きみの宇宙をかき乱す



 瞼を開けた先にあった藍色に、一瞬ここは海の中だっただろうかと寝ぼけたことを考えた。海とは言っても正しくはシーツの海で、藍色の正体は腕の中に抱き込んだ小さな存在だ。
 但し小さいという形容詞が当てはまるのはあくまで外見上だけのことであって、櫂の心を占める割合としては途方もない程に大きい。

 この、先導アイチという存在は。

 するりと髪を梳くと、冷えた水のような質感が指の間をすり抜けた。一房掬って口元へ運ぶと、伝わる感覚は掌で受けるものより幾分か硬い。
 滑らかな頬を包み込み、額から鼻先、眦、そして微かに息づく唇に自分のそれを寄せる。啄むのでも味わうでもなく、ただ形や温度を確かめるための、触れるだけのキス。そのまま慈しむように頭を撫でていると、ぴくりと身じろぎする気配があった。

「……ん、」
「起きたか」
「かい、くん?」

 大きな双眸が睫毛をしならせながらゆっくりと瞬きをする。アイチ、と吐息に乗せて囁くように名前を呼ぶと、蕩けた微笑みを浮かべておはよう、と口付けを返してきた。少しだけ面食らった後、両腕を背中に回して故意に強く抱き締める。

「や……櫂くん、苦しいよ」
「ああ。わざとそうしてる」
「あう……」

 困ったように眉を寄せるアイチにもう一度音を立てて唇を落とし、そのまま小さな顔を覗き込むように額と額を触れ合わせた。髪よりも僅かに緑がかった深い目の中に自分の姿が溶け込んでいるのを認め、口端が自然と上がっていく。
 こうして共に迎えた朝に、アイチの瞳が自分で占められている様子を見るのが櫂はとても好きだった。

「いま何時?」
「七時半だ。お前はまだ寝ていろ。食事の支度が出来たら起こす」
「そんな、僕も手伝うよ」
「別にいい。……動くの、辛いだろう」

 手酷く扱ったつもりは勿論ないが、昨晩はそれなりに激しくしてしまった気がするし、殆ど意識を飛ばすようにして眠りに就いたアイチの目元に浮かんでいた涙の味もまだ舌先に残っている。出来ればもう少し休ませてやりたいというのが櫂の本音だった。

「ん……でも……」
「何だ」
「えっと、あの……その、」
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言え。聞いてやるから」

 生来の内気な性格が災いしてか、アイチはよくこうして自分の考えをはっきりと言えないことがある。以前の櫂ならばそんな様子に対し苛立ちを隠せずにいただろうが、お互いに気持ちを通じ合わせてからは、その小さな口が紡ぐ言葉をどんなに時間が掛かっても必ず待つようにしていた。無駄に低姿勢なこの恋人がこんな風に言い淀む原因は、大抵は自分に変な遠慮をしてしまう所為だと分かっているからだ。
 だから今も、申し訳ないだの何だのと謝罪の言葉が出てくるものと思っていた、のだが。

「あのね、せっかく櫂くんのお家に来てるのに……二人きりなのに、ちょっとでも離れちゃうのは淋しいな、って」

 だから、一緒に支度したいな。
 もじもじと指先をいじりながらそう告げられて、櫂の周囲に流れる時間がぴたりと止まった。

「あ、でも僕料理とか出来ないしかえって迷惑だよね、ごめん。やっぱり忘れて……」
「…………お前は」
「ふぇっ? あ、かいく、んぅっ」

 衝動的に覆い被さって顎を捕らえ、柔らかなくちびるを貪った。舌を巡らせて歯列をなぞり、上下の唇肉を軽く食む。突然の濃厚な口付けにはじめは戸惑いを露わにしていたアイチも、幾度も角度を変えて触れられるうちにおずおずと自ら舌を差し出してきた。
 それから暫く寝台の上ではちゅくちゅくと水音が鳴り続け、流石に苦しさを覚えて櫂が離れた頃には、アイチは最早息も絶え絶えと言わんばかりの状態だった。裸の胸を大きく上下させて、はあはあと荒い呼吸を繰り返している。

