象牙の塔




 ふと、逢いたくなった。




象牙の塔 ―I think of you night and day―



 目が覚めたのは丁度東の空が白み始めた頃で、他の仲間は未だ夢の中だった。明け方独特の清流のような凛とした空気が窓際まで滲んでいる。

 宿の朝食の時間まではまだまだ早いが、一度醒めてしまった頭はもう眠ってくれそうにない。イングズは小さく息をつくと、なるべく音を立てないようにゆっくりと寝台から身を起こした。


******



 いつも荷物の中に入れている木製の模擬剣を脇に置き、首に掛けていた布で汗を拭う。綿の肌触りが頬に心地良い。上がった息を整えながら、イングズは傍に生えている棗の木の元に腰を下ろした。なかなかに立派な木で、枝の先には小さな実が幾つも生っている。恐らくあと数日で色付き始めるだろう。

 熟れた棗を齧ったときの歯応えや甘酸っぱい味を思い出し、じわりと口内に唾が広がった。


『ねえイングズ、この木は棗と言うのよ。ほら、可愛い実でしょう? この実には心を鎮めて、よく眠れるようになる作用があるのですって。イングズが疲れているときは、わたしがこれを煎じてお茶を入れてあげるわね!』


 不意に鈴の音のような声が耳に甦り、イングズは右手で双眸を覆い、静かに息を吐いて空を仰いだ。


(――ああ)


 こんな木ひとつのことだけで、あの人を思い出してしまう。


 宿の中から物音が聞こえた。厨房の方からだったので、恐らく主人が食事の支度をしているのだろう。じきに仲間も起き出す頃だ。

 イングズは剣を腰に納め、庭の隅にある井戸へと向かった。



******



 顔を洗おうとやって来た井戸には既に先客がいた。色褪せた朱紐で雑に結わえられた銀髪が朝陽を受けて光っている。


「おう、おはよ」

「ああ、おはよう」


 気配を察したらしく、タオルで顔を拭きながらルーネスが振り返った。彼は中々早起きなのだ。その分夜は誰よりも早くに眠りに就くが。


「今日も素振りの稽古か? 毎朝毎朝よくまあ続くな」

「昔からの習慣だからな。やらないと落ち着かないんだ」


 正確には今朝の場合は別な理由もあってのことだが、勿論それは言わずにおく。

 ルーネスは御苦労なことで、と肩を竦めたが、「けどさあ」と続けて井戸の淵に手をついた。


「お前、今のジョブ学者だろ。剣術の稽古とか、はっきり言ってあんましする必要なくね?」

「言っただろう、もう身体に染み着いてしまっているんだ。それに単に剣術の訓練だけでなく、体力をつける目的もあるからな。どんなジョブに就いていたとしてもマイナスにはならないだろう」


 何より、分厚い辞書を振り回すのは結構な力が要るものだ。

 そう言うとルーネスは違いない、と言ってけらけら笑った。


 クリスタルの加護を受けて戦うイングズ達は、ジョブチェンジを行うことで様々なジョブの恩恵を受けることが出来る。例えば戦士のジョブに就けば力が増し、魔導士になれば魔力が上がる。そしてそれは通常の状態――通称「すっぴん」の状態とは比べ物にならない程の上昇値だ。強大な魔物達と戦う為には、この力は不可欠である。

 ルーネスはよく「力も魔力も素早さも何もかも完璧なジョブがあればいいのに」と愚痴を零すが、恐らくそんなジョブがあったとしても使いこなすことは出来ないだろう、とイングズは思う。言うなればジョブとはクリスタルの力によって「その方面へと特化した自分」の姿を取っているのだ。何もかもを強化すると、その負荷に身体の方が耐えきれなくなる。

 もともと持っている能力を100とすると、その数値をどのように割り振るかでジョブが決まるのだ。力に多く割り振ると戦士やナイトといった物理攻撃に強いジョブ、魔力を強めれば各種魔導士、素早さに集中させたならシーフになる、といった風に。

 だから元々持っている値――100を超えて、力にも魔力にも80も90も割り振る、ということは不可能なのだ。

 勿論、日々の鍛練などで、その100の値を200、300と増やしていくことは可能だろうが。



******



「要するに、その人の限界以上の力は出せない、ってことね」

「ああ」

「成程ねえ。それなら直前までナイトやってたのに、白魔道士になった途端守備力とか下がっちゃうのも分かるね」

「装備品の問題かとも思ったけど……そもそも重量に耐えられるだけの体力が無くなっちゃうものね」


 かちゃかちゃと陶器と金属が触れ合う音を立てながら、宿の中に戻ったイングズとルーネス、そしてアルクゥとレフィアは食事を採っていた。

 ふっくらと焼き上がった濃黄色のオムレツに乗ったカリカリのベーコン、その上に掛けられたケチャップは宿の主人の手製らしく鮮やかな赤色をしている。口に含むと熟れたトマトの甘味と酸味がよく出ていた。付け合わせの温野菜に絡めて食べるのがまた美味しい。

 厚く切られたパンは当然の如く焼きたてで、表面のバターは既に溶けきって生地に染み込んでいる。炒められた人参や玉葱の入った野菜スープはあっさりした塩味で寝起きの舌に優しい。搾りたてのミルクにデザートの瑞々しいオレンジと、どれを取っても美味だった。夜半に漸く辿り着いた村で、風評も聞かずに入った宿だったがどうやら大当たりだったようだ。寝床や入浴の世話なども気配りが行き届いていて、気の良い中年といった感じの主人の気性が伺えた。

