The Cat's Whiskers



「……何やってんの」
「……何なんだろうね」

 部屋に入ってくるなりそう言い捨てたヒロトに対し、緑川は遠い目で返答した。低く伸びやかな彼の声はいつも以上に耳の奥まで凛と響き、愛用している香料の香りが鼻腔を爽やかに擽る。当然と言えば当然だが、五感も通常のそれとは異なっているらしい。

「朝から具合悪いとか言って閉じ篭ってたのはそのせいか。一応訊くけど……コスプレ?」
「俺がそういうことを好んでやるように思う?」
「思わないね。……じゃあ、」
「ああ。……誠に遺憾ですが、本物です」

 ヒロトが唖然とし、緑川が憮然としている原因――頭上にそびえる三角の猫耳と豊かなしっぽは、本人の感情を置き去りにふわふわと呑気に揺れていた。


 そもそも何故こんなことになったかという原因は定かではない。もし関連があるとしたら、恐らく何日か前の夕方に遭遇した出来事ではないかと思う。
 その日、緑川はサッカーの練習でくたくたになった身体を引きずるようにして路を歩いていた。ハードメニューをこなした後の男子中学生の腹具合は想像に難くない。空腹中枢が送る信号に従うままに向かったコンビニでスナック菓子や飲料を買い、行儀が悪いと自覚しつつも食べ歩きながら帰路に着いていると、道外れの茂みの中からにぃ、にぃと鳴き声が聞こえてきた。
 枝葉をかき分けて覗いてみると、そこには小さな猫が蹲っていた。白い毛並みは心なしかしょんぼりと草臥れ、よく見ると前足に硝子の破片が刺さっている。綺麗な桃色をしている筈の肉球は痛々しく真っ赤に腫れていた。
 基本的に動物に弱い緑川はそんな状態の猫をひどく哀れに思い、背負っていたショルダーバッグを肩から降ろすと、なるべく刺激しないようにゆっくりと近づき、硝子片をそっと抜いてやった。更に手にしていたミネラルウォーターで砂や泥を洗い流すと、傷口にハンカチを巻いてやったのだった。
 思い返してみると随分不思議な猫だった。真雪の毛並みに黄金と深青のオッドアイという神秘的な外見で、首輪をしていなかったことから野良である筈なのに、人間の緑川のことを全く怖がらなかった。手当ての間も暴れることもなくただじっと手元を見つめていて、頭を撫でようとしたら逆に自ら擦り寄って来さえした。あれは単に人懐こい、で済ませるには些か過ぎていた気がする。立ち去ろうとした緑川を微動だにせず、ひたと見つめ続けていた姿にも、到底ただの猫とは思えない高貴さがあった。


「つまりはその猫の恩返しってこと?」
「そういうことになるのかも。っていうかその言い方だとどっかの有名スタジオのアニメーション映画みたいだな」
「仮にその設定をなぞるとすれば、緑川はこれから猫の国に行くことになるね」
「大変そうだから遠慮します」

 頭上にちょこんと収まった三角耳と、ズボンからはみ出して尚長く垂れるしっぽ。どちらも緑川の髪と同じ鮮やかな新緑色の毛並みで、耳の方は内側にいくにつれて少しずつ色は薄くなり、中央は血管の透けた薄淡い紅色になっている。時折外を通る車の音や鳥の鳴き声に反応してぴくぴくと動くのが面白かった。

「三色団子みたいな色合いだね」
「やめろよそういうこと言うの。お腹減ってるのに」
「食欲は相変わらずか。そうだ、こんなの食べる?」
「あ、もらうもらー……う?」

 ヒロトが胸元のポケットから取り出した一口大のチョコレートに、緑川は嬉々として手を伸ばそうとした……が、触れる寸前でぴたりと手が止まってしまった。ぴんと垂直に立っていたしっぽは二倍に膨れ上がり、耳の毛までもがぶわりと逆立っている。額には僅かに冷や汗が浮き、表情もひどく強張っていた。

