Evergreen



「君は本当に学習しないな」

 ガサガサと茂みを掻き分ける音と共に、にゅう、と白い手が伸びてきた。

「ひゃうっ!」

 襟首をむんずと掴まれて、トリスは素っ頓狂な声を上げた。恐る恐る視線を上げた先にあるのは、平生以上に顰められた兄弟子の顔。

「何か言い訳があるなら聞いてやる。10文字以内で」
「それじゃ何も言えない……」
「なら言うな」
「……あう」

 通算31回目の脱走はこうしてあえなく幕切れとなり、トリスは首根っこを掴まれたままずるずると連行されていった。



*  *  *



「ネスは昔からあたしを見つけるのが上手かったよね」
「君の思考パターンが単純なだけだ。隠れている場所どころかそこへ至るまでの逃走経路すら丸分かりだったぞ」
「むぅ。その割には苦労してたときもあったじゃない」
「経路と場所が分かっても、それ自体が常軌を逸していたんだから仕方がない」


*  *  *



「君はバカか!?」
「ふえっ!!?」

 どかっ!!とすぐ隣にあった木に蹴りが入った。拳ではなく脚。普段どんなに腹を立てても決して周囲のものに八つ当たりなどしなかった、彼の取る行動とは思えない。それ程までに怒っている、ということだろう。

「4階だぞ!4階の部屋の窓から、そこらにあった布を繋いで作ったロープとも呼べないようなもので!逃げ出すなんて……っ!!!」

 ぎり、と歯を食いしばる音が耳に届いたのは気のせいではない。

「もし手を滑らせたら!繋ぎ目が解けたら!落ちて、打ち所が悪かったら、どうするつもりだったんだ……!!!」

 いつも真っ白な頬が遠目にでも分かりそうなくらい紅潮している。綺麗な弓型だった眉が信じられない程吊り上って、どんな時でも冷静に凪いだ瞳は激昂でさざ波立っていた。
 あのネスティが、こんなにも、怒っている。感情を表している。自分に。
 そして息が上がっているのは怒りの為だけではない。
 走って、息を切らせて、探しに来てくれたのだ。

「ネス、心配してくれたの?あたしのこと?」
「――――当たり前だろうっ!!!!!」

 彼のあんなに大きな声を聞いたのは、それが初めてだった。



*  *  *



「見つけるのもだけどね、喜ばすのも上手いのよ」
「……具体的には?」
「いつもあたしが欲しい言葉をくれる」


*  *  *



「どこにも行かないよ」
「……ほんとに?」
「しつこい。行かないと言ったら行かない」
「…………えへ」

 涙目でへら、と笑うトリスの姿に、ネスティは小さく息を吐いた。くるりと踵を返そうとして、それに抗う力を感じて視線を下に移す。そこには自分のローブの裾をはっしと掴んでいる小さい二つの手があった。かたかたと小刻みに震えている。
 ――何があったかは大体想像がつく。この派閥の中でトリスの存在を疎んでいる者はとても多い。義父のような人間の方が珍しいのだ。
 大方そいつらに何か言われたのだろう。恐らくトリスにとってのタブーに当たる言葉を。
 
(お前は罪を犯してここに連れてこられた)
(本来ならお前はここに居ていい存在じゃない)
(誰もお前を必要としない)
(いずれ誰もがお前を捨てて去っていく)

 ぶつけられたであろう言葉の内容も容易に想像出来た。何故ならそれらは皆、嘗て自分が言われていた言葉そのままだったから。
 そして、それを聞いてどんな気持ちになるのかも、
 どうすれば、救われるのかも。
 一度背けた顔を戻してしっかりと向き合い、ネスティは未だしがみついたままのトリスの手をそっと自分のそれで包んだ。

「大丈夫だ、トリス。誰も君を置いて行ったりしない。ちゃんと傍にいて、こうして手を握っててやるから」

 そうしてゆっくりと空いた手を伸ばし、眦に滲む涙を拭う。

「だから、もう泣くな」



*  *  *



「嬉しかったな……本当に」
「僕も似たような経験をしたことがあったからな。対処法を知っていたから実践したに過ぎない」
「可愛くない言い方! まあネスらしいって言えばらしいんだけど」
「そんな事より、一体いつまで待たせるんだ。いい加減待ちくたびれたぞ」
「もう少し! 今ベールを……よしっ」

 できたー! という声を合図にネスティは扉のノブを回した。がちゃりと金属の擦れる音がする。
 扉の先に居たのは、純白の衣装に身を包んだトリスだった。
 無地で安物のドレスを色とりどりのビーズで飾り、胸元には小さすぎる為召喚に使用できないサモナイト石を集めて作ったブローチがきらりと輝いている。少し長くなった紫紺の髪は綺麗に結われ、素朴な野の花が差し込まれていた。その上から(これだけは奮発した)やはり純白の、透き通るようなキルカ織のベールが被せられている。手元にあるのは髪とお揃いの花を集めたブーケだ。ほんの微かに甘い香りが宙を漂っている。

「どう? 下手な既製品よりずっと可愛いと思うんだけど」

 そう笑うトリスの顔にはいつもと違って薄くではあるが化粧が施されていた。何もしなくても薄桃色に色づいていた唇は、今ははっきりとした紅に彩られている。ネスティは内心の動揺を隠すように軽く咳払いをした。

「……まあ、待たせただけの価値はあるんじゃないか」
「素直じゃないなあ、こんな時まで。まあいいわ」

 輝かんばかりの笑みと共にはい、と手が差し出され、ネスティは小さく微笑み返してそれを取った。


 とある晴れた日のことだった。
 一組の男女が、世界を守護していると言われる大樹の下で式を挙げた。何から何まで手作りだったその式はひどくささやかな、小さなものだったけれど、たくさんの人々に祝福された、とても幸せなものだった。
 参列者の笑顔と――何よりも、新郎新婦のこれ以上無いほどに幸福に満ちた表情と、確りと繋がれたその手が、彼らの想いの丈を表しているようで。


『ずっと傍にいてね』
『ずっと傍に居るよ』



 幼い頃の小さな約束は、その日、永遠の約束になった。



end.




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