つがいをのぞんだこどものみるゆめ






 元々、物事に対する執着心と言うものをあまり持たない人間だった。欲しいものがあって買い物に出た筈なのに、目的のものがショーケースに飾られているのを見ただけで満足してしまうような。何事に対しても強く求めるということが出来ずにいた。唯一の例外がサッカーと、それから晴矢についてのことだった。

 私達はいつも二人でいた。唯一共通の趣味であったサッカー以外、嗜好もほぼ正反対だったが、それでも不思議と馬が合った。合いすぎて喧嘩をすることもしばしばだったが、それすらも私達のコミュニケーションのひとつだった。さながら水と油のように、決して混じり合いはしないけれどそれ故にいつも隣にいた。
 だが、周囲からも常に二人一組で扱われていた私達の関係がいつからか変化し始めたことに気付いたのは、皮肉にも私一人だけだった。

 あるときから、晴矢の視線が時折宙をさまようようになり始めた。それが誰かを捜しているのだと悟るのにそう時間はかからなかった。何故ならその視線は特定の人物が視界に入ると、必ずぴたりと定められていたから。そしてその人物を見つめている間の晴矢の瞳は、普段の彼の気性からは考えられない程に穏やかなものだった。

 けれど私は知っていた。
 その瞳が宿す光の中に、一筋の羨望と嫉妬が含有されていることを。
 何故なら私自身、いつも同じ瞳で彼を見つめていたのだから。



* * *



 自室に戻り、適当なハンドタオルを手にして洗面所へと向かった。淡いブルーのタオルを水道水で濡らし、少し緩めに絞る。両手を濡らす水の冷たさが心地良い。蛇口からしゃあしゃあと流れる水がどんどん排水口に飲み込まれていく。自分の中で渦巻くこの感情も、このまま流されてしまえばいいのに。
 きゅ、と蛇口を捻って水を止めた。遠くで鴉の鳴き声がする。夕陽が水滴に反射して少しだけ眩しかった。




「いってぇ……」

 晴矢の部屋の前まで来たとき、扉の向こうから届いた声に予想通りだと小さく嘆息した。どうせ冷やしもせずに放っておいているのだろう。サッカーでは脚が主体であるとは言え、怪我を処置もせずにしておくなどスポーツ選手としてはあるまじき行為だ。愚か者の顔を見てやろうと扉を開けたら、そいつは寝台に横たわって何やらぶつぶつ呟きながら赤くなった手を握っては開いての繰り返しをしていた。そんなことをしてどうなると言うのか。

「そんなことをしても意味がない。ちゃんと冷やすんだ」
「……風介」

 声を掛けて漸く私が居ることに気づいたらしい。少し瞠目して、放り投げたタオルを受け取りながらばつが悪そうに顔を歪めた。

「……礼は言わねえぞ。そういう決まりだからな」
「そんなの、百も承知だ」

 視線を合わせず言われた言葉に一瞥で返した。礼なんて欲しくない。そんなもののためにこんなことをしている訳じゃない。
 それから晴矢はしばらく黙り込んだ。何を考えているかは想像に難くない。晴矢はいつだって頭の片隅ではあいつのことを考えている。あの柔らかな視線の先にいる人物のことを。


「……なあ、風介」
「なんだ」
「なんでこう、世の中上手くいかねーのかな」

 そんなのは私が一番知りたい。知りたくてたまらない。

「さあな。それが分かれば誰も苦労はしない」
「……だな」

 馬鹿なことを訊いた、と晴矢は苦笑してみせた。それから誤魔化すように手の痛みを訴える。もう一度タオルを濡らしてやろうかと尋ねたが、自分でやるからと断られた。もう部屋へ帰れ、と。
 夕陽はだいぶ傾いて、数分もしないうちに夜の帳が降りてくるだろう。だから晴矢の言うことは尤もだ。尤もだが、私はその言葉に確かな隔壁を感じた。今、晴矢は一人になりたいのだろう。長居をする気もなかったのでその言葉に頷き、ドアノブに手を掛ける。蝶番がきい、と鳴った。
 しかし扉を閉める直前になって、小さく声が掛けられる。

