。

 その、見間違える筈もない青。

「こんにちは、ミサキさん。三和くんも」
「いらっしゃい、アイチ」
「おっす。あれ、他の奴らは?」
「森川くんは、ちょっと先生に捕まっちゃって。井崎くんはその付き添いです」
「どうせまた補講中になんかやらかしたんだろ。ウルトラレアの写真集見てたとか、グレード3のカードに頬擦りしたとか」
「えっと……その、当たってるんですけど……でも森川くんにも悪気、は……?」

 あはは、と談笑していた瞳が此方を見付け、そのまま凍りついたようにその場に固まる。
 青い髪、青い目、柔らかな眼差しと少し高めの甘い声。要所要所は櫂の記憶している姿からそっくりそのまま成長しているのに、眼差しだけは記憶と違い、真っ直ぐにこちらを見つめている。


「――――アイチ!」

 ばっと駆け出し、その頭を包み込むように抱き締めた。が、予想よりも相手の身長が高かったために首に抱きつく形になってしまう。

「ははっ……お前、背ぇ伸びたんだな!」

 追い越されちまったなあ、と笑う先で、ふたつの深海が驚きに揺れている。あの日と変わらず綺麗で、あの日よりずっと強い光を宿した目。


「――――かい、くん?」
「おう」


 震える問い掛けに口角をニッと釣り上げて応えた途端、アイチは力を失ったようにぺたんとその場にへたり込んだ。




* * *




「じゃあ、本当に……四年前の櫂くんなんだね?」
「そ。まごうことなき櫂トシキだぜ」
「つっても本人証明するもん何もないけどなー」
「うるせーなぁ。そんなに言うんだったら小学校でのお前の恥ずかしーぃ話とか片想いの相手履歴とか、今ここで全部洗いざらい話したっていいんだぜ?」
「すんません俺が悪かったですもう疑いません」
「……ま、こんな感じだし。何よりこの外見だから。多分本人で間違いないよ」

 どうしてこんなことになってるのかは分かんないけどね、と溜め息混じりに言うミサキに対し、アイチは曖昧な笑みを浮かべる。そんなの俺が一番知りたいよ、と返したい気持ちは山々だったが、三和はともかくミサキに絡むのも筋違いだし失礼だろうとぐっと言葉を飲み込んだ。決して怖かった訳ではない、決して。

「しかしお前、俺のことは散々疑ってかかったくせにアイチのことは一発で信じるのなー」
「当ったり前だろ。アイチのことだもん」

 どこにいても、どんな姿でもアイチのことならすぐに分かる。

「俺がアイチを間違える訳ねーし、アイチが俺に嘘吐く訳もねーよ」

 そう言ってやったら三和とミサキは呆れたように半眼になり、アイチは仄かに頬を染めた。何故そんな反応をされるのだろう、当たり前のことを言っただけなのに。
 櫂が首を傾げていると、不意にアイチは居住まいを正し、椅子に掛けた膝の上で両の拳をきゅっと握った。口元を引き結び、急に真剣な表情になって此方を見詰めてくる。


「……あの、僕、」
「ん?」
「僕、ずっとお礼を言いたかったんだ……。櫂くんに」
「俺に?」
「うん。……あの時の櫂くんのお陰で今の僕がいる。櫂くんのお陰で、僕は救われたから」

 なのに、と顔を歪めるアイチは本当に辛そうで、こんな表情ばかりは全く同じだ。櫂の知っている『四年前のアイチ』に。

「あの頃の僕は、今よりももっと臆病で。櫂くんにお礼も言えなかった。本当は凄く嬉しかったのに、生まれて良かったって思えるくらいに嬉しかったのに……俯いて、顔も見ないで、返事すら碌にしないで」
「…………」

 ぎゅっ、と一層拳が握り締められる。櫂も三和もミサキも黙っているため、アイチが言葉を止めると店内は途端に無音になる。外の蝉の声が一際大きく響き渡った。

「明日は言おう、明日こそ言おうって僕がぐずぐずしてる内に櫂くんはいなくなっちゃって。そのまま中学に上がって、このカードキャピタルで再会するまでずっと、櫂くんにお礼を言えなかったことが心残りで……」