「どうしたの、急に」
「いや、何かわかんないけど……それ食べちゃやばい気がする」
「ふうん……? まあ食べたくないなら無理強いはしないよ」
「食べたくない訳じゃないよ! 今すっごくお腹減ってるんだし。ただ何だか、虫の知らせというか……とにかく駄目な気がして」
「その猫耳のせいなのかな? けど他に食べ物なんて持ってないし……。食堂――は、その格好じゃあ行けないか。仕方ない、何か適当に見繕ってくるからここで待っててよ」
「ああ、ごめん。……ところでさ、」
「何?」
「元に戻ったら、さっきのチョコもらっていい?」
「はいはい、元々お前の為に買っておいたものだから大丈夫だよ」 神妙な顔つきで何を言い出すのかと思えば、猫になっても変わらない食い意地にヒロトは小さく笑いを零した。ほっとひと安心している緑川を尻目に、部屋を後にする。
育ち盛りの中学生が大勢いることもあって、お日さま園の食堂内にある冷蔵庫には何かしらすぐ摘めるものが常備されている。緑川の腹を完全に満足させることは無理でも、多少は足しになるだろう。

 後で分かったことだが、どうやら猫にとってチョコレートは中毒症状を引き起こす可能性があり、食べるのは非常に危険らしい。緑川がそれを察知したのは猫化したことによる本能の恩恵か、はたまた本人の第六感か。それはここでは追求しない。



「朝の残りのハムエッグがあったよ」
「やった! 食べる食べるっ」

 皿ごとラップで包まれていたハムエッグを持っていくと、緑川は目を光らせて近寄ってきた。ふんふんと匂いを嗅ぐ仕草は無意識によるものか、とりあえず非常に猫っぽい。これも耳としっぽの影響だろうかと考えながらヒロトがラップを剥がしてやった途端、あろうことかそのままぱくりとかぶりついてきた。

「ちょっと、いくらなんでも行儀悪いよ。フォーク持って来てるんだから」
「あ、ごめん! おかしいな、なんか食べ物見たら止まらなくなっちゃって……」
「ひょっとして中身も猫になってきてるんじゃない?」
「冗談にならないことを言うなよっ」

 そう言いながらも緑川は卵を食べる手を止めようとはしない。頬についた食べかすを拭うと、ヒロトはそのまま指先を舐めた。黄身の濃厚な味が口に広がる。
 小腹を軽く満たしたところで、ふたりは改めて現状を確認することにした。猫耳は相変わらず新緑色の頭に収まったままで、蒲の穂のようなふわふわとしたしっぽもまた変わらずそこに在る。

「どうしたら治るんだろうね。これ」
「うう、これじゃ外に出られない……」
「俺としては可愛いからこのままでいい気もするけど、確かに他人に見られるのはちょっと不都合かも」
「へ? それどういう……みぎゃっ!?」

 唐突に耳を撫でられて、緑川はびくりと身を竦ませた。内側を指の背でなぞられた後、親指と他の指とで挟むようにしてふにふにと揉みこまれる。

「あ、や、にゃんか、くすぐった……、ふにゃっ」
「ふふ、言葉遣いまで猫みたいになってる。それにしてもこの耳、すごくふわふわだね。こっちはどんな感触がするのかな」
「ぴゃああああっ!?」

 敏感な反応に気を良くしたのか、ヒロトはそのまましっぽの方にまで手を伸ばしてきた。もこもことした先端をきゅっと握られて、緑川はたまらず甲高い鳴き声を上げて眼前の肩にしがみつく。

「ふぁっ、そこ、触んないでぇ……、ちから、ぬけるぅ……」
「あはは、耳がぺたんこになってる。……可愛い」
「ふみゃぁあああっ!」
「うわっ!」


 がりっ!


