フードファイト!ヴァンガード2



 朝、彼は日の出と共に目を覚ます。
 低血圧の気があるため、半身を起こした状態で5分程寝台の上でぼーっとして、やがてのそのそと動き出す。軽くシャワーを浴びてから髪を乾かし、窓際の鉢植えに水をやる。一人用の小さなケトルで沸かした湯で珈琲を入れ、一息ついたところで寝間着替わりのトレーナーを脱いで身支度を整えた。
 髪をセットし終えたら上着を羽織ってポケットに携帯と財布をねじ込み、履き慣れたスニーカーに足を入れて部屋を出る。鍵を回して戸締まりをした後、小さく息を吐いて空を振り仰いだ。

 ――雲一つない快晴の空。

 櫂トシキの一日は、こうして始まる。





 建て付けの悪い戸を開けた途端、泣き出しそうな声が耳に届いた。

「うう、なんでぇ……? 昨日までは大丈夫だったのに……」

 眉を顰め、店の奥にある厨房に行くと、割烹着を着た白い背中が小さく丸まりながら何やら炊飯器をべたべたと弄くり回している。どうやらこちらの来訪には気付いていないようだ。

「……おい」
「どうしよう……これじゃあ間に合わないよ……」
「おい」
「スーパーとかで買ってきたほうがいいのかな……でもお客さんには炊き立てのごはん食べて欲しいし、いくつくらい買えばいいかも分からないし、そもそもあんまりお金もないし」
「おい!」
「ふえぇっ?! ……あ、おはよう櫂くん!」
「……何をしているんだ」
「あ、えっと、ね」

 声気を強めて呼びつけたところで漸く振り向いたその人物――アイチは櫂の姿を捉えてぱあっと笑顔を浮かべたが、しかしすぐさま俯いてしまう。それに合わせて割烹着と揃いの白い三角巾もへなりと力を失った(前々から思っていたが、この三角巾実は生きているのではないだろうか。犬猫の耳や尻尾の如く、あまりにもアイチの心境とシンクロしすぎている)。

「炊飯器のスイッチが入らなくて……。このままじゃ、ごはん炊けないかもしれないんだ」

 潤んだ瞳で告げられた言葉に、櫂は眉根を寄せた。定食屋で米が炊けないというのは致命的だ。

「昨日までは普通に使えたのか?」
「うん、ちゃんと炊けてたよ」
「その時に何かおかしな様子は」
「ううん、なかった」

 腕を組み、どうしたものかと思案する。櫂の自宅にある炊飯器は一人暮らし用の小さなものだから、とてもじゃないが飲食店に必要な分量など賄えない。
 鍋で炊くという手もあるが、そんな難易度の高い作業をアイチが出来る筈がない。水加減を間違える程度で済むならかわいいもので――職業柄それもどうかとは思うが――、下手をしたら爆発の危険がある。いや冗談抜きで。
 代わりに自分が鍋を見ていればいいのかも知れないが、それでは今度はあまりアイチの様子を見ることが出来なくなってしまう。

(正確にはアイチでなく、こいつにまとわりつく連中の監視――だ)

 アイチは生来おかしな奴に絡まれやすい体質なので、気を抜けばあっという間に見ず知らずの馬の骨がちょっかいを掛けてくるのだ。そんなのは断固として許す訳にいかなかった。現に先日も、櫂がどうしても外せない用があって店に顔を出せずにいた途端にあんな――――。

「櫂くん?」

 不思議そうに声を掛けられ、はたと我に返る。軽くかぶりを振って脱線した思考を戻すと、訝しむ眼差しを何でもない、と受け流した。

「とりあえず一旦見せてみろ。直らないようなら早めにメーカーに連絡をして、最悪今日は貼り紙を出して麺類だけにした方が良いかもな」

 白米ありきのメニューがメインと言えど、最低限うどんや蕎麦、ラーメンの類の備えはある。櫂のその言葉にアイチは暗い顔のままうん、と頷いた。
 早速問題の炊飯器を見てみると、確かにいくらスイッチを押してもうんともすんとも言わない。少しくすんだクリーム色をしたそれは細部まで丁寧に手入れがされていて、長年大切に扱われてきたことが見て取れる。蓋を開けて中を覗くと、研がれた米と水が自分たちの出番を静かに待っていた。

(特別問題があるようには見えないが……電源関係がやられたのか?)