 だから。

 一度言葉を切り、改めて面を上げたアイチはそれまでの真剣な表情を崩すと泣き出しそうに微笑んだ。


「ありがとう、櫂くん」


 瀑布のような蝉時雨に混じって、どこかの家の風鈴の音が微かに聞こえる。
 大きな瞳をいっぱいに潤ませたアイチは、しかし決して涙を零すことはなかった。そう言えば櫂の知る『アイチ』も、どんなにボロボロでも一度として泣いていることはなかったように思う。


「……お前じゃないよ」
「え、」
「お前じゃなくて、俺の方がお礼を言わなきゃいけないんだ」

 怪我をして、汚れて、ボロボロになって歩いている奴がいる。
 どうしてあんな表情をしているのだろう、どうしてあんな格好なのだろう。長めの髪も伏せられた目もくしゃくしゃに歪んで、けれどすごく綺麗な青色をしている。
 きっと、笑えばもっと綺麗なのに。

 切欠はただ、それだけだった。

「あのな。さっき俺、すっげー嬉しかったんだ。お前がヴァンガードを続けてくれてたこと、全国優勝しちまうくらい強くなったってこと、俺のことを追っかけてくれてるってこと……三和とそこのねーちゃんから聞いて、無茶苦茶嬉しかった」

 向かい合って座っていた椅子から立ち上がり、呆けたように目を丸くするアイチの頭を撫でる。以前触れたときと同じ、水のように滑らかな感触がつるりと指の間をすり抜けた。


「ありがとうな、アイチ。俺が言ったこと、そんなに大切にしてくれて」

 つやつやとした髪の中に小さく旋毛が見える。
 ほんの少しだけ抜かされてしまった身長。自分の知る『アイチ』は、これより頭ひとつ分以上小さかった。
 それだけの月日が流れた間、アイチはずっと自分との思い出を忘れずにいてくれた。自分の言ったことを、自分が教えたヴァンガードをずっと続けていて、そしてとても強くなった。
 少し気弱そうな色を残しつつも、確りと上を向いた眼差しは想像していた以上にとても綺麗で。

(よかった)

 声を掛けてよかった。ヴァンガードを教えてよかった。アイチと逢えてよかった。
 そう、心の底から思った。


「よく頑張ったな、アイチ。偉いぞ」

 わしゃわしゃと強めにアイチの髪を掻き回し、きっと困難だっただろう彼のこれまでの軌跡を労う。てっきり笑ってくれるものと思っていたが――――櫂がそう言った途端、アイチはひくり、と一度肩を震わせると、そのまま堰を切ったように泣き出してしまった。

「……っふ、う……っ、うぇぇ……っ」
「え、ちょ、アイチ!?」
「う、っく、うぅ〜……っ」

 初めて見るその透明な涙に見惚れたのも一瞬のことで、予想外の事態に櫂はひどく慌てふためいた。傍らにいる三和とミサキは、どういうわけか落ち着き払っている。

「あれ、なんで、俺のせい!? 俺なんかヘンなこと言ったか?!」
「あー……いや、お前じゃないけど『お前』のせいっつーか」
「まあ、ああ言われたら泣き出すのも仕方ないというか。アンタが拙いことしたとかじゃないよ。……アイチ」
「っ、はい、」
「店の奥入れたげるから顔洗っといで。タオルも貸す」
「……すみ、ませ、ふぇ…っ」


 ミサキに促されて席を立ったアイチの背中を、櫂はなす術なく見送った。頭を撫でたのが駄目だったのか、それともやはり告げた言葉に問題があったのか。ぐるぐると考え込みながら百面相をしていると、まあ座れよと三和が肩を叩いて笑った。

「なあ、やっぱ俺なんかまずったんじゃないか?」
「いやいや、ぜーんぜん」
「けどさ……」
「お前は全く悪くないよ。むしろ俺からすりゃ、よく言ってくれた! って感じ」
「そうそう。アイチのあれはショック受けたとかじゃなく、感極まってのことだよ」

