そのめをにくんだこどものみるゆめ





 あいつは昔から負けず嫌いで、ちょっとしたことにもすぐ対抗意識を燃やした。そしてそのために努力することを惜しまない人種だった。誰よりも喜び誰よりも怒り、誰よりも哀しみ、そして誰よりも楽しそうにしていた。誰よりもよく笑っていた。
 その笑顔はいつからか、とある特定の人物の前でだけ変化するようになった。いつもからりとした満面の笑みをしていた奴が、そいつの前では少しだけはにかんだ後、花が咲いたような笑顔を浮かべるようになった。俺はいつもその笑顔を少し離れた場所から見るばかりで、それでもとても綺麗だと思った。その笑顔を正面から見たいと思わない日はなかったけれど、その横顔を見られるだけでも幸せだった。
 だけどそんな俺のささやかな幸せももう壊れてしまった。俺達がもうひとつの名前を得たその日から。



「……いってぇ」

 人を全力で殴ると、殴った方にもそれなりの代償がある。赤くなった拳は未だに痛みが引かない。何度か手を握ったり開いたりしていても何も変わりはなかった。

「そんなことをしても意味がない。ちゃんと冷やすんだ」
「……風介」

 自室のベッドに横たえていた身体を起こすと、入口のところには風介が濡れタオルを持って立っていた。緩い弧を描いて投げられたそれを無事な方の手で受け取り、患部に当てる。ひりひりとした痛みを伴う熱がタオルの冷気で中和されていく。

「……礼は言わねえぞ。そういう決まりだからな」
「そんなの、百も承知だ」

 昔から何かと馬が合う、というか悪友や喧嘩仲間とでも言うべきこいつとの間には、お互い何をしてもされても貸し借りなしという条約を結んでいた。何しろ仲違いも仲直りも十数分単位で行うのが日常茶飯事だったので、そのたびに謝ったりだの礼を言ったりだのしていたらキリがない。そもそも一々言葉にして確認しなければならない程薄っぺらい間柄ではないのだ。

「それで、頭は冷えたか」
「……分かんねえ」

 先程の怒りの波はもう引いた。けど今再びヒロトの顔を見てしまったら、また殴りかかろうとしない自信は正直なかった。
 リュウジがヒロトのことを好きなのは確かだ。ずっと見ていたのだからそれは分かる。そしてヒロトも少なからずリュウジを好いているのだと思っていた。いつも表面だけで笑っているようなあいつが、リュウジの前では本当に微笑んでいるようだったから。言葉の節々に隠れ見える感情からも、リュウジを大切にしているのだということが読み取れた。
 けれどあいつは、そんなリュウジに最も辛い任務を与えた。先陣をきって各地の学校を破壊していくこと。エイリア学園の恐怖とその圧倒的な力を世界中に知らしめること。
 あの泣き虫には一番不釣り合いなことを、あいつは何食わぬ顔でリュウジに命じたのだ。




『晴矢、痛い? ごめんな、ごめんな』


 今にも泣き出しそうな声が耳の奥に蘇る。

 いつのことだったろうか。もう随分昔のようで、つい最近でもある気がする。お日さま園の庭でサッカーをしていた俺達は、ボールを強く蹴りすぎて近くの木の上に引っかけてしまったのだ。確かあのボールを蹴ったのはリュウジだった。俺と風介のチームに一点先制されたあいつは、ついムキになって力を入れすぎたのだ。
 梯子を持ってくるまで待てという制止の言葉も聞かず、リュウジは木によじ登ってボールを取ろうとした。そして見事に失敗して地面に落下したのだった。
 俺はリュウジが足を踏み外した瞬間に無我夢中で駆け出し、あいつの身体を受け止めようとした。けれど相手が赤ん坊や小動物ならともかく、同年代の人間をキャッチするのは流石に無理があった。結局そのときはリュウジと地面との間で煎餅のように伸ばされ、挙句右腕を負傷してしまうというなんとも情けない結果に終わった。
 風介は盛大にバカにしてきたが、当のリュウジはこっちが哀れに思えるくらいに恐縮していた。無茶をするなと瞳子さんに大目玉を食らっていたときも、俺の服の裾を掴んで涙目になって俯いていて、それからは俺の怪我が治るまで、付きっきりで世話を焼いてくれていた。俺がちょっとした拍子に走る痛みに顔を顰めると、まるで自分もその痛みを感じているみたいに。俺以上に痛そうな表情をして。
 
