きのうをなくしたこどものみるゆめ きっかけが何で、いつからそうだったのかなんて覚えていない。ただ、俺はヒロトの為に生きていたいと思っていた。 『リュウジ』 自分の名前を呼ぶヒロトの声が好きだった。あの綺麗な声で呼ばれることで、まるでその名前がとても大事な宝物のように甘く響いたから。あの柔らかな笑顔を向けられることで、自分を肯定された気持ちになれたから。 ヒロトによって定義された“俺”という存在が、ヒロトの為に在ろうとするなんて、至極当然のことだったんだ。 「お前に与えられた任務は、俺達の先鋒としてエイリア学園の力を世に知らしめること。各所で破壊活動を行い、人心に恐怖を植え付けることだよ」 俺と晴矢、風介、砂木沼さんを集めて、父さんからの命令だと任務の内容を告げたヒロトは終始淡々としていた。まるで紙に書かれた台詞を読み上げているみたいに。俺はその間ずっとヒロトの目を見つめていた。あの綺麗な翠の双眸はただの一度も揺らぐことはなく、ただの一度も俺と視線が合うこともなかった。 「ふざけんなよ!何でこいつにそんなことやらせるんだ!」 「誰かがやらなければいけないことだからね。色々考えた結果、リュウジが適切だと思ったから」 「どこが適切だよ! こんなのどう考えたっておかしいだろ!」 「この件に関しては既に父さんの了承は得ている。晴矢、君は父さんの命に逆らうのかい?」 「…………っ」 ヒロトと晴矢の会話がまるで外国の映画を見ているみたいだ。言葉が聞き取れないままにどんどん進んでいく。どうかすると本当に現実ではなく画面の向こうのことみたいに見えてきそう。 「……おい、リュウジ! お前も何か言ってやれよ! こんなの嫌だって! やりたくないって!」 晴矢が肩を掴んで揺すっている。その声が、手があんまり必死で、俺は少しだけ泣きたくなった。晴矢はいつも優しすぎるんだ。俺なんかに使うには、その優しさは勿体ないよ。俺はそんな風に晴矢に気にかけてもらうにはあまりにも不釣り合いだ。 「何とか言えよ、おい!」 「よせ、晴矢」 黙ったままの俺に痺れを切らした晴矢を風介がたしなめた。あの静かな目で俺を一瞥し、それから確認するように尋ねてきた。 「本当にいいのか、リュウジ」 俺は答えない。答えない代わりにその沈黙に意志を込めた。 「……そうか」 風介が小さく嘆息した。 「決まりだね。それじゃあ、ちゃんと準備しておいて」 「っふざけんな! おいヒロト、その役目は俺に寄越せ。こいつの代わりに俺にやらせろ!」 「却下だよ。さっきの話を聞いてなかったの?」 「だからって納得できるか! リュウジ、お前も考え直せよ! 無理に決まってんだろこんなの!」 ヒロトは晴矢の訴えを全く黙殺し、そのときなって漸く俺に視線を合わせた。 「やれるね? レーゼ」 ふたつの翠が真っ直ぐに俺を見据えてくる。その光に俺はほんの一瞬だけ、自分でも分からないくらい微かに笑みを浮かべた。 「全て、貴方の望む通りに。グラン様」 そう告げると、ヒロトの口元にふんわりと弧が描かれた。 「うん、いい返事だね。じゃあ頼んだよ」 「ってめ、待て!!」 「……晴矢っ」 くるりと踵を返したヒロトを追って晴矢はこの場を出て行った。少し逡巡する間を置いてから風介もそれに続く。後に残ったのは俺ともうひとり。 「……砂木沼さんは、俺に何も言わないんですね」 「言って欲しかったか?」 「……いえ」 「ならばいいだろう」 「そう、ですね」 この人はいつも変わらない。優しくもあり厳しくもある。その樹木のような不変さが今の俺には有り難かった。 「そろそろ部屋に戻るぞ。お前は色々とやらなければならない事もあるだろう」 「いえ、俺は……もう少しここにいます。少し、頭を整理したくて」 「そうか。ではな」 遠ざかる足音を耳の奥に感じながら、俺は一人佇み目を閉じた。目蓋の裏に浮かぶのはやはりあの翠。詰まるところ、俺の行動原理はこれなのだ。これしか、ないのだ。 だから。 その後、去った筈の『砂木沼さん』が、とある知らせを告げるために戻ってきた。どうやらあの後『晴矢』が『ヒロト』と一悶着あったらしい。『ヒロト』が直接手を出すというのは考えにくいので、恐らく彼の言葉に激高した『晴矢』が殴りかかりでもしたのだろう。『晴矢』は優しすぎるのだ。いつだって誰かに暴力を振るったとき、あとで一番痛い思いをするのは彼自身なのに。 『俺』がこんな風に憐れむような考えを持つこと自体、もう不敬に当たってしまうのだろうが。 自室に戻る途中で『風介』とすれ違った。酷い顔色だったので声を掛けたが、頑なに何でもないと言われたので大人しく引き下がる。彼もまだ迷いを抱えているようだ。『俺』からすれば、何を迷う必要があるのかと不思議に思う。『風介』はいつだって『晴矢』を支えて生きていたのだから。それはこれから先だって同じことだろうに。 そのまま足早に立ち去ろうとする『風介』に、『俺』はぽつりと呟いた。 「……俺は、後悔なんてしてないから」 呟きを耳にした『風介』が驚いたように瞠目する。 「俺は、ヒロトの役に立ちたい。それが叶うなら何を犠牲にしてもいい。誰かを傷付けても、何かを失っても。それでも構わないって思うくらいに、ヒロトのために在りたいんだ」 それは『俺』の偽らざる本心だった。どんなに自分勝手と罵られようと、そう在りたいと望んだのだ。 そのために。 「……そのために、自分を捨ててでも?」 『風介』の言葉に、『俺』は泣きそうに微笑んだ。それからほんの一瞬瞳を閉じる。 周りにどれ程の色が溢れていても、『俺』はあの翠一色あればそれで充分なのだ。そのために全てを捨てよう。他の色があったら濁ってしまうから、全部拒絶してあの人のためだけに生きよう。それがただの駒でも人形でも構わない。 私はレーゼ、エイリア学園の使徒であり、グラン様の忠実な部下。 この言葉を最後に、昨日までの自分を全部なくしてしまおう。 (……さようなら、ヒロト) そうして再び目を開ける。 「勿論です、ガゼル様。それこそが私の望みですから」 * * * ガゼル様が部屋へと戻られるのをぼんやり眺めてから、私も再び歩き出した。もう日は山の端へと沈み、空の色は茜から葡萄、紫紺、鉄紺と変化していき、やがて漆黒へと染まっていく。 明日の今頃、私はきっともう誰かを傷つけた後で、何かを壊した後で。人々は私を恐れ、憎んでいるのだろう。それでいい。……それがいい。 見上げた空には、一つの星も見えなかった。 end. 戻る |