 店内に戻ってきたミサキが、三和の台詞を引き継いで言う。

「アイチは?」
「顔洗わせて、とりあえず涙は止まったみたいだからこれ飲んで落ち着きなってハーブティー渡しといた。直に戻ってくるでしょ」
「ハーブティーとはまた洒落てんなあ。さすが女子力」
「単なる作り置き。水出しの安物だよ」

 どうやら泣き止んでくれたようで安心したが、ほっと息をついた途端に疑念がむくむくと湧き上がってきた。
 先程はアイチの涙に動揺していて気にも留めていなかったが、三和やミサキの台詞がどうも心に引っ掛かる。

「……なあ」
「ん?」
「俺のせいだけど俺のせいじゃないって、どういうこと」

 尋ねた瞬間、二人は少しきまり悪げに眉を寄せた。まるで口にしていいのかどうか決めかねているかのようだ。

「よく言ったとか、泣いても仕方ないとか。俺そこまでゴタイソーなこと言ったつもりないんだけど。てか突然目の前で人が泣き出したのに、お前も店員のねーちゃんも何でそんな落ち着いてんの?」
「やー、どう説明したもんかな……」
「ひょっとして……この時代の『俺』がなんか関係してんのか?」
「まあ、そんな感じっちゃあそんな感じかなー……」
「……ごめん、腰を折って悪いんだけど。ちょっと、それに関して気になることがあるんだ」

 詰め寄る櫂に三和が答えあぐねている中、不意にミサキが切り出した。一瞬場を流されるのかと身構えたが、その神妙な表情からそんなつもりがないことを悟り、黙って言葉の続きを待つ。
 

「三和、あんた今日後江高校に行ってたんだよね。それって登校日か何か?」
「いんや、図書室に涼みに行ってた。俺の部屋エアコンないからさ。市立の図書館行くより学校のが近いから丁度良いんだ。静かだから昼寝しやすいし、気ぃ向いたときに課題もやれるし」
「最後があべこべな気がするけど、まあそれは置いとくとして。他には? あんたの他に誰かいた?」
「んーと、俺と同じ様な奴は結構いたな。真面目なのも数人いたけど。そういや櫂も見かけた気がすんなー、あいつ一人暮らしだし光熱費浮かせるには丁度良いんだろ。課題終わったらとっとと出て行っちまったみたいだけど……、って」
「え、俺?」
「…………」

 自分で言っておきながら、三和はひどく驚いていた。口元に手を当てて、うわー俺なんで気付かなかったんだろ、暑さでボケてんのかなーなどとぶつぶつ呟いている。ひとり状況を飲み込めない櫂が問い掛けるように視線を送ると、ミサキは固い表情を崩さないままそれはつまり、と小さく口を開いた。

「SF小説とかで、未来もしくは過去の自分と会うって話はよくあるけど。今この時代の――あたし達が知ってる『櫂』も、今日は普通に存在してるんだよね?」
「ああ、間違いない。相変わらずのつっけんどんだったけど、いつも通りのあいつだったぜ」
(つっけんどん……)

 思うところは多々あったけれど、口を挟める雰囲気でもないので心の中で零すに留める。

「じゃあ、今この時代には『あいつ』が二人いる。そういうことでいいんだね」
「……ああ」

 お互い入れ違いになったわけでもなく。三和の言葉を信じるならば、小学生の櫂と高校生の『櫂』、ふたりの櫂トシキが存在していることになる。

「えっと……イマイチ分かんねーんだけど、それって、もし俺が今の『俺』に会ったらどうなっちまうんだ?」
「それは正直、想像つかないけど。学校で用件を済ませたあいつが、次に向かうとしたらどこになる?」
「……いつもなら公園で昼寝コースだろって思うけど。気温どんどん上がってるみたいだし、木陰で涼むのも限界があるだろうから……家に帰るか、或いは」



「にゃーん」



 ふと、それまでカウンターで寛いでいた店長代理が顔を上げた。先刻アイチが来たときと同じように、その声は幾らか嬉しそうだ。
 そして続く、少し鈍い自動ドアの開閉音。



「「………………あ」」
「……何だ」

 上部のボタンを外してラフに着崩したワイシャツと、藤色にくすんだ学校指定のズボン。
 片手で学生鞄を担ぎ、もう片手で汗に濡れて額に貼り付く前髪をうるさそうに払いながら、たった今カードキャピタルへを訪れた『櫂トシキ』は、驚きとも恐れともつかない微妙な表情で固まっているクラスメイトとチームメイトに、怪訝そうに顔を顰めた。