 断線でもして電源が入らなくなっているのかも知れない。そう思って櫂は炊飯器の後ろ側にある電源コードを調べようとした。


 が。


「………………おい」
「は、はい!」

 思わず地獄の底から唸るような超低音の声が出た。それを聞いたアイチがびくりと肩を跳ね上げたが、正直このくらいの態度で済ませたことは誉められてもいいだろう。

「…………プラグ、刺さってないんだが」
「…………えっ?」
「…………」
「…………」

 櫂が無表情に指差した先には、だらりと力無く垂れ下がる電源コードと、虚しく壁に貼り付いたコンセントの姿があった。


* * *


 ごめんなさいごめんなさいと何度も平謝りするアイチにそれ以上何か言う気にもなれず、櫂は野菜の下拵えや食器の準備などの作業を淡々とこなした。このひとつ年下の幼なじみがどうしようもない天然で、なおかつドジっ子と呼ばれる存在であることは重々承知していたし、結果的に丸く収まったのだからそれで良いだろう。……若干精神力が削られた気がしないでもないが。

「……こっちは終わった」
「あ、ありがとう! ごめんね櫂くん、いつも手伝って貰っちゃって」
「別に。……お前一人に任せていたら、店が崩壊しかねない」

 素っ気ない物言いに、アイチはもう一度ごめんね、と眉を下げて苦笑する。ここで素直にお前のことが心配だから手伝いたいんだ、そんなに気にすることじゃないと告げられないのが櫂トシキが櫂トシキたる所以である。
 想いを寄せ続けて早数年。告白も出来ずに悶々とした日々を過ごす中、ただ邪魔者の排斥にだけは余念がなかった。



「おつかれさま、櫂くん。あとはもう開店まですることもないから、休憩してくれていいよ」
「ああ」

 テーブル拭きや備品の補充なども一通り終え、どさりと近くの椅子に腰掛けた櫂の目の前に、これよかったら食べてという控え目な声と共にすっと皿が差し出された。その上にはおにぎりが数個、きちんと整列されて乗っている。横に立ったアイチを見遣ると、少し決まりが悪そうな顔で胸の前で指をもじもじと絡ませていた。

「ゆうべの残りもので悪いんだけど……櫂くん、今日も朝ごはん食べてきてないんだよね?」
「いつもと同じだ。珈琲だけは飲んできた」
「なら……」

 きらきらと期待に満ちた目で見つめられて、櫂が断れよう筈もない。実のところ彼は元々こうしてアイチに気にかけて欲しいが為に、わざと朝食を抜いて来ているのだから。

「このまま捨てる訳にもいかないからな。……食ってやる」
「! 僕、お茶の準備してくるね!」

 表面上ではいかにも仕方がないといった態度を取ってみせるも、内心ではぱっと顔を輝かせるアイチにどうしようもない程に心をさざめかせている。絵に描いたようなツンデレぶりを発揮する櫂に、突っ込みを入れられる人間は残念ながらこの場にはいなかった。

 ぱたぱたと割烹着の裾をそよがせながら店の奥に向かったアイチが、やがて手に丸盆を持った状態で再びぱたぱたと戻ってくる。盆の上にはそれぞれ瑠璃色と緑青色をした小さな湯呑みと急須、それに茶托が乗っていた。
 用意されたおにぎりは炊き込みご飯を三角に握ったもので、牛蒡や人参、鶏肉などが具材として入っている。残り物だという言葉の通りに確かに少し風味は落ちていたが、それでも充分に食べられる味をしていた。

「ど、どうかな。それ、前に櫂くんに教えてもらった通りに作ってみたんだけど」
「形がいびつだ」
「あう……」
「けれど、味は悪くない」
「ほんと? やったあっ」

 ほんの少し褒めるだけで、まるで宝でも見つけたかのように喜んでみせる。そんな素直な気性のアイチに対し、沸々と言葉にならない想いが込み上げてきて、その感情が生み出す衝動のままに櫂はふっと目の前の人物に向かって片手を伸ばした。

「――櫂くん?」
「アイチ……」


 きょと、と大きな目を瞬かせている間にも、そのまろい頬に向かって櫂の手はどんどん近付いていく。やがて指先が肌に触れ、柔らかにかかる瑠璃色の髪をそっとかき上げようとした瞬間――――



「おはよーございますアイチくん!!」
「あ、レンさん」



 ガラッと勢い良く入り口の戸が開かれ、それと同時に鳴り響いた声に櫂は盛大にずっこけた。

「ああ、今日も可愛らしいですねアイチくん。純白の割烹着が実によく似合っています」
「おはようございますレンさん、今日も早いですね。まだ開店前ですよ?」
「アイチくんに会うためなら多少のフライングも気にしません」
「そういう問題じゃ……」
「関係者以外は開店前は立ち入り禁止だ。帰れ」

 来て早々に口説きにかかるレンに対し、櫂はアイチの両手をはっしと掴んでいるその手をべりっと引き剥がした。二人の間に自分の身体を割り込ませ、絶対零度をした翠の眼差しで容赦無く睨みつける。対するレンもそれを受け、同じくらい鋭い深紅の視線で応酬した。
 
「おやおや、僕はお客様ですよ? よくもまあそんな口のきき方が出来るものですね。躾のなっていないバイト君こそ帰ったらどうです」
「生憎、お前みたいな常識のない人間はそもそも客として認めていないものでな。早く出て行け」
「うるさいですよこのムッツリ」
「黙れ電波」
「…………」
「…………」

