Sample.1




 まったく奇妙な世界だった。

 昼かと思えば夜になり、塔かと思えば洞窟にいる。突然海の中を歩いているときもあった。周りを泡のような不思議な膜に覆われているため溺れることもなく、皮一枚ほどを挟んだすぐ向こうに色とりどりの珊瑚や魚たちが踊る様はため息が出る程の美しさだったが、出没する魔物は反して非常に手強かった。地上のどこでも―そこかしこに闇が蔓延る地底世界に於いてすら、これほどまでに強力なのは類を見ない。そんな場所での連戦続きにすっかり消耗した一行は、来たるべき最奥部の戦いに備え、適当な場所を見つけて野営の支度に取り掛かっていた。その場にいた神父や農夫すら正しくヒトであるかも怪しい謎の教会を出立してより約半日ほど経ってからのことである。

「しかし、改めておかしな場所に迷い込んだものだな」

 そう言ってライアンが見上げる先にあるのは夜空。とは言っても星らしきものが見えるからそう称しているだけで、実際のところは今が本当に夜であるかは分からない。何せこの世界の空ときたら、少し目を離した隙に青空から夜空へ、夜空から夕空へところころ移り変わるのだ。お陰で体内の時間感覚はすっかり狂わされ、トルネコが所有していた懐中時計を頼りに食事や睡眠を取ってはいるが、その時計自体が正確かどうかも疑わしかった。短針の進みが長針よりも早いだなんて事象も、ここでは容易に起こり得る。

「一人旅の時分も含めて随分と世界を巡ってきたつもりだが、流石に斯様な所は初めてだ」

「ホントにねぇ。あらかたのダンジョンは制覇したと思ってたけど、こんな辛気臭いところがまだ残ってたなんて」

 ぱちん、マーニャの嘆息に合わせて焚火の火の粉が弾けて踊る。せめてスロット台のひとつでもあれば気も紛れるんだけど、といういつもの決まり文句に皆が苦笑する中、アリーナだけは私は鍛錬場の方がいいな、などとひとり真面目に応えていた。

「でも本当に、ここは一体どこなんでしょう。魔界でもなく天界でもない」

「少なくともバトランドではないことは確かですな。このような場所は有史以来聞いたことがない」

「それを言うならサントハイムだってそうじゃ。こんな面妖な地、我が国の歴史書のどこにも記されておらんわ」

 ブライとライアンの会話に、それまでひとり黙々と火にかけた薬缶を見ていたソロがふと顔を上げた。

「……あのさ、」

「うん?」

「国史、ってどんなもん?」

「どんな……とは?」

「あー……ほら。俺、ずっと山奥に籠もりきりだったから。みんなの国のこととか、歴史とか、そういうの全然知らないんだ。それぞれの文化とかさ」

 田舎者だから、と少しばかりきまり悪げに頬を掻く様は実に少年らしい。

 若年ながら世界を救うという重責を背負わされたソロは常日頃から勇者たらんと気を張っているが、時折こうして年相応の表情を覗かせることがある。殆どが彼よりも年長者で占められる導かれし者たちは、そんな勇者の様子を目にする度、どうにも節介を焼きたがるきらいがあった。

「確かに私達、色んな国の出身なのに、それぞれの故郷のことを話したことはほとんど無かったですね」

「そんな余裕なかった、とも言えるけどね」

「ならばこれを機に、各々自国について語り合ってみるのはどうだろうか。ひょっとしたらこれからの旅路で助けになる知識もあるかも知れない」

「それって、歴史の授業みたいな?」

 アリーナが僅かに目を曇らせた。授業、という言葉に何がしかの嫌な記憶があるらしい。傍らでは従者二人がそれぞれ何とも表現し難い表情を浮かべている。ライアンは快活に笑って応えた。

「なに、そんな大仰なものではない。単に自分の故郷の特色、例えば水がうまいとか木が多いとか、作物は何が採れるだとか、どこそこの地は素晴らしいとかの見所を語ればいいのだ。勿論、流れに応じて史実や逸話を混じえても構わぬ」

「へえ、それなら面白そう!」

「それなら私は、珍しい謂れのある土地があれば知りたいです」

「そんじゃああたしは、地酒がおいしいとこ!」

 女性陣が話題に乗ったところで、他の皆もやれあの土地柄は、だのあそこの名物は、だのと俄に騒ぎ出した。その喧騒から一拍置いたところで静かに微笑んでいるエルフの姫君に、ソロはふと視線を送る。

「あんたはどうする? 参加するの?」

「私、ですか?」

「聞きたい! エルフって普段どんな暮らしをしてるのか、昔からすごく気になってたの!」

「姫様、人の会話に突然割り込むものではないと何度申し上げたら……」

「いいじゃないの少しくらい。ね、教えて? ロザリー。折角だもの、もっとあなたのことが知りたいわ」

「……はい。私でよければ」

 好奇心にきらきらと輝く苺色の瞳に請われ、ロザリーはうっそりと月のように頷いた。

「アンタはどうすんの?」

 マーニャは馬車の向こう、車体に背を預けて音もなく佇んでいる存在に問い掛けた。それに対する返答はないが否定もない。有無を言わせず是と見なすと、情熱の踊り子はよく通る声で決まり! と手を打った。影の中、微かに銀の瀑布が揺らめく。

「それじゃ、誰から始めましょうか。一度に喋る訳にゃいかんでしょう」

「では口火を切った私から。後は右から順繰りでどうですかな」

 一同は焚火を中心にぐるりと車座になり、一時の方角にライアン、それからクリフト、アリーナ、ブライ、トルネコ、マーニャ、ミネア、ロザリーが座り、最後にソロが十二時の位置に腰を下ろした。銀の魔王は結局動く気配は見せなかったが、いずれはマーニャとアリーナに引きずり出されるだろう。彼はどうにも彼女たちに苦手意識があるようだった。かつての行いに対する負い目もあろうが、単に自らの伴侶と正反対の押しの強い女が不得手なだけかも知れない。

 おほん、と咳払いが夜幕に響く。合いの手のようにもう一度爆ぜた火の粉が紛い物の星に溶けて消えた。


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