「ふぁ、っは……」
「……お前はどうして、そう俺を煽る」
「あ……おった、わけじゃ、ないよぉ……」
「あんな事を言っておいてか」

 震える耳朶を甘噛みし、桃色の頬をぺろりと舐めた。ひゃう、と甲高い啼き声をあげて肩を跳ね上げるその小動物さながらの仕草に、喉の奥だけで幽かにに笑う。

「期待に添えられなくて悪いが、このままここで続ける訳にはいかないな」
「き、期待してなんていないってば……」

 故意に揶揄いの色を滲ませてそう言うと、アイチは顔を真っ赤に染めてきゅっと身を縮めてしまった。一挙一動が愛らしいこの存在を、もう一度組み伏せてどろどろに溶かしてしまいたい欲望が奔流となって湧き上がるが、ぐっと奥歯を噛み締めてやり過ごす。軽口でも叩いておかなければ、こちらの方があっという間に流されてしまいそうだ。
 認識していた以上に脆かった自分の自制心に苦笑して、未だに腕の中で僕は別にそんな、だの櫂くんが言えって言ったのに、だのと零しながら胎児のように丸くなっているアイチの顎を掬って上向かせた。薄紅に色づいた唇を指の腹でそっとなぞると、少し湿り気のある柔らかな肉感が伝わってくる。それを楽しむようにふにふにと何度も弄んでいると、かぷ、と指先に噛みつかれた。ささやかな抵抗のつもりらしい。

「いつまでもぶつぶつ言っていないでいい加減起きるぞ。するんだろう? 一緒に」
「え?」
「支度」
「えっ、で、でも僕ほんとに役に立たないよ……? よくそれでエミにも叱られるし」
「構わない。これから覚えろ」
「! うん……っ」

 心底嬉しそうに破顔するアイチに、自然と櫂の頬も緩む。
 今朝だけでもう幾度目になるのか分からない口付けを交わしてから、二人は漸く身体を起こした。



* * *



 軽くシャワーを浴びて汗を流し、ついでに仄かに灯っていたお互いの熱を鎮め合ってから、二人は着替えてキッチンに立った。慣れた手つきでてきぱきと準備を進める櫂の傍らで、アイチは元より大きな目を更にぱちくりと大きくしながら流れるようなその動作を見つめている。

「やっぱり櫂くんはすごい……」
「これくらい普通だ。それより呆けていないで手を動かせ」
「あ、はいっ」

 湯に潜らせた菠薐草を冷水に晒し、軽く水気を絞ってから根元を切り落とす。たったこれだけの仕事だが、包丁を使い慣れていないどころか、台所にも滅多に立たないアイチにとってはかなりの難易度のようだった。予想以上のぎこちない手付きに、呆れを通り越して半ば感心してしまう。

「……調理実習、したことないのか」
「も、勿論あるよっ。でもその、みんな僕には包丁は危ないから持つなって言って……あと火も駄目って」
「…………」

 クラスメイトが過保護なのか、単に怪我などの面倒事が起きるのを避けたのか。どちらにせよ、やることがなくて所在なさ気に食器を拭いているアイチの姿をイメージするのは容易いことだった。
 そうしてアイチが四苦八苦している間に、櫂は水を張って火にかけていた小型の両手鍋から煮干を取り出し、手早く味噌を溶き入れた。掌の上で器用に豆腐を一口大のサイコロ状に切り、予め準備しておいたワカメと一緒に投入する。軽くかき混ぜると辺りにふんわりと麹の良い香りが漂った。

「うわあ、お味噌汁だぁ。すごいなあ」
「だから、これくらい何も凄くない。それよりそっちは終わったのか」
「あ、うん」
「なら、次はこれに卵を割って溶いておけ。ついでに味付けもしろ」
「味付け? って、なんの」
「卵焼き。お前の好みに合わせていい」

 小さな金属製のボウルを手渡され、アイチはわかった、と頷いた。とてとてと駆け寄った冷蔵庫からパック入りの卵を取り出し、危なっかしい手付きでひとつひとつ割っていく。

「破片を入れるなよ」
「き、気をつけます……、あれ?」

 力加減が上手く掴めないらしく、アイチは何度も調理台の縁に卵を打ち付けては、一向につるりとしたままの殻の表面に首を捻っている。櫂は見かねてその手の中から卵をそっと取り上げ、コン、と一回打ち付けただけで器用にボウルに割り入れてみせた。

「……角に当てるより、平らなところでやった方がいい」

 ほら、と新しい卵を手渡してやると、アイチはぼんやりと――――と言うよりもうっとりとした目つきでこちらを見上げてきた。

「櫂くん、かっこいい……」
「は?」

 まるで自分が奇跡でも起こしたかのようなその眼差しに、正直可愛らしいと思う以上に困惑する気持ちが勝る。

「たまご、片手で割れるなんてすごい。お母さんみたい」
「…………」

 多分誉められているのだろう。アイチは櫂の親友を自称するあの金髪の友人のように、言外に含みをもたせるようなことはしない人間だ。だからこれは、彼なりの心からの賛辞なのだ。
 しかし――――だがしかし、仮にも男子高校生に向かって「お母さんみたい」と評するのはどうなのだろう。