(あれが、『俺』)

 一方の櫂は、未来の自分と思われるその人物を見つめたまま三和達と同じように固まっていた。
 まるで引き出しの奥に眠っていた古いアルバムを見た気分だと言えば分かりやすいだろうか。一枚一枚の写真の中に収められた顔は確かに自分のものではあるのだが、同時にこれは本当に自分なのかという疑念も覚える。鏡を見ているのとはまた違った不思議な感覚。
 視線を感じたのだろう、眇められていた翠の眼がふっと流れるようにこちらを捉え、そのまま驚愕に見開かれた。


「――――お前は」


 襟元の隙間から覗く喉仏がこくりと小さく上下したのが見えた。つられて自分も息を呑む。何か言おうにも、何を言えばいいのか全く思い浮かばない。それは向こうも同じであるのか、小さく開かれた唇は呼び掛けたきり動かなかった。
 ただただ翠の視線同士が交差し合う。三和やミサキも言葉を忘れ、事の成り行きを見守っていた。


「ミサキさんすみません、タオルとお茶ありがとうございました……って、あれ……?」

 その沈黙を破ったのは、店の奥から姿を現したアイチだった。まだ幾分か目元は赤いが、さっきよりは随分マシな顔になっている。前髪の先が少し濡れて束になり、垂れた雫が丸みを帯びた輪郭をつう、と伝っていた。

「かい、くん……? あれ……でも櫂くんはここにいて……、あ、でもここにいるのは四年前の櫂くんで、あれれ……?」
「……アイチ、とりあえずちょっと落ち着こうなー」

 人は自分以上にパニックに陥った人間が傍にいると冷静になると言うが、現在の三和が正にそれだった。ひとまず混乱するアイチを椅子に座らせ、お前も来いと入口付近で立ち尽くしたままの『櫂』を促す。
 しかし『櫂』は近くへと歩み寄りはしたものの、席には着かずに警戒したような目つきで此方を睨んでいた。

「んな怖い顔するなっての。俺らも分かんないことだらけだけど、とりあえず現状説明すっからさ」
「アイチ」
「は、はい」

 三和のことはさっくりと無視し、『櫂』は未だに目を白黒させているアイチの方へと向き直った。それだけでも櫂にとっては眉を顰める要因だったが、更に癪に障ったのはその後のアイチに対する態度だった。

「どういうことだ、これは」
「あ、あのね、僕もよく分からないんだけど、お店に来たら四年前の櫂くんが居てね」
「四年前の、俺だと?」
「うん。ほら、ここにいる櫂くんが三和くんやミサキさんと話してて、櫂くん本人しか知らないようなことも知ってて。で、何でか分からないけど四年前から現在にやって来ちゃったみたいで、それで……」
「……アイチ」
「ふえっ?」
「お前は、そんな荒唐無稽な話を易々と信じたのか」
「う、うん」
「馬鹿馬鹿しい」
「っ!」

 たどたどしくも懸命に説明しようとするアイチの言葉を、『櫂』はばっさりと切り捨てた。苛立ちすら感じられる物言いに、びくりと華奢な肩が震える。

「あの、でも、ちゃんと僕のことも覚えてくれてて、だから……」
「少し最もらしいことを言われればそれだけで信じるのか。随分と目出度い頭だな」
「あ…………」

 取りつく島もない、というのはこういう態度のことを言うのだろうと思った。吐き出される言葉の一つ一つに鋭利な棘が生えていて、それがアイチの心をぐさりと突き刺していく様が目に見えるようにありありと伝わる。特徴的に跳ねた一房の髪が、俯いてしまったアイチの右横の輪郭をそっと撫でていた。
 そして『櫂』はそんなアイチには目もくれず、今度はその鋭利な瞳で三和達をじろりと一瞥する。