 片や櫂は綺麗な丘陵を描く眉を盛大に顰め、片やレンは優雅な孤を描く口元をぎり、と歪ませる。火花どころか爆炎を捲き上げそうな二人の脇で、身の置き場のないアイチはおろおろと狼狽えていた。どういう訳かこの二人は、顔を合わせる度にこうして諍いを始めてしまうのだ。……最も、その原因が何であるのか気付いていないのはアイチただ一人だけだったが。

「あ、あの櫂くん、レンさん。ふたりとも喧嘩はやめて、よかったら一緒にお茶飲もう? ね?」

 両手を組み、祈るようなポーズをとったアイチにそう請われ、ふっと二人の視線が向く。
 比較的長身の櫂とレンに対して、アイチの身長は頭ひとつ分以上低い。それ故に目を合わせて会話をしようとすると、必然的に大きなふたつの蒼眸が長い睫毛をしならせながらこちらをうるうる上目遣いで見上げる形になってしまうのだった。


「「天使……」」
「え?」


 一触即発の雰囲気を身に纏っていたふたりは、その光景を前にして図らずも全く同じ言葉を口にした。こてんと首を傾げる様がまた愛らしい。あざとかろうが何だろうがもう何でもいいわこん畜生!
 思わず口調が迷子になりながら、毒気を抜かれてしまった櫂とレンはその言葉に従うようにそれぞれ無言で腰を下ろした。悪化する前に事態を食い止められたことにほっとして、アイチはふう、と息をつく。

「じゃあ僕、レンさんの分の湯呑みも持ってきますね。あ、よかったらこのおにぎり食べててください。まだまだいっぱいありますから」
「アイチくんの手作りおにぎりですか、なら喜んで食べます。これからも毎日だって作ってくれていいんですよ、僕のお嫁さんとしてね」
「あはは、相変わらずレンさんは冗談が上手ですね」

 ぱたぱたと奥へ向かうアイチを尻目に、早速と言わんばかりにおにぎりへと手を伸ばすレンを、櫂は苦虫を噛み潰したような表情で見ていた。今まで必死にガードしてきたものが、こいつの所為で何もかも台無しになろうとしている。ああ、どうして自分はよりによってこんな奴の接近を許してしまったのか。レンがアイチと出会ったあの日、この定食屋でのバイト(とは名ばかりで、実際の所は殆どボランティアのようなものだ)に来られなかったことが今でも非常に悔やまれる。
 そんな警戒と苛立ちと怒りのこもった視線を受けて、レンはハッと鼻を鳴らしながらにたりと皮肉げに口元を歪めた。

「そんなに睨まないでくれませんか、櫂。僕を熱に潤んだ視線で見詰めていいのはアイチくんだけです」
「黙れレン。アイチがそんな視線で見詰めていいのは俺だけだ。第一お前の家はここからだと車でも数十分はかかるような距離の筈だろう。なぜ毎朝のように現れる」
「勿論テッちゃんに送ってもらってるんです。僕は一人では電車にもバスにもタクシーにも乗れませんからね」
「胸を張って言うな。そしてそんなことにテツを付き合わせるな。と言うかそもそも来るなストーカー。邪魔だ」
「アイチくん恋しさに親元離れて一人暮らしを始めるような人間にストーカー呼ばわりされたくはありませんね、未だに告白のひとつもできない女々しい男のくせに。そっちこそ僕とアイチくんの輝かしい未来の邪魔者です。消えてください」
「…………」
「…………」

 
 一旦落ち着いたかと思えた火花が、再び激しく散りはじめる。
 櫂の氷のように端正な顔立ちと、レンの妖しさを孕んだ白皙の美貌。見た目だけならば相当にハイレベルな者同士の争いであるというのに、その内容はお互い炊き込みご飯のおにぎりを片手に恋の鞘当てをしているという、何とも形容しがたい低レベル加減だった。



「それにしてもまさかレンさんと櫂くんが知り合いだったなんて、今でも驚きだなあ。櫂くんが昔引っ越して行った先でのお友達らしいけど……喧嘩友達、ってやつなのかな?」

 ただ一人、渦中にありながら状況を全く理解していないアイチだけが、すっかり常連となっているレンのために新たに購入した深い茜色の湯呑みを出しながら、暢気に店の奥でそんな独り言を呟いていた。


「アイチくんはこれから僕と結婚して雀ヶ森アイチになるんです。ご祝儀くらいは受け取ってあげますからとっとと引っ込んでください」
「違うな、あいつの将来は櫂アイチだ。そっちこそ電報くらいは受け取ってやるからさっさと失せろ」



 果たしてこの不毛な争い、決着が着く日が来ることはあるのか。
 街の小さな定食屋で巻き起こった珍事は、今なお現在進行中で終りが見えることはない。




end?

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