(ひょっとして、こいつは俺のことを保護者か何かのような存在だと思っているんじゃないだろうな)

 散々あんなことやこんなことまでしておいてそれはないだろうと思いつつも、ふと過ぎった考えを拭いきることができず、櫂は微かに眉を顰めた。

「……俺はお前の母親じゃない」
「へ? うん、それは勿論そうだけど」

 ほんのたとえ話なのに、何でわざわざそんなことを? と言わんばかりにきょとんとしている目が可愛くもあり、少し憎らしくもある。自分が発する言葉がどれだけ櫂の心境に波風を立てるのか、アイチはこれっぽっちも理解していないのだ。
 それこそ櫂の勝手なイメージを押し付けているのに過ぎないのだけれど、悶々とそんなことを考えているうちに、ほんの少しだけ意趣返しがしたくなった。

「……じゃあ、何だ?」
「へ?」
「お前にとって、俺は、なんだ?」
「え……っ」
「答えろ。アイチ」

 囲うようにシンクの縁に両手を付いて、逃げ場を無くしたアイチを口角を僅かに上げながら観察する。櫂の身体と調理台との狭間であわあわと顔を赤くする様子はやはり、子兎だとか子鼠だとか、そういった表現がよく似合う。身体をかがめて顔を近付けると、ひゃん、と甲高い悲鳴が上がった。今のは子犬っぽいかも知れない。

「アイチ」
「なっななな、なんで急に」
「言え」
「う〜……」

 悪い顔を浮かべて見詰める櫂と手に持っている卵との間で何度もせわしなく視線を往復させた後、アイチはやがて観念したように口を開いた。その顔はもう耳まで真っ赤に染まっている。

「か、櫂くんは……、僕の、大好きなひと……です」
「………………四十点」
「えっ」

 告げられた言葉は確かに嬉しいけれど、櫂が求めていたものとは違う。更に身体をかがめて唇同士の距離をゼロにすると、前歯を立てて咎めるように甘噛みをした。

「ひゃっ!?」
「ここは恋人だと答えるところだろう」

 今の言い方だと、まるでアイチが一方的に自分を好いているようで気に食わない。

「“お前が”俺を好きというだけじゃない。“お前を”俺が好きなんだ。それを省略するな」

 いいな? と耳元で囁くと、アイチは益々赤くなりながらか細い声ではい、と返した。



* * *



 白米と味噌汁、それに菠薐草を入れて巻いた卵焼き。あとは昨晩作った煮物の残りを温めて、食卓の上はほかほかと柔らかな湯気が立っている。

「いただきます」
「ああ」

 きちんと両手を合わせて言うあたり、育ちの良さが滲み出ているなと思う。味噌汁や煮物をつつく度においしいと歓声を上げている、その箸使いも滑らかだ。
 食事作法だけでなく、日頃の立ち振る舞いからもアイチの礼儀正しさは幾度となく感じられた。家へ上がる時には必ず靴を揃えるし、手土産も毎回持参してくる。そんなに気を遣わなくてもいいと以前に言ったことがあったが、その時はこういうことはきちんとしなくちゃ駄目だから、といつになくきっぱりした口調で断言された。

 何より「櫂くんのことを考えながらお土産を選ぶのも楽しみのひとつなんだよ」とはにかんだ微笑みを浮かべられては、それ以上太刀打ちできる筈もない。

 そんな回想に耽っていると、一向に食べ始めないことを不思議に思ったらしいアイチが声を掛けてきた。

「櫂くん、食べないの?」
「……いや」

 何でもない、と軽くかぶりを振って箸を持つ。そこで櫂はふと、ひとつの皿だけが一切手が着けられていないことに気が付いた。手頃な大きさに切り揃えて並べられたそれは、先刻アイチがうんうんと唸りながら味付けをしていた卵焼きだった。

「お前こそ、これは食べないのか」
「あ、その……出来れば櫂くんに先に食べて欲しくて」
「……まあ、構わないが」

 恐らく、櫂がどんな反応を示すのかが心配なのだろう。そこまで気にしなくてもいいだろうと思いつつも、どことなくその心理も分かるような気もする。櫂自身、一人でいるときは食事など適当に作るかもしくは惣菜で済ませることもあるが、アイチが泊まりに来ているときにはきちんと手作りのものを食べさせたいし、感想だって気にかかる。
 ましてアイチの場合、普段そんなに料理をしない方なのだから余計だろう。