「まさかお前達まで、こんなふざけた話を鵜呑みにしているんじゃないだろうな」
「そりゃあ俺らだって、丸々信じ切ってる訳じゃねーよ。それでもここにいる櫂の話を聞く限りはそうとしか考えられねえんだ」
「見た感じ嘘をついているとは思えなかったし、第一この外見だもの。丸々関わりを否定する方がおかしいでしょ」

 自分の頭上で交わされる会話を余所に、櫂は横目でアイチの様子を窺う。『櫂』からの言葉の棘を受けたアイチは哀しげに眉を寄せ、膝の上で拳を作って小さく震えていた。

(……せっかく、泣き止んだとこだったのに)

 四年後の『櫂』は三和やミサキの意見を聞いているのかいないのか、不機嫌そうに口を引き結んでいる。そうして先程目を合わせたきり、櫂のことは見ようともしない。まるでそこにいないものとして扱うかのように、視線のひとつも寄越さないのだ。



「……ふざけんなッ!」


 がたん、と耳をつく騒音が店内に響く。
 抑えきれない怒りが沸々と湧き上がり、気が付くと櫂は腰掛けていたパイプ椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がっていた。
 それまで黙っていた人物の突然の行動に、その場に束の間の静寂が訪れる。呆気に取られる三和達を尻目に、櫂は『櫂』の肩を乱暴に掴んで睨み付けた。

「話がある。外に出ろ」
「……は?」
「いいから出ろっつってんだ! それともこれから話すこと、このままここで全部ぶちまけちまってもいいってのか?」

 言外にそれだとお前が困るだろう、と含ませると、『櫂』は盛大に舌打ちをして櫂の手を払いのけ、足早に店を出て行った。

「あ、おい、櫂!」
「わりー三和、あと頼む。ねーちゃんも。二人とも色々ありがとな」
「あ、いや……」

 三和とミサキに礼を告げ、自分もすぐさま後を追う。自動ドアの前に立ったところでふと足を止め、くるりと後ろをふり返った。

 青い髪の少年が、こちらを見ている。
 俯いていた顔を上げて、真っ直ぐに。



「アイチ」
「あ……」


 きっとこの出逢いは奇跡だったのだろう。或いは自分の夢なのかも知れない。都合よく作り上げられた、勝手な夢。
 それでも、こうして逢えたことが何より嬉しかった。



「――――またな!」



 それならせめて、夢の中の彼の記憶が少しでも幸せであるように。
 とびきりの笑顔をひとつ残して、櫂は扉の外へと駆け出した。





* * *





 後を追って店を出たときには既にその姿はどこにもなかったが、何を取り決めるでもなくこの場所に居るのだろうということは自然と分かったので迷わず足を進めた。案の定、向かった先では白のワイシャツに身を包んだ背中が何も言わずに佇んでいる。四年という歳月を経ても尚、このベンチが自分のお気に入りの場所であるということに変わりはないらしい。

「……話とはなんだ」
「言わなくても分かってるだろ。さっきのことだ」
「それだけでは具体性に欠ける。そんな曖昧な議題に付き合う気はない」
「ぐだぐだ言って誤魔化そうったって無駄だからな。こっちにはお前の考えなんて筒抜けだし、お前だって俺が何を言いたいか本当は分かってるんだろ。おんなじ人間、なんだから」

 目の前の『櫂』が今何を考えているのかが、朧気ながらも櫂の頭の中に伝わってくる。一字一句正確にとまではいかないが、どういう気持ちでいるのかは黙っていても判別できた。

「けどまあ、お望みだってんならはっきり言ってやるよ。――なんであんな風に、わざわざアイチを傷つけるような言い方をした」
「……別に。思ったことをそのまま言っただけだ」
「そんな訳ないだろ。お前が言いたかったのはもっと別のことだった筈だ」
「知らん。第一、お前にそんなことを口出しされる筋合いはない」

 『櫂』の反応はどこまでも淡白だ。こちらの話など端から聞く耳を持つつもりがないらしく、壁を作って総てをシャットアウトしようとしている。
 そんな頑なな態度に、櫂はどこか見覚えがあった。


(――ああ)


 こういう自分を知っている。こんな態度を取る自分を知っている。客観的に見ることでより強く、目の前の人物が同質の存在であることを自覚できた。
 こんなときの自分が、本当に思っていることは。