 各々が朝食に舌鼓を打っている中、先程までのイングズのジョブ講義がなされていたのである。


「あー、うん、分かった。いくらクリスタルの力が凄くても、なんでもアリって訳にはいかないってことな」

「そもそもクリスタルが万能だったら、僕達の存在自体必要無いしねえ。さくっとザンデを倒しちゃえばいいだけだもの。……こら」

「てっ」


 頬杖をつきながらパンを食べていたルーネスに行儀が悪い、とデコピンをかまし、アルクゥは細かな泡の立つミルクティーを啜った。濃い目のお茶とミルクの風味がまた良く合っていて、喉をすべらかに通っていく。その向かいの席ではレフィアが櫛型に切り分けられたオレンジを齧っている。右隣のイングズの元にまで柑橘の香りが漂ってきた。


「でもさ、何だってまたそんな話をした訳?」

「別に……深い意味は無い。ただ何となく、思い浮かんだから言ってみた、それだけだ」

「ふーん……」


 アルクゥとレフィアはそんなものか、と納得してイングズから視線を戻した。普段はどちらかと言うと口数の少ない部類の人間である彼がいつになく饒舌に話していたので気になっていたのだが、本人から意味は無いと言われてしまえばそれまでだ。

 だがそんな中で、ルーネスだけは面白いことに気付いたと言わんばかりに瞳をきらりと輝かせた。


「じゃあさ、今のイングズもジョブの影響受けてたんじゃねえの? いつも以上に色んなこと考えちまって、誰かに聞いて欲しかったんだよ。何たって学者だからな!」


 にひひ、と笑いながら言われたその言葉に、イングズは目を丸くした。

 思考能力が、常より高くなっているから。

 だから、いつも以上に?


(――ああ)


 そう言われると、そんな気がした。


 目覚めたとき、どうも何かに駆られているような心地がした。窓の外を見るとわずかに顔を覗かせた太陽が金色の光を放っていて、そこにまずあの美しい金の髪を連想した。

 朝靄に包まれる景色はサスーン城の見張り台から見下ろす風景によく似ていて、そう言えばと自分が見張り役のときにこっそり忍び込まれたことを思い出した。差し入れだと手渡された珈琲のとんでもない苦さと、それに気づいたときの申し訳なさそうな表情。訓練のときにはいつも微笑んで塔の窓からこっそり覗いていたこと、そのとき頭上に広がっていた空の青さを今も覚えている。

 庭に生えていたあの棗の木、それにすら彼の人を思い描いた自分は。


「ど……どうしたの? 急に黙っちゃって……」

「レフィア」

「え?」

「今日は各自で自由行動だったな」

「あ、うん……それぞれで必要品の買い出しを済ませたら、あとは久々に休養しましょってことになってたけど」

「僕とルーはウルの村へ顔出しに行くつもりなんだ。レフィアもタカさんに会いにカズスへ行くって」

「イングズは確かやること無いから宿に残って自主練してるっつってなかったっけか?」


 きょとんとした3人を尻目に、イングズはふ、と小さく笑った。


「いや、私も久しぶりにサスーンへ行こうかと思ってな」

「え? だってお前、この間誘ったときは頑として行かないって……あ」

「ああ」

「ふぅん」


 それぞれが驚いた後で、得心がいったようににやりと笑みを浮かべた。


「どういう風の吹き回し?」

「別に。学者は学者らしく、塔に篭ろうかと思ってな」

「ふーん……サスーン城って象牙で出来てたっけ」

「いや、大理石だ」

「今日だけでいいの? 折角だから一泊くらいしてくれば?」

「一日あれば充分だ」

「それはそれは。――御馳走様」


 食事を終えた順に、ルーネス、アルクゥ、レフィアはそれぞれ空いた食器を持って席を立った。この宿は主人が一人で切り盛りしているようなので、そういう処へ泊った場合は手伝えることは手伝おうと前々から決めていた。

 皿に残っていたオレンジを齧ると、イングズもまた食器を持って立ち上がる。

 爽やかな果実の香りが、口の中一杯に広がった。




end.








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・After・


「イングズったら急に来るんだもの!もっと早くに知らせてくれれば色々と準備も出来たのに!」

「準備などして頂かなくて結構です。挨拶に寄っただけですので」

「あなたが良くてもわたしが良くないのよ!ああもう、こんなことなら昨日仕入れたばかりのドレスを着ておくのだったわ」

「私は、今姫様が着ていらっしゃる青いドレスのが好きですが」


「…………え?」

「…………」

「…………」

「……サラ姫様」

「……なによ」


「顔が赤いようですが、熱がお有りなのでしたら私は今すぐにでも」

「駄目!ダメったらダメ!帰らないで、ここにいて頂戴!!」

「……看病を、いたしましょうかと。恐れながら」

「……え?」

「今は常よりも薬学に明るくなっておりますから。私で良ければ、と思ったのですが」

「……いえ、あの」

「必要ですか?」


「……か、看病は、要りません。けれど……」

「ここに、居ても?」

「……居て頂戴」

「畏まりまして」


 サスーン城の双子塔、その片割れに学者が一人閉じ篭る。

 金の髪の美姫と共に、俗世を忘れて一刻の夢を。



おしまい。