 敏感な内耳を甘噛みされて、とうとう緑川はヒロトに思いっきり歯を立てた。白い首筋にくっきりとついた歯型は見る間に赤く滲んで、雫がつう、と軌跡を描く。

「ったぁ……。あー、血が……」
「……あ! ご、ごめ……」

 ヒロトの顔が痛みに顰んだのを見て、緑川ははっと我に返った。恐る恐る傷口を見遣り、惨状を確認して顔を青くする。その一連の表情の変化はまさに起伏の激しい猫そのもののようだった。

「ほんとごめん……、ついびっくりしちゃって」
「ううん、俺もちょっと調子に乗りすぎた」

 申し訳ない程に恐縮している緑川に、不埒な真似を働こうとしていたヒロトはかえって居た堪れない気持ちになった。慌てて宥めてみるものの、その顔色は未だ晴れない。

「お、俺ばんそうこう取ってくる!」
「無理しなくてもいいよ。人前に出たくないんだろう?」
「でも……」
「平気平気。こんな傷舐めておけば……って言ってもこの位置じゃ無理か。まあ、じきに血も止まるし大丈夫だよ」
「舐める……」
「? 緑川、どうし……うわっ!」

 未だじわじわと血の滲むヒロトの首の傷を、突然ざらりと生温かいものが襲った。ぬらりと湿ったそれは間違いない、舌の感触だ――但し、人間のものとは全く異なった。
 確かに舐めればいいとは言ったが、まさか本当に実践されるとは思いも寄らず、ヒロトは凄まじく動揺した。猫耳しっぽのついた可愛い恋人が自分の首筋を舐めているという非常に素晴らしいシチュエーションに、沸き立った血が一気に全身を駆け巡る。
 が、それ以上に鋭く突き刺さる痛みの方に耐え切れず、ヒロトはぺろぺろと傷口に舌を這わせる緑川を断腸の思いで静止した。

「み、緑川、待って! 痛いっ!」
「ふえ?」

 突然のストップに目を丸くする緑川をよそに、若干涙目になりながら傷口に視線を遣ると、そこはまるでヤスリをかけたように腫れ上がっていた。出血は幾分収まったものの、見た目の痛々しさは倍増してしまっている。

「っつー……」
「な、なんでぇ……? 手当てのつもりだったのに」
「あー……」

 緑川はどうやら、猫の身体的特徴についてはあまり詳しくないようだ。ちょいちょいと指先で招くと、疑問符を浮かべながらも素直に寄って来る。
 そんな彼の頬っぺたを、ヒロトはむにっと両手で捉えた。一瞬だけちょうやわらかいとかいう雑念が脳内を駆け抜ける。

「緑川、あーんしてごらん」
「? あーん」

 口を開けさせ、腔内に収まった舌の表面を確認するとそこには予想通りのものがあった。やれやれと息をついてから、ヒロトはちょっとだけ苦笑を浮かべて緑川の黒い瞳を覗き込む。普段は丸くてくりくりしているそれも、今はアーモンド状に長細く変形していた。

「どうやら今の緑川は、文字通りの猫舌になってるみたいだね」
「ねこじたって、熱いの食べられないアレ?」
「それじゃなくて。猫の舌って、すごくざらざらしているんだよ。肉を削ぎ落としたり、毛繕いをしたりする為に」
「え、そうなの?」
「そう。だから今のお前の状態だと、傷を舐めるのにはちょっと向いていないかな」
「そうなんだ……全然知らなかった」

 緑川は神妙な顔をすると、自らの手の甲を試しにぺろりと舐めてみた。途端に走るざらついた感触と僅かな痛みに、ぴくんと身体を震わせる。

「おおー、ほんとだ。これじゃ傷舐められたら痛い筈だ」
「そういうこと。そんな訳だからさ、その舌は舐めるよりも是非こういうことに使ってみてよ」
「へ? ……んっ」

 そう言うや否や、ヒロトは緑川の顔を引き寄せて唇を重ねた。絡まる舌に生えた無数の突起が痛覚を粗く刺激する。けれどその中に確かに含まれる快感があり、貪るように何度も何度も深く呼吸を交わした。