「お前は……何をそんなにびびってんだ」
「――な、」

 『櫂』の目が驚きに見開かれ、どこまでも逸らされていた視線が漸くこちらを向いた。ふたつの翠の真ん中に、まるで入れ子のように自分の姿が映っている。

「昔っからそうだったよな。怖えーこととか、やなことあるとさ。強がり言って、何でもねーってフリするの。そんで周りと距離取ろうとすんだよ。みっともないとこ見られたくなくて」
「俺は、怖がってなど」
「怖がってるよ、ずーっと。気ぃ張りっぱなしでツンツンしてる」

 わざわざ周囲を突き放すような態度を取って、一体何を遠ざけているのか。



「そうやって全部突っぱねてひとりを気取ってみた所で、それで何の意味があるんだよ」




 その瞬間、静かな冷気のようだった『櫂』の周囲の空気ががらりと変質した。隠しきれない怒りの感情が炎の如く燃え上がり、一気に牙を剥いて櫂へと襲い掛かる。


「――お前に、お前に何が分かると言うんだ!!」

 元々鋭い目を更に吊り上げ、ぎりぎりと唇を噛み締めて睨んでくる。並の人間なら竦んで動けなくなりそうな程の強い眼差し。彼の平生を知る者ならば、そのあまりに普段とかけ離れた様子に目を疑ったことだろう。
 しかし櫂にとっては、そんな身の縮むような激昂さえもどこか哀しく感じられた。


「お前に何が分かる! まだ何も、何も知らない癖に、お前に――……!!」
「分かるさ」


 鳴蜩や熊蝉の鳴雨が膜のように二人の周囲を包んでいる。まるでここだけが世界から切り離されてしまったかのようだ。


「分かるさ――きっとこれからの俺には、すごく辛いことが待ってるんだろ。お前みたいに、そんなに頑なになっちまうくらいに辛いことが」
「――――ッ」

 はっきりと何が起きるのかを悟った訳じゃない。それでもこの目の前にいる『自分』からは、常に悲しみと怒りと――そして幽かな過去への羨望が感じられた。
 そこから導き出される選択肢は、恐らくそう多くはない。

 けれど。


「けどだからって、アイチや三和や、他のみんなを傷付けていい理由にはならねえだろ」


 少なくとも、櫂はそんなことは許さない。


「……そんな、ことは」
「分かってるってのか? 分かっておきながら、さっきアイチを傷付けたのか? それなら尚更ふざけんなよ。……お前だって、嬉しかった癖に」
「……何が」
「決まってんだろ。アイチだよ。……あいつと再会できたこと、ヴァンガードを始めてくれてたこと、俺のことをずっと覚えてくれてたこと。お前だって本当は、嬉しくって仕方なかった筈だろう――――違うだなんて言わせねえぞ、『櫂トシキ』!!」


 ひく、と喉が上下する。 
 どれだけ変わったように見えようとも、自分は自分でしかない。櫂が今抱いているこの気持ちは、『櫂』自身がかつて感じたことに他ならないのだ。

「何も言わないのは、図星って扱いにするからな」
「…………」
「……なあ。俺はまだガキだからさ、お前がどんな目に遭ってそんな態度取るようになったのか、どういう経験してきたとかはまだ全然分かんないよ。ただ辛いことがあるんだろうな、大変なんだろうなっていう、それだけしか分かんない。……だけどさ、何があっても、たとえそれが相手のためを思ってのことだとしても。大事な奴を傷付けていい理由になんて、絶対なんねーだろ?」
「…………」
「折角再会できたってのにさ……自分の言葉でアイチが、好きな子が悲しんでる姿なんて、俺は見たくねぇよ」

 勝手なことを言っているという自覚はあった。それでも『櫂』に――自分に、アイチを悲しませるようなことをして欲しくはなかった。
 これはただの、櫂のワガママだ。



 日差しを吸った午後の温い風がゆるりと周囲を吹き抜ける。梢が影を落とす地面の上で、きらきらと木漏れ日が瞬いた。



「……俺は」
「ん?」
「俺は、他にやり方を知らない。言葉が出てこないんだ。あいつを傷付けることしかできない。昔のようには……お前のようには、できない」
「でも、好きって気持ちは変わってねえんだろ?」
「…………」
「黙ってんのは図星ってことにするって、さっき言ったよな」
「……それでも、アイチ自身がどう思っているかは分からないだろう。もう俺になど愛想が尽きているかも知れない」
「好きだってのは認めるんだな?」
「…………」
「――ぷっ」
「笑うな!」
「わり、だってお前、そんなコワイ顔してんのに、耳真っ赤なんだもん……っ、ははは!」


