その痛みさえも




 目を開けると、見知らぬ天井が視界一杯に広がった。

(…………あれ?)

 二、三度瞬きをして焦点を合わせる。しかしどう見てもそれは慣れ親しんだ自室の風景ではない。背面や後頭部に感じる布地の柔らかさから寝台に横たえられていることは分かったが、いつも使用している寒色系のものとは異なり、寝具が白一色で統一されていた。
 それに何より、ここは香りがアイチの部屋とは全く違う。
 普段使用しているシャンプーやコンディショナーの甘い香り――断っておくが、選んでいるのは母や妹であって自分ではない――とは別の、例えるならハーブや香辛料が入り混じったような、もっと硬質な印象のする香りがこの部屋には満ちていた。
 けれどそれは慣れないからと言って決して不快ではなく、むしろどちらかと言えばすうっと身体をクリアにしていくような爽快さを感じる。そしてそれと同時にひどく切ないような――胸がちりりと焦げるような、そんな気持ちさえも抱かせる不思議な香りだった。どこかで覚えのあるような気もしたが、今のアイチの惚けた頭ではどうしても思い出すことは出来なかった。
 視線を天井からスライドさせると、モノトーンで揃えられた室内がある。どこか無機質な印象を覚えるのはその色合いの所為だけでなく、いっそ殺風景とも呼べるほどに一切の余計なものが置かれていないからだということに気付いたのは、華やかに彩られた自宅の居間やダイニングを思い浮かべた時だった。

 ゆっくりと半身を起こし、ここはどこだろう、とまだ霞む頭でぼんやりと考えていると、傍らからぱたん、と音がした。

「……起きたか」
「櫂、くん……?」

 一人掛けの黒いソファーチェアに足を組んで座り、普段の制服と違って濃紺のカッターシャツにジーンズというラフな格好に身を包んだ櫂の手元には二センチ程の厚さの文庫本があった。どうやら先刻の音はこの本を閉じたときに生じたもののようだ。形の良い深翠の双眸は薄い縁無しの眼鏡に覆われていて、その物珍しさも相俟ってアイチは暫し言葉を忘れて茫然としてしまった。訝しむように顰められた表情の前で、漸く自我を取り戻す。

「どうして、櫂くんがここに……」

 いるの、と続けようとして、それが非常に愚問であることにアイチははたと気が付いた。
 見慣れぬ部屋、私服姿の櫂、そして自分がさっき考えていたこと。そこから導かれる結論は一つだけだ。

「ここ、もしかして櫂くんの部屋……?」
「……ああ」
「……っ」

 頷かれ、アイチは途端にかあっと頬を火照らせた。それと同時に先刻の既視感も理解する。
 目覚めてすぐに感じた、この部屋に満ちていた香り。カードキャピタルで、大会会場で、或いは偶々行き合わせた通学路や、彼の姿を求めて向かった公園で。折に触れてふわりと薫った、今でも枕やシーツから仄かに漂うそれは。

(櫂くんの、香りだったんだ……っ)

 口元に手を当て、頬を赤らめて沈黙してしまったアイチに対し、掛けていた眼鏡を胸ポケットへと収めた櫂はソファーからベッドの縁へと腰を掛け直し、色素の薄い手を伸ばしてきた。そのまま額や頬、それから首筋に触れ、熱はないなと小さく呟く。そんな彼の少し体温の低い掌や鼓膜に届く吐息のひとつひとつに、アイチは一々過敏に反応してしまっていた。

「頭痛や吐き気なんかはあるか」
「ななな、ない、です」
「他におかしな所は」
「へい……」

 き、と言おうとした瞬間唐突に声が詰まり、代わりに口から零れたのは小さな咳だった。室内に効いている空調は、暖を取る代償として湿度を奪っていったらしい。櫂は丘陵のような眉を軽く顰め、母指の関節でアイチの喉から顎下にかけてをつう、と撫でた。

「少し待ってろ。水を持ってくる」
「ご、ごめんなさい……」
「謝ることじゃない」

 もう一度頬にするりと触れ、腰を上げると櫂は部屋を出て行った。そう遠くない所から冷蔵庫の扉の開閉音と何かを注ぐ音、それから硝子のぶつかる音がする。程なくして戻ってきたその手中には、ミネラルウォーターで満たされたグラスがふたつ握られていた。
 何も言わずに差し出された片方を受け取り、こくりと一口流し込む。心地良い冷たさが咽奥から食道を通って熱い胎内を潤していった。
 ふ、と息をついて向けた視線の先では、櫂もまた同じようにグラスに口を付けて喉を上下させていた。自分と違い、確りと隆起した喉仏に骨ばった大きな手。年齢的には一つしか差がない筈なのに全く造りの異なる身体にどことなく艶めかしさを覚えて暫し見惚れていると、不意にその眼差しがアイチの瞳を鋭く射抜いた。

「まだ具合が悪いのか」
「えっ? ううん、どこも悪くなんてないよ」

 ぶんぶんと左右にかぶりを振る。その振動で手の中の水がちゃぷん、と微かに音を立てた。

「あ……の、それより“まだ”ってどういうこと? そもそも僕、どうして櫂くんのお家に?」
「……覚えてないのか?」
「うん……」

 小さく首肯すると、櫂は僅かに息を吐き、申し訳なさ気に眉を下げて俯いているアイチの頭頂部に軽く手を乗せた。

「カードキャピタルで倒れたんだ、お前は」
「倒れ……、ああ、そっか」

 そう告げられ、すぐに合点がいった。



 アイチがあの力――PSYクオリアを手放してからそれなりに日が過ぎたものの、一連の騒動はまだまだ記憶に新しい。特に当人のアイチにとっては、決別を選択したとは言え力が消滅した訳ではないので、今でも少し気を抜けば、すぐにでも頭の奥から囁きかけて来るあの感覚に引き摺られそうになってしまうのだ。
 始まりがそうであったように、その衝動自体は完全に無意識によるものなので、ただ自分を律する以外にはどうにも防ぎようがない。いっその事力そのものに慣れてしまえばもう少し上手く制御することも可能なのかも知れないが、それを選択することは躊躇われる。
 あの時は櫂のお陰で何とか戻ってくることが出来たが、また二の轍を踏むかも知れないと考えると、どうしても再度力に手を出すようなことは避けたかった。