 違うんだ。そんな顔をさせたい訳じゃないんだ。そんな顔が見たかった訳じゃないんだ。
 ただ、俺は。




「……なあ、風介」
「なんだ」
「なんでこう、世の中上手くいかねーのかな」
「さあな。それが分かれば誰も苦労はしない」
「……だな」

 窓から差す西日を背に受けている所為で風介の表情はよく見えない。

 ヒロトに例の任務を言い渡されたとき、リュウジは全くの無表情のままそれを承諾した。それはあの感情豊かな普段の様子からは考えられない姿だった。俺が考え直せと肩を揺すっても、本当にそれでいいのかと風介が尋ねてもリュウジは動かなかった。言うだけ言って去っていこうとするヒロトを取っ捕まえ、あいつの代わりに俺にやらせろと頼んでもそれはすげなく却下された。その間リュウジは終始ぴくりとも表情を変えず、最後の最後でほんの一瞬、その場の空気に溶けてしまいそうな程微かに微笑んでこう告げたのだ。


『全て、貴方の望む通りに。グラン様』



 どこでどう間違ったのか。或いはどこも間違ってなどおらず、こうなることは避けられない運命だったのか。運命なんて、この世で一番嫌いな言葉だけれども。
 もし、もっと強く望んでいたら。傍から眺めるだけで良しとせず、あいつの笑顔が欲しいと積極的に働きかけていたのなら、俺の声も少しはあいつに届いたのか。あいつにばかり辛い役目を背負わせることもなかったのだろうか。全ては仮定の話でしかない。

「……あー、まだ手が痛え」
「後先考えずに行動するからだ。もうタオルも温くなった頃だろう。また濡らしてくるか?」
「いや、いい。自分で行く。お前も部屋に戻れよ」
「……そうか」

 そう告げると風介は頷き、部屋を出て行った。扉が閉まりきる直前に、その背に小さく声を掛ける。

「……風介」
「なんだ」
「ありがと、な」
「……貸し借りなしじゃなかったのか?」
「今だけだよ。もう言わねえ」
「……ああ」

 ぱたん、と扉が閉められて、完全な静寂が訪れた。右手に巻いたタオルを握り締め、音を立ててもう一度ベッドに寝転がる。
 リュウジの代弁者のつもりでいた。何も言わないあいつの為に、あいつの痛みや哀しみを拳に込めてヒロトにぶつけてやった、そう思っていた。
 けれどその感情の中に、些かの嫉妬も含まれていないなどと、果たして言い切れるだろうか?


「……畜生……っ」


 ひどく醒めた様子で自分を見ていたヒロトの目を思い出す。あの底が見えない翠。きっと自分が知らないリュウジの表情を、たくさん映してきた双眸。
 羨ましかった。妬ましかった。悔しかった。

(ああ、そうだ。あいつの為でも何でもない。俺はただ、)



 自分が見たかったもの全てを見ることのできる、あの目が憎らしかったのだ。


 自覚した途端に惨めな気分になった。結局自分は離れて見ていた子供の頃から何一つ成長してはいなかった。挙げ句心の奥に眠る浅ましい感情を暴力という形で露呈させてしまった。ずきずきと痛むのが拳なのか胸なのか、最早そんなことすら分からなくなって。

 それでも。自分は見てみたかったのだ。横顔しか知らないあの笑顔を、真っ直ぐに。
 自分に向けて、欲しかった。



「……ちくしょう……っ」




 あの翠の眼に映るものを、自分も見ることが出来たなら。
 それが不毛な願いだと分かっていながらも、望まずにはいられなかった。






end.




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