 端の一切れをひょい、と摘み、醤油を入れた小皿につけてぱくりと口にする。そんな何でもない一連の動作を、アイチはまるでファイナルターンを宣言されたかのような面持ちで向かいの椅子から見つめていた。

「ど、どうかな?」
「美味い」
「ほんと!?」
「嘘をついてどうする」
「け、けど少し櫂くんには甘すぎたりしなかった? 僕、いっぱいお砂糖入れちゃったから……」
「別に。丁度良い」
「うう、良かったぁ。良かったよぉ……」
「……大袈裟だな」

 正直言うと確かに少し甘いなと感じたが、好きにしていいと言ったのは自分なのだし、何よりアイチの味覚の嗜好など櫂は疾うに把握している。それを予め見越し、中に菠薐草を入れたお陰で丁度良い塩梅になっていた。

「あ、けど……焼いたのは櫂くんなんだし、きっとおいしく出来たのもそのお陰だよね」
「それは謙遜のし過ぎだ」
「でも、僕がやってたらきっと生焼けか焦がしてたかのどっちかだろうし。やっぱり櫂くんのお陰だよ」

 きらきらと瞳を輝かせるアイチに、結局そうなるのかと心の中でだけ嘆息した。彼が必要以上に自分を卑下し、またそれ以上に櫂のことを持ち上げるのは最早お約束と呼べる程に日常化されてきたことであったが、慣れたとは言えその真っ直ぐすぎる好意にはやはり居た堪れない心地がする。

「……まあ、今回はそういうことにしておくが。それならいつかは自分一人で作ってみせろ。練習には付き合ってやるから」
「うんっ!」

 一際嬉しそうな声音で返事をすると、アイチはじゃあ僕も、と卵焼きを一切れぱくりと食べた。もぐもぐと口を動かしながら、目元をほよほよに緩めるアイチの姿を見て、ひどく安らかな気持ちになっていくのが分かる。

 こんな風に、食事ひとつを取っても先導アイチという存在が自分に与える影響というものは計り知れないのだ。


 食べ終えた後は少しだけお茶を飲んで休んでから、二人で後片付けを始めた。櫂が洗った食器をアイチが受け取り、布巾で水気を拭っていく。お皿を拭くのは得意だよ、という本人の申告にうっかり笑いを漏らしそうになったのは秘密だ。
 かちゃかちゃと陶器や硝子が触れ合う音と、蛇口から流れる水音がキッチンに響く。

「そう言えば、櫂くんって朝はごはん派なの?」
「……そうだと決めている訳ではないが」

 確かに言われてみると、朝はパンよりも米を炊いている方が多い気がする。単にその方が腹持ちが良いというだけの理由だが。

「うちはパン派なんだ。エミがそっちの方が好きらしくて」
「なら、明日の朝はトーストにするか」

 今日は土曜で、昨日の晩から来ているアイチはもう一泊していく予定だ。明日の夕飯を食べ終えた後で、櫂が自宅まで送る手筈になっている。
 
「ううん、そうじゃなくてね……、こうしてごはんとかお味噌汁とかを朝に食べるとね。櫂くんちに来てるんだなあって実感出来るから。櫂くんと一緒にいるんだっていう感じがして嬉しいなあって思って」
「…………っ」

 それだけ、と笑うアイチに、思わず手にしていた食器を滑り落としそうになる。またしてもひどい不意打ちだった。天然というのはここまで恐ろしいものなのだろうか。
 
「お前は……どうしてそうなんだ」
「え、あれ。ごめんなさい、僕また変なこと言っちゃったかな……」
「……そうじゃない」

 はあ、と深く息を吐くと、失言をしたのだと思い込んでびくびくと縮こまるアイチに手を伸ばし、果実のようなまろい頬にそっと触れた。
 こんな風に穏やかな朝を迎えて、食卓を囲んで。もう二度と味わえないと思っていた団欒の時を、目の前の少年は惜しみなく授けてくれる。

 その度に櫂は堪らなくなる。愛おしいという気持ちが、溢れすぎて。 

「お前は――――これ以上、俺を惚れさせてどうするつもりなんだ」


 え、と開いた口が言葉を発する前に、強く抱きしめてキスをする。出しっぱなしになっている水も洗いかけの食器もお構いなしに、ひたすらにその唇を貪った。


 力を失ったアイチの手の中から皿が滑り落ち、櫂の足を強打するまで。




end.



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