Sample.





 何やら懐かしい夢を見ていた気がする。
 ぼんやりと霞む思考をそのままに、ベッドサイドに置いていたスマートフォンを引っ張って時間を確認した。六時二十五分。起き出すにはまだ些か早い。くあ、とひとつあくびをし、スマフォを手探りで元の位置に戻すと、目覚めた気配を感じたのか、腕に囲っていた「それ」がもぞりと身じろぎした。
 上掛けのブランケットの中にすっぽり埋もれるほどの小柄な身体。ぴよぴよと黒い毛先がはみ出しているのがなんとも愛嬌があって、夢見心地のままでふわりと笑った。
 腕の包囲網をひとまわり狭めて、すり寄ってくる体温を愛しげに撫でる。昼間はつれない態度ばかりだが、たまに共寝をした朝だけはいつもこうして甘えてきてくれる。
 久々にもらえた休日だ。普段構ってやれない分、今日は思う存分甘やかしてやろう。ねえ―
「可愛い、アイさん」
 そう名前を呼んだ瞬間、それまでの砂糖菓子のような雰囲気が途端に消し飛んだ。
 あれ、と訝る間もなく、次いで地獄の底から発したような怨声が響く。

「……誰がアイさんだ」

 ようやく覚醒したロスが、現状を把握して弁明を始めるより早く。
 その整った頤に見事なヘッドバッドをかまし、相手が悶絶している隙に手早く身支度を整えたアルバは、携帯と財布だけを尻ポケットに詰め込むと、止める間もなく部屋を飛び出して行ったのだった。


「―で、朝っぱらから前科百犯みたいな顔でどかどか乗り込んできたと思ったら、わざわざそんなオモシロ話を聞かせにきてくれたの?」
「拳による顔面整形を受けたくなければその醜いニヤけ面をどうにかしろ」
「ちょ、仮にも芸能人相手にそんな言い方ある!?」
 いつも通りのツッコミの後、ちらりと窺った深紅の目が予想以上に危険な光に染まっているのを認め、《アルバ》は大人しく口を噤んだ。これ以上ふざけていては本気でタコ殴りの憂き目に遭う。
 キュッと身体を縮こまらせて傍らの存在に縋り付くと、あやすような手つきで喉元を撫でられた。これが猫だったら確実にゴロゴロ鳴いているところだ。
「まあなんだ、おおかた黒さんが転がり込んでることを期待したんだろうが、生憎ここには来てないぞ」
 《アルバ》を撫でる手の主―目の前の前科百犯形相者、もといロスとよく似た風貌を持った彼の実兄・シオンは、古ぼけた卓袱台に頬杖をつきながら淡々と答えた。そうする間にも右の人差し指が《アルバ》のささやかな喉仏をなぞり、そのまま輪郭へと伝っていく。やん、と甘い声が上がるたび、ロスの目許にぴきりと皺が刻まれた。
「隠すとためにならねぇぞ」
「隠してると思うか? この状況で」
 耳の後ろをするりと撫でられ、《アルバ》がうにゃん、とふやけた声で啼いた。白地にマジックででかでかと「六本木ヒルズ」と書かれた、サイズの合わないシャツを一枚ひっ被っただけの肢体はそこかしこにキスマークが散り、剥き出しになった腿の内側には乾いた白い軌跡がこびりついている。一方のシオンも似たような出で立ちで、こちらは逆に下半身をスラックスにねじ込んだだけで、赤い痕の残る裸身を惜しげもなく晒していた。
「お前と違って慎み深い質なんでな、流石に兄が来訪してるさなかにその弟にハメるような真似はしねえよ」
「……朝っぱらからサカってんじゃねえ」
「朝からじゃないよー、昨日の夜からだよ」
「んなこたどーでもいいんだよ!」
 ぷつりと忍耐の限界に達したロスは、近くの壁を思い切り殴りつけた。おんぼろの壁がばきりと悲鳴を上げ、綺麗な拳大の凹みが出来上がる。その音と怒鳴り声に《アルバ》はぴゃっと肩を竦め、シオンはやや目を眇めてうるさそうに頭を掻いた。
「弁償しろよ、その壁」
「うるせえ。どうせ元々ボロ家なんだ、この程度の凹みなんか今更だろ」
 シオンは人気絶頂のビジュアルユニット『アルバトロス』―つまりはロスと《アルバ》二人のプロデューサーであり、二人が所属する事務所の代表というなかなかの立場にありながら、どういう訳かこの築四十年になる海沿いのボロ、もとい古めかしい借家にわざわざ賃貸料を支払って住んでいる。ちゃんと金も持っているのだし、もう少しマシな所に引っ越してはどうかと周囲が再三諫言しても、何故か頑として聞き入れようとはしなかった。以前は更にボロボロな六畳一間のアパート(そしてやはり海沿い)住まいだったため、本人的にはこれでも譲歩したつもりらしい。
 歩く度に床板はギシギシ言うし、すきま風は吹くし、雨樋は錆びて今にも崩れそうになっているしで、一体何がよくてこんな所に住み着くのか、やや潔癖の気があるロスからすると兄の思考は到底理解不能だった。おまけに最近では《アルバ》などの+α要素までここに転がり込んでいるため(事務所からちゃんとした住居を提供されているにも関わらずだ)、元々狭い家が更に狭くなっている。
「それがどうした?」
「あぁ?」
「ここがボロ家だろうが何だろうが関係ないだろ。オレが言いたいのは、てめえの失態の八つ当たりをこっちに向けんなってことだけだ」
「……っ」
 卓上に置いていた煙草を一本取り出して火を点け、殊更深く吸いこむと、シオンは肺に溜まった煙をわざと弟の顔へ吹きかけた。纏わりつく臭いと煙たさに不快感を露わにしたロスは今にも射殺しそうな目で睨みつけるが、シオンはものともしていない。皮肉気に口を歪めると、同じく卓上にあったビールの空缶を引き寄せ、二、三度叩いて呑口に灰を落とした。
「朝っぱらから恋人に逃げられた挙げ句オレらに当たり散らして、みっともないことこの上ないな。これ以上恥の上塗りしたいならどっか余所でやれ、鬱陶しい」
「…………」
「ろ、六本木、もうその辺で……」
 朝方にいきなり突撃をかまされて不機嫌とはいえ、あまりにもあんまりな言い種に、事態をはらはらと見守っていた《アルバ》は思わず待ったをかけた。
 恋人に逃げられ、実の兄にもけちょんけちょんにこき下ろされて、既にロスはぐうの音も出せない程に凹んでいる。何も言い返さない所を見ると、本人的にも八つ当たりの自覚はあったのだろう。
 シオンは《アルバ》を一瞥し、もう一度ロスに視線を戻すと、「喉渇いた」と言って煙草を咥えたまま台所へと向かっていった。真新しい爪痕が残る背中を見送ってから、《アルバ》は改めてその場に座り込んでしまったロスに向き直る。片膝を両手で抱きかかえ、顔を伏せて声もなく俯く様はまるきり叱られた犬のようだ。真っ黒で綺麗な毛並みの大型犬。
(何だかんだ言ってお兄ちゃん大好きだからなあ……コイツ)

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