「ん……。んむっ、ふぁ……」
「っ、はは……、舌がひりひりする」
「――っもう、急に何すんだよ! びっくりしただろっ」

 とろりと伝う糸を舐めとりながら唇を離すと、緑川はきゃんきゃん騒がしく捲し立てた。けれどその声に拒絶の色が含まれないことは、酸欠のせいだけではない赤さに染まった顔が雄弁に語っている。「緑川が俺を誘惑するのが悪い」
「にゃっ!?」
「さっき舐めてきたのなんて、誘ってるようにしか思えなかったよ。そもそも今日はやけに積極的だし。もっと触ってって言ってるように思えるのは、俺の自惚れじゃあないだろう?」
「う……だ、だってヒロトの手、なんかいつもより気持ち良くて……。声も身体の芯まで響いてぞくぞくするから、その……甘えてみたくなって」
「へえ……、ひょっとしてそれも猫耳しっぽの効果なのかな?」
「えぇっ、まさか流石にそんな……、……ん?」
「……緑川?」

 ふとその瞬間、緑川の脳裏に閃いた場面があった。
 あれは例の猫を助けた後、手当てついでに持っていた菓子パンを分けあって、頭や喉を撫でたりして遊んでいたとき。ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄る姿にきゅうんと胸を打たれて、その時ぽつりと漏らした一言。


『お前はいいな、素直に甘えることができて。俺はぜーんぜんダメだ。つい意地張っちゃったり照れたりしてさ。いっそ俺も猫になっちゃえば、思い切りヒロトに甘えることができるのかなぁ』


「あー、ひょっとして、そゆこと……?」

 そう言えばあの時、呟きを耳にした猫の双眸が一瞬きらりと光ったように見えた。気のせいだろうと流してしまったが、まさかあの何気ない呟きを、あの不思議な猫が律儀にも叶えてくれたのだとしたら。
 唐突に沈黙した緑川は、やがてヒロトが訝しむのも気にせず一人でうんうんと頷いた。確かにこんな非常識な状況に置かれたことで、心境的にも甘えやすくなったような気もする。何だってこんな猫とも人間ともつかない中途半端な格好になったかは分からないが。

「まあ完全に猫の姿になったら、俺だって分かって貰えないかもだしな。それじゃあ意味が無いし」
「あの、そこで一人で納得されても困るんだけど。どういうこと?」
「ん? ああ」

 不可解そうに眉を寄せるヒロトに対し、緑川は悪戯っぽく微笑むとその首根に勢い良く飛びついた。

「わっ」
「どうやらやっぱりこれは猫の恩返しみたいだよ。猫みたいにめいっぱい、甘えて甘えて甘えまくれっていうお達しらしい」
「へえ、それは……随分と素敵な示達だね」
「だろ?」

 今の自分は猫なのだから、恥も外聞もないものとして素直になるのもいいだろう。もっと傍に居たい、触っていたいという貪欲な欲求を、この耳としっぽは肯定してくれるのだ。緑川はそう考えて、ヒロトの首筋に顔を埋めた。すんと鼻を鳴らせば柑橘系の爽やかな香りに混じって、ほんのり鉄の匂いがする。

「もう噛まないでよ?」
「噛まないよ。ヒロトが変なことしなければね」
「変なことって、例えば……」

 ヒロトは緑川の背に腕を回し、そのままゆっくりと体重を掛けてきた。秀麗な顔が間近に迫り、その向こうに天井が映る。床の上に横たわるしっぽが片手でするりと撫でられた。

「……こんなこと?」
「そんなこと」
「大変だ。それじゃあこれからたくさん噛まれることになる」
「なんなら舐めて治してやるよ」

 くすくすと笑いながら降りてくる唇を額や頬、鼻先、それから頭上の猫耳に感じながら、緑川はぺろりと軽く舌舐する。

 やっぱり少しだけ痛かった。 
 

end.



――――――
カオさん主催の猫耳緑川アンソロジー「ねこみみどりかわっ!」への寄稿物でした



戻る