 なんだか妙におかしくなって、気が付いたら腹を抱えて笑ってしまっていた。『櫂』も始めこそ不愉快そうに顰め面をしていたものの、やがてその引き結んだ口を緩め、目元を呆れたように和らげた。
 ひとしきり笑った後で目尻に溜まった涙を拭い、改めて向き直る。『櫂』の耳はまだ微かに先端を赤らめたままだった。

「大丈夫、なんとかなるって。だって四年間もずっと想い続けてきたんだろ? それならきっと伝わるよ」
「……そう、上手くいくものだろうか」
「いくさ。アイチだったら分かってくれる。勿論お前なりに精一杯やってこそ、だけどな」
「……そう、か」



 いつの間にか太陽は西へと傾き、うだるような暑さも随分薄らいでしまっている。蝉の合唱に混じった先走りの茅蜩が、二人に夕昏の来訪を告げた。


「……あれ、」

 ふと気付いたときにはもう、辺りの景色が揺らぎはじめていた。じわじわと霞がかかる視界の中で、『櫂』がはっと瞠目する。

「……戻る、のか」
「んー、なんかよく分かんないけどそうみたいだ。お前に言いたいこと言い終わったからかな?」
「なんだ、それは。わざわざそんなことのためにやって来たのか、お前は」
「元はといえばお前のせいだっての」

 どうして自分がここへ来たのか、本当のところは分からない。 けれど、会えて良かったと思う。言えて良かったと思う。

 伝えられて、良かった。


「そんじゃーな、頑張れよ『俺』。あんまりアイチを泣かせんな。お前の言葉はとにかく分かりにくすぎるんだから。さっきのアレにしたってさ」
「……ああ」

 そもそもの発端となった、先刻のカードキャピタルでの『櫂』の態度。あれは元はと言えばアイチが泣いていたことを悟った『櫂』が、イレギュラーな存在だった自分を疑ったが故のことだったのだと、櫂は疾うに気が付いていた。
 あまり誰彼構わず簡単に信じるなと、もう少し警戒心を持てと言えば済む話なのにどうしてああも回りくどくなったのか。
 これからの『自分』の行く末を懸念し、櫂はほんの少しだけ苦笑した。



「……お前も、」
「ん?」

「お前も、負けるな。……家族を、大切にしろ。何があっても、どんなに辛くても――救いは必ずあるから」
「……おう」


 視界が急激に白く染まり、耳の奥で金属が擦れるような甲高い音が鳴る。



 最後に見た視界の中で、アルバムの向こうの『自分』が淡く微笑んでいた。

* * *






「……あれ?」

 いつの間にこんな所に来たのだろうか。

(えーっと……)

 ぱちぱちと幾度か目を瞬いた後に広がった世界は確かに見覚えのある景色だったけれど、どうしてかひどくぼんやりとしている。まるで直前まで夢でも見ていたかのようだ。

「うーん……ま、いっか」

 こんなところでいつまでも突っ立っていてもどうしようもない。とりあえずはここを離れよう。

(公園に行ったら、あいつと会えるかもしれないしな)

 たたた、とつま先で地面を蹴るようにして駆けていく。




「お――いたいた」

 公園内の片隅にある小さな池。そのほとりで見覚えのある色が風に揺られてそよいでいる。昔何かのテレビ番組で放映していた、遠い国の海の底のような青い髪。自分がこれまで見た中でいっとう綺麗な青だ。
 今日は何をしよう。デッキについての解説をしようか、実際にファイトしているところを見せてやろうか。それともショップに誘ってみようか?

 逸る胸を抑えながら、櫂はすう、と息を吸い込んだ。





「よお、アイチ! 何してたんだ?」







end.

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