「……風介」
「なんだ」
「ありがと、な」
「……貸し借りなしじゃなかったのか?」
「今だけだよ。もう言わねえ」
「……ああ」

 ああ。この瞬間から私達は本当に、つがいではなくなってしまったのだ。いつだって公平で対等だった私達はもういない。
 晴矢が告げた一言によって、感謝も謝罪も要らないと、そんなものなど必要ないという私達の暗黙の了解は破られてしまった。今この時から、或いはもっと以前から。私と晴矢の間には決定的な隔たりが生まれてしまったということに、私は嘆くでも悲しむでもなく、ただ途方も無い虚無感を覚えた。

 今度こそ扉を閉じ、足早にその場を後にした。知らない間に握り締めていた手の先が冷たくなっている。たかだかタオルを濡らしただけでこんなに冷えてしまうものだろうか。手だけではなく、まるで全身が凍りついてしまったかのようだ。



「……あれ、風介?」

 聞き覚えのある声に、やや俯きがちだった頭を上げる。つくづく今日は厄日のようだ。出来ることなら現状では一番会わずにいたかった、少し高めの声の主。

「……リュウジ」
「どうしたんだよ、酷い顔色してる」
「いや、何でもない。少し気分が優れないだけだ」
「え、大丈夫か?」
「ああ。休んでいればすぐに治る」

 そう告げてもリュウジはなおも心配そうな顔をしていたので、私は安心させるように小さく笑って見せた。白々しいのは自分でも自覚していたが、今はとにかく会話を終えて立ち去ってしまいたかった。自分の弱い心が醜い感情で決壊してしまう前に。

「なんか砂木沼さんから、晴矢とヒロトが揉めたらしいって聞いて。ひょっとして風介も関係してるのかなって思ったんだけど。まさかそのせいで?」
「いいや、本当にただ単に具合が悪いだけだ。少し寝不足だったからな」
「そっか……良かった。いや、良くはないのか。お大事にな」
「ああ、済まない」

 揉めた原因が自分にあるだなどと、きっと思いもしないのだろう。
 頼むからもう黙って行かせてくれ。そんな目で見ないでくれ。私の薄っぺらい矜持は、今この時にもひび割れてしまいそうなんだ。この汚くて醜い――嫉妬という感情を、君にぶつけてしまう前に。

「じゃあ、もう休むからこれで」
「あ、うん」

 私の表情の暗さを体調不良が原因だと思ってくれたのか、それ以上食い下がろうとはしなかった。再び顔を俯けて、リュウジの脇を通り過ぎようとする。
 だが。





「……俺は、後悔なんてしてないから」


 

 すれ違い様に耳に届いた言葉に、私は瞠目して足を止めざるを得なかった。

「……リュウジ、」
「俺は、ヒロトの役に立ちたい。それが叶うなら何を犠牲にしてもいい。誰かを傷付けても、何かを失っても。それでも構わないって思うくらいに、ヒロトのために在りたいんだ」
「……そのために、自分を捨ててでも?」

 私の問い掛けに、リュウジは泣きそうに微笑んだ。それからほんの一瞬瞳を閉じ、次に開いたときにはもう、そこに先刻の面影はどこにもなかった。


「勿論です、ガゼル様。それこそが私の望みですから」


 そこにいたのはあの泣き虫で人懐っこい緑川リュウジではなく、ジェミニストームのキャプテン・レーゼだった。グランの為に生きると決めた、氷のように冷たい瞳と表情をしたエイリアの使徒だった。

 私はそうか、と一言呟くと、今度こそその場を立ち去った。






 明日、エイリア計画は実行に移される。
 彼がどこまで私や晴矢のことに気付いているのかは分からない。ひょっとしたら何も知らないのかも知れない。それでもあそこまで言い切ってしまえる強さが、私にはどうしようもなく眩しく思えた。
 私も晴矢とそうありたかった。晴矢の傍で、晴矢のために存在していたいと伝えたかった。けれども晴矢は私ではなくリュウジを望んだ。それならば私が晴矢に出来ることはなんだろう?



「……ああ、なんだ。簡単なことじゃないか」


 たとえ晴矢が私を欲していなくても。私は私として、晴矢の傍に居ればいい。それが茨の道であっても。
 全てをヒロトに捧げると決めた、リュウジのように。

「意外と私達は、似たもの同士なのかも知れないな……レーゼ」




 たとえつがいになれなくとも、私は晴矢を支えていよう。





 それが私の、想いの証だ。






end.



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