 今でもはっきりと覚えている、自分の魂を丸ごと包んで食い潰してしまうかのような黒い力。

 その為に常に気を張り詰めていた結果、アイチはここのところあまり安眠することも出来なくなっていた。それで疲労が蓄積され、いよいよ倒れ込んでしまったということなのだろう。


 事の経緯を説明すると、アイチは空になったグラスを傍らのミニチェストの上に寄せて目を伏せた。

「ごめんね、櫂くん」
「何がだ」
「迷惑……かけちゃって」
「別に、迷惑とは思っていない。それに病人の受け入れを拒むほど狭量じゃない」

 淡々と、まるで紙に記された文字を読み上げるような声音で言われた台詞を、少し前の自分ならば額面通りに受け取って気落ちしていたかも知れない。けれど今はちゃんとその裏に滲む優しさを汲み取ることが出来る。
 櫂の声はまるで雪のようだ。低く艶のある空気の振動は鼓膜を通ってアイチの心に降り積もり、じんわりと奥の奥まで浸透していく。
 
「……ありがとう、櫂くん」
「……店内に客がそこそこ入っていたから、戸倉たちに任せるよりも別の場所に連れ出して休ませる方がいいと思った。そして店からの距離はお前の家より俺の方が近かった、だからここに来た。それだけのことだ」

 櫂の表情は全く動かないが、その右手はアイチの頬に掛かる髪をそろりと梳くようにかき分け、輪郭を指先で静かに辿った。親指の腹がそっと下唇に触れ、花の蕾のようにふっくらとしたそれの形を確かめるかの如く幾度も往復する。途端に真っ赤になったアイチを余所に、櫂はぎしりとベッドを軋ませながら二人の間に存在する距離を詰めていった。
 爽快感を孕んだハーブや香辛料のような硬質な香りが、鼻腔をふわりと掠めていく。

「かい、くん」
「……アイチ、」

 柔らかな感触と共に、言葉が呼吸ごと飲み込まれる。ゆっくりと啄む甘やかなくちづけはアイチの体温や脈拍を急激に上昇させ、それと同時に安らぎを与えてくれる。緊張に固まっていた身体を解し、ただ愛しい人の温もりを感じながら力を抜くと、もう一方の手が後頭部へと回され、抱き込むように引き寄せられた。
 より深い角度で唇が絡められ、熱い舌が腔内を隅から隅まで蹂躙していく。

「ん、ふあっ、んん……、っは」

 漸く解放され、ぜいぜいと枯渇した酸素を補うように荒い呼吸を繰り返しているアイチの両肩を櫂は寝台へと押し付けた。柔らかな枕に頭がぼふん、と沈み、その所為で辺りに例の香りが一層強く漂う。息をすればするほど身体の内も外も櫂の香りに満ちていって、アイチの思考はすっかり蕩けてしまった。
 櫂と交わす口付けは甘い。実際に糖を含んだ味がする訳ではないけれど、甘いという言葉以外に上手い表現が見つからないのだ。自分の思考がぐずぐずに溶かされ、ふわふわと夢を見ているような気分になる。子供が菓子をねだるように、もっともっとと欲する気持ちが溢れ出てきて止まらない。


「……アイチ」
「な、に……? 櫂くん」
「俺がいる」
「え……?」

 はあ、と熱の篭った息を吐きながら見上げた櫂の瞳は真っ直ぐに自分を捉えていた。ファイト中の彼がよく見せる、強い決意に満ちた眼差し。いつもアイチの心を掴んで離さないそれ。


「たとえまたPSYクオリアの力に引きずられそうになったとしても、俺がお前を止めてやる。何度だって救ってやるから――お前が気負う必要などどこにもない」


 額に、瞼に、それから口に。
 ひとつひとつのパーツに順にくちづけられて、最後に強く抱きしめられた。

 力強い手の感触と、頬に触れる薄鳶の髪。全身を包む香りと耳元に響く声、そしてあまい唇。ひたと自分を見据える、翠の眼。

「櫂、くん」
「だから、何かあったら俺に言え」
「――うん」
「お前の全ては俺のものだ。お前が感じる不安も恐れも、全部含めて俺のものだ。だからそれらは皆、俺が取り除く」
「うん」
「……倒れるまで一人で抱え込むようなことは、もうするな」
「うん……っ」


 ひどく心配をかけてしまっていたのだと、ここにきて漸くアイチは理解した。それはきっと今日に限ったことではなく。恐らく今までずっと、櫂は自分のことを案じてくれていたのだ。
 不器用な言葉の裏に滲むこのひとの優しさ。こみ上げる愛おしさの衝動のまま、その魂ごと包むようにアイチは広い背に腕を回して強く強く力を込めた。


「――かいくん」
「何だ」
「すき、」
「……ああ」
「好き、大好き。好きです、誰よりも、何よりも」
「ああ」
「櫂くんのことが、大好きです」
「ああ。……知っている」





 それ以来、アイチがPSYクオリアへの懸念によって眠りを害することは一切無くなった。
 ただし、今度は別の要員でたびたび寝不足に陥ることになってしまったのは、また別の話。



end.


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